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「そこまで言うからには、私がそちらの女性スタッフと逢坂さんの子どもを監禁した証拠でもあるのかしら!?」
「残念ながら、貴女が二人を監禁したという確固たる証拠はありません」
心臓が大きく震え、思わず足を止めてしまう。
戸塚さんに聞いた場所へ駆けつけてみると、探していた人の声色が聞こえてきた。曲がり角に背中をつけ、そっと向こう側を覗き込む。
沙羅さんと──朝比奈、加世子さん。
「証拠もなしに、そんな言いがかりをつけるだなんて……!」
「ですが、実行犯の男は捕らえてあります。所持していた携帯も、監禁場所の部屋の番号もわかっています。俺たちは一般人です。そちらが確固たる証拠を求めるのならば、こちらも然るべき場所に通報せざるを得ません」
「そ……れは」
「確定的な証拠が出てきて困るのは、どちらでしょうね」
異様なほど柔らかな口調で告げられ、加世子さんの金切り声が苦しげな無言に変わる。
どうして。柚に明け透けに犯人を聞かされ、一番に思ったのは疑問だった。
確かに加世子さんは私のことを好ましく思っていないようだった。でもそれは、仕事に熱心な彼女の信念が故だとも思っていたのだ。
自分でも気づかないうちに彼女の琴線に触れてしまったのか。どうして。どうしてどうして。
どうして、タイガ君を巻き込んでまで……!
「待て。このちびっ子」
思わず声を上げようとした自分の口が、大きな手のひらに押さえつけられる。そして次の瞬間、誰かの胸板に強く抱き寄せられるのが分かった。
「今お前が出ていっても、話がややこしくなるだけだ」
「日下部、先生……っ」
どうして、日下部先生がここに?
未解決の「どうして」がさらに増え、頭がパンクしそうになる。そんな私を楽しそうに眺めた後、先生は沙羅さんたちが対峙する方へ視線を向けた。
「インタビュー時、あのババアの肩に黒いカラコンの片割れがくっついていた。大方お前を監禁場所に運んだ時に付いたんだろう」
「え」
「決定的だったのが、インタビュー中に『一度もお前の行方を尋ねなかった』ことだな」
目の敵にしていた女スタッフが姿を消せば、すかさず指摘するのがあのババアだ。
さらりと続けた先生の言葉に、じわじわと理解が進んでいく。それでも、やっぱりその理由がわからない。
「理由は恐らく、愛娘だな」
「娘……朝比奈、恵さんですか?」
「以前別の取材で会ったときから、あの可愛い子ちゃんは沙羅君に惚れ込んでいたらしい」
朝比奈さんが、沙羅さんのことを。
予想できていたことだったが、改めて言われると胸に突き刺さった。あんな綺麗な人も、やっぱり沙羅さんに惹かれてしまうんだ。
「加世子さん。貴女は娘さんのことを何より優先させてきた」
曲がり角の向こうで、沙羅さんの声が続く。
「そして俺の近くに現れた小鳥さんが、娘さんの邪魔になると考えた。その彼女の信用を失墜させるために、こんなことをされたんでしょう。インタビュー前に中谷監督の資料に工作をしたのも、同じ理由でしょうか」
告げられた質問は、ほぼ断定だった。それがどこか危うい声色に思え、慌てて二人の方へ向き直る。
「子への愛情が盲目にさせているのかもしれませんが、忘れないでいただければと思います。俺たちはあくまでメディア業界の一員で、下手に敵に回すべき存在ではないことを」
彼は背を向けていて、こちらから表情は窺えない。それでも対峙している加世子さんの顔色が、みるみるうちに色を落としていくのだけはわかった。
「無論、こちらも仕事上では、今後も良好な関係をこちらも望んでいます。こちらの言いたいことをご理解いただけたなら、首を縦に振っていただけますか」
極寒に耐えるように我が身を抱いた加世子さんが、何度も縦に首を振る。
