編集者の事件メモ(萩紀夫)

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サーチライトに照らされた若い男の亡骸を前に、警察は事務的にテキパキと作業を進めている。入れ替わり人が呼ばれてご遺体の前に近づき、手を合わせては遠巻きに輪を作った。観光客を除いては皆、男が誰だか心当たりがあるらしい。みな集まって何か話をしている。 亡くなったのは、この辺に住む男だったのだろうか?住民らしき人たちは詳細を教えてくれなかったが、萩はなんとなく彼らの周りにいて、様子を伺った。「ああ」とか「本当にね」と言った声に混じり「自殺」という言葉が聞こえてきた。 単なる不幸な事故だろうと想像していた萩は、面食らった。 (自殺?あんな若い男がなぜ?) 「自殺」と言う言葉を聞いて、萩の感覚が再びコントロールを失って回り出す。加えて、止む事のない波の大音量を聞き続けたせいだろうか。萩の中のタガが暗示にかかったように簡単に外れる。気付けば1人、萩は半狂乱で夜の暗い海岸を彷徨い歩いていた。 「どうして逝ってしまったんだ。若い君が自分から未来を立つほどの理由はなんなんだ。どうしようもなかっただなんて、そんなこと無いはずだ。何か答えてくれ!」 萩は、暗い海に向かって叫んでいた。 どれくらいの時間ここにいたのか?遺体は既に運び出されて、すべてはきれいに片付けられていた。海岸に残っている者はいない。男を弔うものもいない。 自分に死んだ男を投影させて、海に吸い込まれそうになる。一歩、また一歩沖に向かって歩いていく。ズボンが波にあらわれて、砂に埋まった足が重くなった。疲れて膝が折れると、打ち寄せた波に胸まで叩きつけられた。僕は、身を投げた男の魂を呼び戻しにきたのだろうか?それとも、自死した昔の恋人の魂に呼ばれたのだろうか? 僕が今の半分の年齢の17歳の時、高校2年生の僕にとびきり可愛い彼女ができた。しかも告白してきたのは彼女の方だった。彼女との2人の時間は夢のように過ぎていき、実際それはあっという間だった。2人で一緒に帰るようになってから2週間経った頃、僕は繋いだ彼女の手を引き寄せてキスをしようとした。彼女ははにかむと、僕の手を解いて行ってしまった。2人きりで会ったのはそれが最後になった。次の月に彼女は引っ越した。親の都合で急に決まったことらしい。 引っ越し当日、実は僕はこっそり彼女の家を訪ねている。家の前まで行くと、彼女が家族に混じってテキパキと動き回るのが見えた。泣きそうな彼女の顔と青白い頬。僕は遠くから眺めただけで、結局そのまま何も伝えずに帰った。いつかまた会えると信じて。またいつでも会えるとすら、その時は思っていた。 成人してから久々に同級生と飲む機会を得て、僕はその時に彼女が既に亡くなっていたことを知った。彼女がどうして死んだのかも分からない。「自殺」らしいとだけ聞いた。 彼女と過ごした若い時間は駆け足で通り過ぎた。僕らが束の間付き合っていたことを、同級生の誰も知らないほどに。そして、彼女はあまりに慌ただしく人生を終えた。彼女は、自分で人生を終わらせた。 僕の名を呼ぶ声がする。何度も何度も僕に向かって呼びかける。海の方から聞こえてくるのは、彼女の声か、亡くなった男の声か? 波は容赦なく轟音を響かせては叩きつける。 呼びかける声も、波の音のように鳴り止むことがない。 だが、声の主は近くにいて実体があった。なのに姿がよく見えない。夜の海は暗すぎるのだ。 声の主は俺の袖を掴むと、僕を力一杯引っ張っていった。ホテルのエントランスまで力ずくで連れてこられた時、明かりの前でようやくその姿をみとめた。僕は声の主をぼんやりと眺める。青ざめて焦るサワの姿がそこにあった。僕は自分の状態が異常であることを彼女の表情を通して理解した。 「自分の命を大切にしないなんて、生まれてきた自分がかわいそうじゃないか。どうしてもっと、大切にしない?何も言わずに1人でいってしまうんだなんて、あんまりだ。」 僕はずぶ濡れになりながら、嗚咽していた。 気づけば、萩は知らない部屋にいた。そこは、今夜予約していた旅館だった。扉の向こうに、見覚えのあるズボンとシャツがハンガーに吊られている。シャツとズボンは誰が洗ってくれたのだろうか。サワが?僕は、サワの好意に甘えて丸くなって目を閉じる。灯りは僅かだ。 カーテンを引いていない部屋は、ガラス一枚隔てて黒い海の世界へと広がり、黄泉の世界へと繋がっている。サワが僕に言ったことは正しかった。