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(2)
「この度は誠に申し訳ございませんでした!」
「うんうん。いいからもう顔を上げて」
けたけた笑う中谷監督に、私は深々と頭を下げた。スタッフ数名がこちらを遠巻きに眺めながら、ことの成り行きを見守っている。
「この度はこちらの不手際で大変失礼いたしました、中谷監督」
「柊さんももういいよ。僕たちの仲じゃない」
監督のいる部屋へ向かう間、沙羅さんはすぐに電話で柊さんにも連絡を付けていた。
私たちとほぼ同時にたどりついた柊さんと三人で、監督に詫びを入れる。
「ま、相手に寄ればこうはいかないだろうな。これからは気をつけるようにね」
「はい、本当に申し訳ございませんでした!」
あっさりと謝罪が済んでしまったことに、逆に胸がざわついてしまう。スタッフの人によると、中谷監督は確かお怒りだったはずだ。
「腹の中では怒ってるんじゃないか、とお考えかな」
にたりと笑みを浮かべる中谷監督に、言葉を詰まらせてしまう。そんな私を見て、隣に並ぶ柊さんが苦笑を浮かべた。
「監督、いい加減そのからかい癖はやめてくださいって」
「小鳥さん、本当にもう頭を上げていいですよ。これ、中谷監督の恒例イタズラですから」
「こ、恒例?」
「こらこら沙羅君、人聞きが悪いな」
はっはっは、とお腹を大きく揺らす監督に、私はぽかんと呆気にとられる。
「中谷監督は、可愛い新顔には決まって困った表情をさせて楽しむ癖があるんです」
「どうせスタッフにも、自分が怒ってると思わせるように指示をしていたんでしょ、中谷監督?」
「え……ええっ?」
沙羅さんと柊さんの説明に、私は間抜けな声を上げてしまった。中谷監督の快活な笑顔と後ろに控えるスタッフの申し訳なさそうな表情を見るに、どうやら真実らしい。
「でも資料のページが飛んでいたのは本当だぞ? ほら、ここのページが抜けてる」
「は、拝見いたします……!」
差し出された資料は、確かに一部分が紛失していた。
「でもなぁ、すぐさま換えの資料をもらえるとは思っていなかったからな。小鳥ちゃんは想像以上に優秀だねぇ。気に入ったよ」
「いいえっ、ご迷惑をおかけしました!」
「ははっ、それじゃ迷惑ついでに少し肩を揉んでもらったりとか、食事に同伴してもらったりとか~」
「「申し訳ありませんが」」
冗談混じりに監督が言い終える前に、私の前に二つの人影が立ちはだかった。
「小鳥ちゃんは、俺たち林プロの大事なスタッフの一人なので」
「度が過ぎるとセクハラで訴えますよ、中谷監督」
「ひ、柊さん、沙羅さん……っ?」
何やら黒いオーラをまとって監督に詰め寄る二人に、私は目を白黒させる。
「はははっ、手厳しいねぇ、小鳥ちゃんの周りの野郎共は」
ひらひらと手を振る監督をよそに、私は二人に背を押されてその場を後にした。
「だ、大丈夫でしょうか、中谷監督は……?」
「大丈夫ですよ。中谷監督が見たかったのは、小鳥さんの誠実な対応ですから」
「資料の紛失自体には、はなから気にしていなかっただろうからな、あの人は」
「は、はあ……」
沙羅さんと柊さんが言うのなら、きっと大丈夫なのだろう。中谷監督……少し変わってると思っていたけれど、人としての懐が想像以上に深い人なのかもしれない。
「それにしても、小鳥さんが資料の控えを持ち歩いていたとは思いませんでしたね」
「そーそー。カバンの中から控えを出してきた時は、俺も驚いたなぁ」
「い、いいえ! 一応、念のためにだったんですが」
以前、戸塚さんの新婚旅行中に起こった小さな事件。大切な資料が紛失したあの時のこともあって、必要そうな資料は極力持ち歩く癖をつけていたのだ。
「お二人とも、本当にすみませんでした!」
「いやいや。俺も資料の確認の時に見落としたわけだからなぁ、連帯責任!」
「いえ、でも私が昨日準備を引き受けたわけですから」
昨夜の不手際なら完全に私の責任だ。柚たちと飲みに出かける直前に、資料の印刷とホッチキス留めを済ませたはずだったのだから。
「沙羅さんも、本当にすみませんでした!」
「……頭を上げて下さい。俺も、全然平気ですよ」
沙羅さんは少しの間を空けて笑顔を浮かべた。その手元には、先ほど監督から受け取ったページの抜けた資料がある。
「沙羅さん。もしかして気になることが?」
「いいえ。それより、他の方の資料も一度確認した方がいいでしょうね。そちらも同様に抜け漏れがないとも限りませんから」
「あっ、そ、そうですね!」
的確な沙羅さんの意見に、私は手帳に書かれた各出演者の昼食場所を確認した。ホテル内の食事処でそれぞれ昼食をとっているのだが、ここからだと朝比奈さんたちのいる料亭が一番近い。
「私、皆さんの資料も確認してきます!」
「それじゃあ俺も一緒に」
「大丈夫です。資料の不備を確認するだけですから」
すかさず口を開いた沙羅さんに、私は首を横に振った。
「それに……柊さんがさっき言ってくれましたよね。私のことを、林プロの大事なスタッフの一人だって」
沙羅さんの後ろにいた柊さんも「え?」と目を丸くする。
「今回のプロジェクトを任されたときは、正直私には不相応だと思っていました。私なんかに何が出来るのか……なんて」
「小鳥さん」
「でも」
優しい沙羅さんの呼びかけを、笑顔で遮る。
「私もこのプロジェクトの一員として、成功させるために出来る限りのことをする覚悟は出来ていますから……!」
カバンを肩に掛けなおした私は、沙羅さん立ちに顔を上げた。
「だから、私一人でも大丈夫です。万一何かあったら、すぐに連絡しますから……!」
ぺこりと頭を下げた後、私は再び廊下を駆けだした。
そんな私の背後で交わされていた沙羅さんと柊さんの神妙な会話は、私の耳には届かなかった。
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