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(4)
タイガ君が向かった先は、校舎の屋上だった。
「Kotori!」
突き抜けるような晴天の下で、タイガ君は思い切り私に抱きついた。
熱い涙が胸元に滲んでいくのを感じながら私は、タイガ君の背中をずっとさすっていた。
「母さんは、昔からずっと体が弱かったんだ」
タイガ君はぽつりぽつりと話してくれた。
お父さんはいつも仕事で忙しかったこと。でもお母さんがいたから寂しくなかったこと。時々かかってくるお父さんからの電話に、お母さんはいつも嬉しそうにしていたこと。
「でも、電話のあとの母さんは、いつも決まって寂しそうな顔をしてた」
顔を下に向けながら、タイガ君はぎゅっと拳を握る。
「父さんは、母さんの気持ちなんて全然分かっていないんだ。今回日本に来たのだって、映画の仕事がこっちであるからついてこいって突然言ってきて。母さんの具合があんまり良くないからって言ってるのに、全然聞いてくれなくて……っ」
再びせり上がってきた涙が、ぽろりと頬をたどる。その涙をそっと指で拭ってあげると、タイガ君はいよいよ我慢の糸が切れたように泣き出した。
「俺……父さんのこと、嫌いって」
「うん」
「嫌いだって、言っちゃった」
「うん」
「父さん……すごく、傷ついた顔をしてた」
くしゃりと顔を歪ませたタイガ君が、再度私の胸に顔を埋める。
「っ、どうしよう、俺っ」
「大丈夫だよ」
「どう、しよう……っ!」
涙に濡れた瞳は、不謹慎ながらとても綺麗だった。
「大丈夫だから。お父さんもきっと、わかっているから」
「……っ」
「大丈夫、大丈夫……」
腕の中でいまだに肩を震わす彼を、落ち着けるように宥めていく。
正直、逢坂さんの態度も少し冷たいような気もした。それでも、逢坂さんもタイガ君のことをきちんと思っている。血を分けた親子なんだ。こんなことで離れるようなことがある訳ない。
「タイガ君さ、海辺で言っていたじゃない? 言いたいことがあるならはっきり言えって」
問いかけるように見上げられたつぶらな瞳に、私は笑みを返す。
「あの言葉ね。あの時のお姉ちゃんには、結構効いたんだ」
私の胸を真っ直ぐ射抜いたあの言葉。お陰で私は、自分の気持ちと向き合おうと思えた。
今度は私がタイガ君の背を押す番だ。
「タイガ君は、お父さんのことが嫌いなんじゃないんだよね」
「……うん」
「お母さんのことをもっと大切にしてほしいだけなんだよね」
「っ、うん」
「本当は……お父さんのこと、大好きなんでしょう?」
「……っ」
うん、そう小さく頷いた彼の頭を撫でる。
「じゃあ、ちゃんとそう伝えなくちゃ。さっきのは間違いなんだって。タイガ君の本当の気持ちを」
「っ、けど……」
俯いたタイガ君が、弱々しく逆接を紡いだ。
「俺、知ってるんだ。父さんが俺に何か隠し事をしてるって。はっきり何かを聞いた訳じゃない。でも何となくわかるんだ。子どもの俺にだって、それくらい」
「タイガ君」
「どうして、大人はみんな簡単に嘘とか隠し事とかするんだ」
再びこぼた涙が、タイガ君の頬に筋を作る。
「隠される方は、こんなに、辛いのに……!」
(俺は何か……貴女に嫌われるようなことをしたんでしょうか?)
愛しい人の、悲痛な表情とシンクロする。同時に思い知ったのは自分の浅はかさな思考だった。
私は自分の心を守ることに精一杯で、彼に嫌われたくない一心で、全ての感情に蓋をしようとしていた。
私の、勝手な自己保身のために。
「それじゃあ……お姉ちゃんと競争しようか。タイガ君」
「え?」
「お姉ちゃんも、もう、嘘をつくのはやめにするよ」
遠回りしてようやくたどり着いた、単純な答え。
「お姉ちゃんは自分の好きな人に、ちゃんと自分の気持ちを伝えるから、タイガ君はお父さんとちゃんと仲直りするの。どっちが早く相手に正直になれるか、競争だよ!」
「で……でも」
「あれ? もしかして、自信ない?」
「だ、誰がっ!」
顔を真っ赤にして反論するタイガ君に、ふっと顔が綻ぶ。
プロジェクト真っ最中の今、個人的な感情をぶつけるわけにはいかない。それでも、このプロジェクトが終わったら、きっと。
「よーし! それじゃ、競争スタートだよ、タイガ君!」
「望むところだ!」
すっかり戦闘モードに入ったタイガ君と向かい合った私は、宣誓の握手を交わした。
屋上を吹き抜けた風は、どこまでも爽やかな夏を運んでいた。
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