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(2)
「じゃあ、五歳くらいの子供と入れ替わりにその女性はこの料亭に入っていって、数分後にまた一人で出ていったんですね?」
ホテル内の食事処のひとつ、料亭『雪の郷』で、高梨柚の声が凛と響いた。
「はい。エレベーターに乗られたと思います。でも何階に向かわれたかまではちょっと」
苦い顔を浮かべた料亭のレジの女性の隣から、「あ、それなら」と別の女性が言葉を引き継いだ。
「俳優の逢坂さんとお話していた、少し小柄な女性ですよね? あの方なら、二十階に向かわれましたよ」
「本当ですか?」
「ええ。二十のボタンをすごい勢いで押してましたから、よく覚えてます」
間抜けな姿を見られていたものだ。
高梨は、容易に思い浮ぶ親友の必死な姿に思わず口元を緩めた。
頭を下げた後、料亭を後にする。彼女の美しいショートヘアが、涼しげに揺れた。
「二十階はもう、隅々まで探したのに」
逢坂さんの子供も見当たらない。インタビュー前の逢坂さんの様子から察するに、きっとまた親子喧嘩をしたんだろう。
もしかして小鳥は、タイガ君のことを追ってどこかへ?
「まったく」
いったいどこに行ったのよ。バカ小鳥──。
先ほどまですぐ隣にいた笑顔。それが忽然と姿を消すなんて。
頭に浮かぶ心配と後悔に胸を詰まらせながら、高梨はエレベーターが目的のフロアに着くのを待った。
◇◇◇
「ぐ、ぎぎぎぎ……っ」
くそう。ダメだ。届かない。
部屋の中を一通り探索し終えた私は、現在窓の前で目一杯背伸びをしていた。
目当ては上段に備えられた小さな窓。この階は高いから、転落防止も兼ねて天井近くの小窓しか開かないようになっている。
別に、開けたから何がどうってわけじゃないが、男が帰る前に何かしら手を打っておいた方がいい気がする。
イスの上に乗ってもままならない高さにある開閉ハンドルに、思わず眉を寄せる。
「もうっ、小さい人間に優しくない設計め」
小さく悪態をついた後、腕時計で時刻を確認した。
「十三時五十五分……か」
十三時から始まる対談形式のインタビューは、十四時と十五時に十分休憩を挟む。
「そろそろ、一回目の休憩の時間だな」
それも、自分のせいでインタビュー自体がおしゃかになっていなければの話だ。
補佐とはいえスタッフ一人が姿を消したことは、インタビューを受ける方からすると印象の良いものではないだろう。でも、タイガ君一人が誘拐されるよりは、今の方が百倍ましなはずだ。
くるりと振り返り、ベッドでいまだに寝息を立てているタイガ君に視線を移す。
年相応以上にしっかりしているけれど、やっぱり寝顔はまだちゃんと子供だ。胸の中が、じんと温かくなる。
そう言えば、沙羅さんも、昔に誘拐されたことがあるって言っていた。その話をしてくれたのは、確か戸塚さんから引き継いだ作業を徹夜で処理していた時だった。
(事件はつつがなく解決しましたよ。犯人も無事捕まりました)
わざわざ、私に話してくれた過去の話。さらりと話しているようだったけれど、きっと大きな心の痛手になったはずで……。
「……よしっ」
せめてタイガ君には、そんな恐い思いをさせたりするもんか。
渾身の力を込めて爪先立ちをしたかいがあってか、ようやくプルプル震える指先が窓の開閉ハンドルに届いた。
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