第12話 沙羅さんは私の想い人―3

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(4) 「これが、非常階段の近くに?」  第二休憩に入ってすぐに伝えられた事実に、沙羅は目を剥いた。 「この階の、エレベーターを降りてすぐの所です。柚ちゃんに聞いたんですけど、小鳥ちゃんって」 「ええ。小鳥さんのコンタクトでしょうね」 「そこには、片方だけしか落ちてなかったんですけど」  話にしか聞いたことがなかったが、ほぼ間違いないだろう。わざわざ黒のコンタクトを入れる人物は他に思い当たらない。  小鳥は日頃コンタクトをしている。その保護のためのメガネも。そのコンタクトを落として、自分で回収できない事態に陥ってるのだとしたら。 「おい、沙羅君」  とっさに部屋の外に駆け出そうとした沙羅の歩みは、いまだバルコニーから動こうとしない日下部の声により止められた。 「日下部先生」 「せっかくの休憩時間だ。こちらにきて、一緒に風に当たらないか」  沙羅は、一瞬表情が堅くなりそうになるのをこらえる。 「君がそこまで動揺しているのは初めて見たな」  どこまで内情に感付いているのだろう。  中谷監督には、一回目の休憩の際に彼女の不在について尋ねられた。朝比奈恵と母親は、メインのスタッフではないことからか、彼女の不在を不思議に思っていないらしい。  逢坂哲史は、息子のタイガの姿が見えないことを気にかけており、休憩ごとにマネージャーに様子を伺っているようだ。彼女の不在も息子が関わっていると思っているらしく、インタビュー直前には謝罪の言葉もあった。  そしてこの人は、インタビュー開始以降、一度もバルコニーから腰を上げようとしない。 「そこまで大切か。あのちびっ子が」  どこまでも見透かされそうな瞳が、静かに沙羅をとらえた。  その瞬間、満天の星を背景に美しい髪を揺らめかせ、幸せそうに夜風に歌う彼女の姿が、沙羅の脳裏によぎる。 「ええ。誰よりも」 「それなら、きっと君は悔しがるだろうな」  日下部が、どこか楽しそうに告げる。 「必死だった分、君は気づくのが私よりも遅かったらしい」 「先生?」 「前の休憩の時間から、私には“届いて”いたぞ」  彼の謂わんとすることが、微かに、でも確実に沙羅に伝わった。バルコニーを囲うヒマワリを無造作に避け、呼吸をそっと止める。  すると耳に届いたのは、焦がれてやまない歌声だった。    ◇◇◇ 「……」  ああ、駄目だったみたいだ。  微かに抱いた最後の希望が溶けてなくなるのを感じ、私は小さくため息を落とした。 「十五時十分、かぁ……」  インタビューが終わり、ここから解放される時間まであと五十分。こうなったら、犯人を刺激しないように無事に解放されるのを待つしかない。  開けてしまった窓をカーテンでそっと隠し、静かにベッドに近寄る。タイガ君はいまだにすやすや眠っていた。 「大丈夫だからね」  タイガ君の頬を、優しく撫でる。私のために、タイガ君の傷つけたりさせない。  その時だった。玄関に続く扉の向こうで、部屋の扉が開く音がする。大げさに肩がびくついたものの、私はすぐさまタイガ君を庇うようにベッドの前に立った。 「よお。どうやら、起きてるみたいだな」 「……はい」  扉の向こうから聞こえたのは、さっきと同じ男の声だ。 「ガキの方は? まだぐっすりオネムか?」 「この子に怖い思いをさせたら、私が許しませんから」 「ははっ、威勢がいいねぇ」  相変わらず、男の口調はどこか緊張感に欠けている。今はとにかく、この場を穏便に済ませるしかない。 「これから、あんたにももう一度眠ってもらう」  言葉の意味を理解するのと同時に、今まで堅く閉ざされていた目の前の扉が開いた。  そこに立つ男の姿に、私は思わず声を上げそうになる。男の顔には、ピエロのような仰々しい被りものがされていた。 「な、な……っ」 「騒ぐなよ。あんたに顔を見られるなと言われてるんでな」  目の前の不気味なピエロがにたりと笑った気がして、背筋が冷たくなる。  一歩、また一歩と近づいてくる男に、腰を抜かしそうになりながらも何とか耐えた。 「また、私を眠らせるんですか」 「ああ。起きたときには元の場所に戻ってる。荷物もちゃんと返してやるさ」  男の手に、ハンカチが握られてる。睡眠薬だろうか。じりじりと近づいてくる男に、体が微かに震えを増していった。 「へえ、寝かせた時は気づかなかったけど」 「え……え?」 「あんた、瞳が面白い色してんだな。もしかしてハーフか?」  ピエロの被りものをしていても、楽しげに笑っているのがわかる。  