1話 百合の花

1/2
前へ
/97ページ
次へ

1話 百合の花

         ……悠司(ゆうじ)くん  名前を、呼ばれている。  俺を狂わせる声が聞こえる。  もう、許してほしい。  もう触らないで。          悠司くん……他の誰も、         誰も好きになっては駄目よ。        私以外の誰も見てはいけない。      あなたを縛る鎖を持つ私を、   拒むことなど、許さない。  黙れ。頼むから黙ってくれないか。  得体の知れない笑みを浮かべて破裂しそうな腹を撫でるのはよせ。その中にいるのが誰か俺は知ってる。人間の形を模した鎖。それは俺の遺伝子を持つ胎児。  見たくない。  見たくない。  見たくない。  どうか生まれてこないでくれと願うけれど、それが叶うことはない。  ゆっくりと、首を絞めた時の感触。指が食い込む皮膚の温度。俺を見つめる暗い瞳。伸ばされるひんやりとした冷たい手。  俺の心を縛りつける。俺の罪を見せつける。嫌いな女に似た顔をした董子(とうこ)が笑う。何も知らないような顔をして。俺が何をしたのか知らないのか。まだ生まれていないおまえを殺そうとした俺を。  きっと気づいているのだろうに。おまえへの愛情は俺が罪悪感を取り繕おうとした結果なのだと。  ――それでもおまえは、俺を兄と呼ぶのか。 「神崎さん……」  ユイの呼ぶ声に、神崎悠司(かんざきゆうじ)はうっすらと目を開けた。  暗い。まだ夜は明けていない。  また夢を見ていたのか。  最近よく見る悪い夢。 「(うな)されてたよ」  心配そうに顔を覗き込むユイに、悠司は起き上がり、背中に嫌な汗が伝う感触に身震いをした。 「怖い夢を見たの?」 「……ああ、大丈夫。起こしちゃったんだ、ごめんね」 「そんなの別に」  化粧をしていないユイの顔は、悠司がよく知る男の顔だったが、表情がとても柔らかくて愛らしい。細い体を寄せて、悠司の頬にそっと手を添えてくる。 「ユイが傍にいるよ」 「うん……ありがとう」  力なく笑って、ユイの手を握り返す。  温かい手。  悠司はこの手が好きだった。  自分を癒してくれる温度。凍えそうになっている自分を、溶かしてくれる。厭な夢も、少しは和らげることが出来る。  そのままユイを抱き寄せると、戸惑ったように微かに拒まれた。 「……駄目?」 「だって、ユイの体は光のだから……」  光というのは、ユイの宿主だ。ある日を機に、宇佐見光(うさみひかる)とユイという人格は分裂し、ユイは悠司といることを選んだ。  ユイの心は女の子だったが、肉体は男だ。悠司の性癖はいたってノーマルだったから、男の体を持つユイはそれをとても気に病んでいた。悠司としては、ユイのことが好きだから出来ない相談ではないと思っているが、まだ躊躇いがあるのか体を開いてくれない。
/97ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加