第10話 沙羅さんは私の想い人

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(4)  意外にも、私が話している間、先生は終始無言だった。 「成る程な。昨日のお前の様子の理由は、ある程度理解した」 「恐縮です」  内容は必要最低限に止めたが、起こった事実をただつらつらと言葉にする作業は、思いの外気持ちよかった。 「情けないお話と言いますか、ただの失恋話なんですが」 「お前がそれを『失恋』とするならそうだろうな」  ……え? 「負け犬はとっとと尻尾を巻いて去ると良い。俺にとっては好都合だ」 「それ、は」 「俺が沙羅君を自分のものにしようと決めたのは三年前だ」  唐突な告白に、目を見開く。 「それ以来、告白は大体三ヶ月に一度はしてきた。それと同じだけ断られているがな」  日下部先生はニヤリと口角を上げる。 「周りが尊敬するか侮蔑するかは問題じゃない。彼を振り向かせればいいだけだ」 「いいだけ、って」 「強引に事を運ぶことも考えなくはないが、まあそれは宜しくはないだろう」 「あ、当たり前ですっ!」  顔を熱くした私は、慌てて声を張り上げた。  歯に衣着せない先生の言葉に、思わず先生が強引に「事」を起こすシーンが頭をよぎってしまったのだ。  二人の美しい男性が、とろけるような瞳で唇を近づけていく――って、ダメダメダメ! 想像しちゃダメ! 沙羅さんを勝手に色っぽい顔にさせちゃダメ……! 「話が逸れたな。とどのつまり、お前が自分で『この恋は終わった』と判断するなら、こんな喜ばしいことはない。沙羅君にまとわりつく女は多いからな。一人でも居なくなるに限る。近況報告ご苦労だったな」 「──ッ、ま、待って下さいっ!」  爽やかな表情でソファーから立ち上がった日下部先生に、私は無意識に手を伸ばした。  振り返ったその眼差しは、驚くほどに冷たい。 「何だ?」 「あ、あの。わ……私は……!」 「『まだ沙羅さんを吹っ切れたわけでも、告白したわけでもありません』」  静かに耳に届いた言葉に、息をのむ。 「大体こんなところだろう。月並みな反論だがな」 「ど、して……?」 「俺を誰だと思ってる」 「きゃっ!?」  急に押された肩への衝撃に、身体のバランスを崩す。尻餅をついた先のベッドに勢いよくバウンドした私は、さらに強い引力を持ってベッドに倒された。ついさっき引き留めるために自ら伸ばした手が、今は両手とも強制的に先生の手と繋がれている。  ぼんやりと陰った先生の後ろ側に、部屋の天井が見えた。これは。  え、押し倒されてる? 「むっ、んん……!?」  とっさに大きく息を吸った私の口を、日下部先生は難なく手で塞いだ。 「騒ぐな。色気のないどチビを犯す趣味はねぇ。俺はさっき言ったな。洗いざらい吐けと」  至近距離からの鋭い眼光に、最高潮に混乱していた私はビクリと肩を揺らした。 「俺は同じ事を二度聞くのは嫌いなんだ。手を煩わせるんじゃねぇよ、このドチビ」 「っ、す、すみませ……!」  見下ろされた先の金髪が危うげに瞬く。  遠慮のない視線が私の心までも見通していそうで、心臓がどくりと大きく跳ねた。 「人見知り激しい、もともと男は極度に苦手、自分の気持ちを伝えることも苦手。察するに沙羅君が初恋だろう」 「先生は、人の心が読めるのですか……?」 「馬鹿か。てめーが分かりやすすぎるんだ」  呆れたように吐き捨てた日下部先生は、私の頬を無遠慮に摘んだ。 「い、痛いです……っ」 「だからこそ昨日はお前の急な変化が余計に際だった。ただ、それだけだ」 「……?」  きゅうっと摘まみ上げられた頬が、そっと離される。それ以上の追求の言葉がないことに、私は窺うように視線を上げた。 「せん、せい?」  ベッドのスプリングが音を立てる。  同時に先生のまとう紫の着物が私の腰に触れ、再び鼓動が早鐘をうち付け始めた。  ちょ、近い……!。 「何を、しているんですか」  全ての音が、全てかき消えたように思えた。  ただ、いつの間にか扉の近くに立っていた人物を見て、私は目を剥いた。 「誤解するな。いつもの人間観察だ。沙羅君」  悪びれる様子もなく、日下部先生はゆっくりと私の上から避けた。途端部屋の明かりが目を射して、私はさっと目を細める。 「冗談が過ぎます、日下部先生」 「そう目くじらをたてるな。服を脱いでいたわけでもないだろう?」  あまりにストレートな物言いに、私の身体は一気に熱を帯びる。  