幼い頃から言われ続けてきたからかいに気がそれた瞬間、男の手がぐいっと私の顎を持ち上げた。 「っ、何を……!」 「だから、騒ぐなって。そこのガキを起こしたくないだろ?」 「……!」  すぐそこには、タイガ君が眠るベッドがある。 「危害を加えるつもりはないと、言ってませんでしたか……?」  なるべく平静を装って、問いかける。 「まあ、確かにこの被りものをしていちゃ格好はつかねぇか」  悟られないように、そっと胸をなで下ろす。 「でもよ。被りものをしてても出来ることだってあるだろ」  反応する間もなかった。  両手首を掴まれたかと思うと、そのまま絨毯の上に倒される。不気味なピエロと鼻先がくっつき、ドクッと心臓が大きく打ちつけた。 「や、やめ……っ!」 「少し触るくらい許せよ。減るもんじゃねえだろ」 「……!?」  何? 一体何を言ってるの、この人は。  まるで理解できない言動に、ますます意識が遠のいていきそうだった。 「あんなのに顎で使われてたらさ、少しくらいうまみを受けたくなるもんだろ」 「いや……、いやっ!」 「いいから黙れ」  男の声が急に低くなり、ひゅっと喉が鳴る。  予想してなかったわけじゃなかった。でもまさか、本当にこんなことになるなんて。  さっき日下部先生に押し倒されたときとは明らかに違った。男の声が、吐息が、空気が。全てが危険だと頭に響いてる。  嫌だ。嫌だ。こんなの。自分にまたがる男の手が、服の裾にゆっくり入っていくのを感じ、その潤みもついに決壊した。 「小鳥さん!」  幻聴かと思った。  何か大きな音が響き渡った瞬間、目の前を覆っていた男の影が消え失せる。そして私の体は、誰かの腕の中に抱きしめられた。  痛いほど強く打ちつける胸の鼓動が、誰かのそれと重なる。 「小鳥さん……もう、大丈夫です」 「……あ」 「遅くなって、本当にすみません」  ああ、やっぱり、来てくれた。  優しくて、甘い香りに包まれる。 「沙羅、さん……沙羅さん……っ」 「大丈夫です。俺はここにいます」  夢中ですがりついた胸板に、溢れる涙がしみこんでいく。自分が予想以上にぎりぎりの縁を立っていたのだと、ようやく気づいた。 「あーあーあー。男がへしゃげてるぞ。まーた派手にやっちまって」 「ひ、柊さん?」  続いて入ってきた柊さんに気づき、かっと体に熱が帯びる。  とっさに沙羅さんから体を離そうとしたが、その腕の力はなかなか抜けようとしなかった。 「小鳥ちゃん、今は勘弁してやって。慧人の奴、君のことめちゃくちゃ心配してたから」  向こうで伸びている男の腕を締め上げながら、柊さんがけたけたと笑う。  すると沙羅さんがようやく顔を上げてくれた。 「怪我は、ありませんか」 「はい。沙羅さんが、来てくれましたから」 「……どうしてですか」  え? 返事をする前に、沙羅さんはいつになく厳しい面もちで私を見つめた。 「どうして、あんな方法で俺たちに知らせようとしたんですか」 「あ……」 「歌声が届く状況なら、助けてくれと叫んだ方が、よっぽど発見も早かったはずです」  沙羅さんの言うとおりだ。  あの時──窓の外から“ある香り”が届いた。つい先ほど嗅いだ覚えのある、ヒマワリの花の香りだ。  この部屋は、意外とインタビューの部屋と近いのかもしれない。幸い、部屋の窓も細くだが開いている。  一瞬、すぐに助けを求める言葉を発そうと思った。でも、出来なかった。 「そんな声を上げたら……順調に進んでいるかもしれないインタビューがめちゃめちゃになってしまうと思ったんです」  その点、歌声ならまだその危険も少ない。どこかの部屋から漏れている歌声だと思えば、そこまで気も散らないだろう。 「それに……誰か助けて、なんて大の大人が叫んでいたら、タイガ君が目を覚まして怖い思いをしてしまいます」  過去に、沙羅さんが誘拐されたときに、心の傷を残すことになったように。 「すみません。ここにいたのが私じゃなければ、もっとうまく立ち回れたのかもしれないのに」 「小鳥さん……」 「小鳥っ!」 「小鳥ちゃん、無事なの!?」  部屋に駆け込んできた人物の姿に、今度こそ私と沙羅さんは体を離した。  次の瞬間、彼とは別の二人の腕に同時に抱きしめられる。 「柚! 戸塚さん!」 「馬鹿! どれだけ心配したと思ってるの!」 「また危ない目に遭ってるんじゃないかって、本当に心配だったんだよ!」  二人の言葉に、視界がぐにゃりと歪む。  ぽろぽろと頬を伝う熱い涙は、安堵の涙だった。
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