いったい、何が起きたんだろう。思わず瞬きを忘れていると、口を押さえていた先生の手が静かに離れていった。
「あんな沙羅君は、初めて見たな」
そう言う日下部先生もまた、今まで見たことのない微笑みを浮かべていた。
星がかすかに瞬きだした時分。
ホテルのエントランスに停められたタクシーで、逢坂さんとタイガ君は直接病院に向かうことになった。
「逢坂さん。この度はインタビューにご協力いただきまして、誠にありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、何から何まで本当にお世話になりました」
柊さんを筆頭に、社員一同深々と頭を下げる。逢坂さんは、さらに深く頭を下げた。
「ほら、タイガ」
「小鳥さん」
「ん」
「あっ」
傍らに控えていたタイガ君が、逢坂さんに促され私の前に進み出た。私も同様に、沙羅さんの大きな手に優しく背を押される。
「タイガ君。ここでお別れだね」
「そう、だな」
短く答えたタイガ君は、視線をさまよわせながらじっと立ち尽くしている。
視線をあげると、すぐそこで柔らかく笑みを浮かべる逢坂さんと目が合った。一目でわかる、父親としての眼差しだった。
「まああれだ、色々世話になったな」
「こちらこそ、タイガ君には色々力をもらったよ」
「勝負は、俺の勝ちだよな?」
「ふふ。そうだね。タイガ君の勝ちだよ」
「お前も、ちゃんと約束守らなきゃ駄目なんだからな! 守らなかったら絶交だぞ!」
「うん。約束するよ」
にかっと笑ったタイガ君に手を差し出され、笑顔で握手に応える。その時、どこか好戦的な視線が、ちらりと私の背後に向けられた。
「小鳥!」
タイガ君の小さな手に、驚くほど強い力で引き寄せられた。突然の引力に、ぐらりと前のめりになる。
体のバランスを保とうと一歩踏み出した矢先に触れたのは、生温かい、柔らかな感触で。
「小鳥さん」
「……!」
我に返ると、私の体は誰かの手によって後方に抱き起こされていた。沙羅さんだ。それがわかっても、私はただ唖然とするほかなく。
「If you really want to get the man, practice kiss like this, you know?(マジでその男を落としたいなら、このくらいこなせるようにしておけよな)」
「……! ……!」
「またな!」
いたずらな笑みを浮かべ、タイガ君がタクシーに乗り込む。驚きの早さで去っていった逢坂親子を見送った矢先、背後から明るい声がかかった。
「はっはっは。さすがアメリカンの挨拶は情熱的だなぁ。な、慧人」
「もともとタイガ君は小鳥ちゃんに心底懐いてましたし。ね、沙羅さん」
「ファーストキッスは未来のアメリカンイケメンかー。羨ましいこと山の如しだよ。ね、沙羅さん!」
「……ええ。そうですね」
「っ、ど、な、え、ちょ」
柊さんも戸塚さんも柚も、何故話の矛先を沙羅さんに向けるのかな!?
訳が分からず口をぱくぱくしていると、至近距離から沙羅さんの視線と交わった。瞬間、原因不明の熱が一気に私の頬を焼きつくす。
だって、私の初恋、応援してくれてたんじゃないの、タイガ君!
「え、えっと。他の皆さんは車でお送りするんですよね? 私、皆さんを呼んできます!」
「あ、逃げた」柚の呟きが背中に刺さる。だってみんながいじめるから!
ホテルに駆け込みながら、唇にそっと指先で触れる。思い出しかけた甘美な感触に、慌ててかぶりを振った。ホテルロビーの荘厳な柱に手を付き、大きく深呼吸をする。
あれは、タイガ君の叱咤激励だ。もしかしたら、感謝の裏返しなのかもしれない。
だとしたら、私は。
「堀井、小鳥さん」
ひどく鬼気迫った声が、その場に響いた。
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