沙羅さんは酷く冷たい眼差しのまま、向かってくる日下部先生を見据えていた。 「貴方に殴りかからなかったのが、不思議なくらいです」 「ふは。そりゃあ貴重な機会を逸したな」 「十二時から昼食休みです。一度控え室にお戻り下さい」 「わかったわかった」  ひらひらと手を振った日下部先生は、ちらりとこちらを振り返った後、部屋を後にした。  残された私と沙羅さんの間に、重い沈黙が降りてくる。  呆然としていた私だったが、沙羅さんの瞳がこちらを向いたことに気づきはっと我に返った。中途半端に起こしていた上体を慌てて起こし、乱れた髪を素早く整える。 「あ、あの……っ」  迎えにきてもらってすみません? 私なら大丈夫です? 今のは本当に先生の人間観察の一貫なんです? 浮かんでは消え、浮かんでは消える言葉は、どれも陳腐に思えた。  ただ、今どうしても伝えなくちゃいけないことは。 「私っ、キスなんてされてませんから……!」  とっさに出た言葉だった。 「何もありませんから! 日下部先生は何もしてませんし、私も何もされてません!」 「小鳥さん?」 「私……っ、こんな小さい身体で力もさほど強くないですけど、そ、それでもっ」  ベッドのシーツをぎゅっと握りしめ、目一杯に声を張った。 「それでも……好きな人以外に、キスを許したりしませんから……!」  やけに部屋に響いた自分の声に、すうっと冷静さが戻ってきた。  無言のままゆっくり顔を見上げると、沙羅さんの瞳が見開かれている。その頬はどこか赤らんでいるようにも見え、自分の失態にようやく気づいた。まさに昨日、沙羅さんのキスを受け入れようとした自分が、そんな宣言をするということは。  まるで、遠回しな告白みたいじゃないか……! 「小鳥さん」 「は、はひっ!?」 「ふ……ははっ」  予想外に目にした、沙羅さんの笑顔だった。  それはまるで子供のように無邪気なもので、いつもの沙羅さんのイメージとは遠い。 「あ、あの、沙羅さん?」 「ふふ……すみません。安心してしまって」  首をかしげた私に、沙羅さんは穏やかな微笑を浮かべて近づいてきた。ごく自然に頭に乗せられた手のひらに、次第に身体の強ばりがほぐれていく。 「怖い思いはしませんでしたか?」 「は、はい。日下部先生はいつも通り怖かったですけど……でもそれも、いつも通りです!」 「じゃあ、痛い思いも?」 「? だ、大丈夫です! 押し倒されたのも、ベッドの上だったので!」 「……」 「沙羅さん?」 「……そうですか。わかりました」  ものすごい沈黙の後、沙羅さんはにこりと笑みを見せた。 「そろそろ行きましょう。小鳥さんもお腹が空きましたよね」  慌てて荷物を整えた私は、沙羅さんと肩を並べてスタッフ控え室へ急いだ。何気ない会話を交わしながら、私はちらりと沙羅さんの横顔を見上げる。  さっきの言葉、沙羅さんはどう思ったんだろう?  聞きたいような聞きたくないような、複雑な気持ちが胸にうずまく。いや。こんなので伝えた気になってたらダメだよね。  何故日下部先生があんな、敵に塩を送る言葉をくれたのかはわからない。でもあの言葉が、私のお尻を容赦なく叩いてくれたのは事実だった。  今までだってそうだった。いろんな人が勇気づけてくれて、なのに私は臆病風に吹かれて、その繰り返しで。  それでも、最後は自分の力で想いを向き合うしかないんだと、ようやく気づいたから。 「沙羅さんっ!」  控え室にさしかかる手前、私は必要以上の声量で彼を呼び止めた。ドキドキとうるさい心音が、身体中を熱く震わせる。 「その。今夜、会社に戻った後、チームのみんなで飲み会がありますよね……?」 「そうですね。柊チーフが生粋の飲み会好きですから」 「は、はい……それで、あの……っ」  俯く頭上で首をかしげる気配がした。いつもはここで、不安と自信のなさで立ち止まってしまったと思う。  さあ、一歩進まなきゃ。 「その……もし良ければ、飲み会の前に……お時間、を、もらえますか……っ?」  今ある勇気をかき集め、顔を上げた。きっと、すごく情けない顔をしていたと思う。 「沙羅さんに、お話したいことがあるんです……!」  喉が乾ききっていることに、今更気づく。  言葉にするのに精一杯だった私は、頷いた沙羅さんの表情までは確認できなかった。
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