きっと僕は、飲み過ぎたんだ。 ブレスレットをつけたサワの手が、僕の背中をさすってくれる。僕はサワにキスをしたようだ。「ガツン」と大きな音が頭に響いて、歯と歯が当たった音がした。手と首が、白く光を反射しているのが見える。背中をさすっていた彼女の手を取り、耳元で意味をなさない何かを呟く。僕は何をしているのだろう。見上げる彼女の瞳は揺れている。これはきっと、愛を囁くと言うことだろうか。 彼女のうなじを見つめた。ただそれだけ。 視覚刺激は拡散を始める。視覚から触覚へ、聴覚へ、味覚へ。指で触れ、唇で触れる。女というものは恐ろしい。僕の知らない僕の身体を知っている。僕の意思で制御できるのは、触れるその前まで。そこから先は意味をなさない。 つぎに目覚めると部屋はすっかり明るかった。昨夜カーテンを引かなかったのだろう。 体が硬い。首をひねると、僕の隣に微笑みながら眠るサワの姿があった。 (これは、とてもまずい状況だ。) サワが目を覚ます。口元をほころばせながら、僕を見つめる。 僕は聞かずにはいられなかった。 「僕、君に何かしたかしら?」 次の瞬間、サワの表情が一気に曇った。 (やばいぞ。とにかく、謝らないと。) 「ごめんね、本当にごめんね。僕、ちゃんとつけたかな?」 彼女は呆気にとられ、次の瞬間、完全に怒り出した。 (どうしよう。昨夜何をしたんだっけ?こんな時に、精一杯の誠意とは、どうやって示せばいいのだろう。) 「もし万が一のことがあったら。ちゃんと僕、全部責任を取るから。」 彼女は泣きながら平手で僕の頬をぶっ叩いた。怒りはそれでもおさまらず、リモコンが飛んでくる。それから、部屋にあったあらゆるものが飛んできて、ついには浴衣一枚で部屋を追い出されてしまった。 身体とは困ったものだ。こんなに酷い状況なのに、頭はいつになくスッキリ冴えている。 部屋に入れてもらえないので、仕方なく温泉に入ることにした。その間に、彼女が落ち着いて機嫌を直してくれたらいいのだが。 1人朝風呂を浴びながら、さっきよりもマシな、お詫びのセリフを用意する。しかし、部屋に帰るとそこにサワの姿はなく、荷物もなくなっていた。 スマホが鳴った。サワかと思って慌ててでる。それは彼女からでなく、編集長からの電話だった。 「天気は快晴かい?今日こそは、いい写真は取れそうかい?」 (サワは…モデルは、多分もう帰ってこない。) 「助けてください」 僕は編集長に全部ぶちまけると、ついには泣き出してしまった。編集長は黙っていたが、気体が爆発するような破裂音が聞こえてきた。なんの音だろうか。 今朝は1人、海岸に出た。海はスッキリと晴れ渡っていた。きっと先生が満足するような風景写真になるだろう。モデルがいないことを除けば…。三宅島新島や大島ははっきり映っている。 仕事がまだ残っていた。取材の続きをしようと警察官に尋ねたが、あっさり袖にされてしまった。何事もドラマのようにはいかない。とりあえず出来る限りのことをすることにする。 これで何度目かのシャッターをきり、撮り終えたフィルムを郵送で現像所に送る。宛先を先生の家に直接届くよう指定した。 郵便を送って店を出ると、お土産屋の前でコーヒーを飲んでいるおばちゃんと目があった。彼女には、見覚えがある、昨日の現場の輪の中にいたひとりだろう。おばちゃんは僕を認めると、向こうからこちらに近づいできた。僕は引っ叩かれて腫れたた左頬を隠すように左を向きながら、おばちゃんから話を聞くことにした。おばちゃんの話の内容は、僕の取材力なんて吹っ飛ぶくらいの圧倒的情報量だった。 亡くなった男は地元の人間で、一人娘を海の事故で亡くしたらしい。その後、離婚して精神を病んでしまい、男の地元である東京に身を寄せているはずだったこと。男の実家は、聞き覚えのある地名だった。そうだ、先生の住んでいる街じゃないか。一通り話し終えると、おばちゃんは最後に僕に聞いてきた。 「昨日一緒にいた彼女はどうしたの?」 僕は唾を飲み込む。 おばちゃんは優秀な情報屋だ。人は働きに対して報酬を受け取るべきだと、僕は常日頃考えている。だから、おばちゃんが望むような話をでっちあげることにした。 「実は彼女と式場を探しているんです。神式でのお勧めはどこですか?」 「それなら来宮神社がいいわよ。きっと素敵な式になるわ。」 おばちゃんは、まあるい顔をして満足げに答えた。 暗くなるまで歩き回った僕は、荷物をまとめに旅館に帰ってきた。少しだけ期待していたが、サワはやっぱり旅館には帰ってない。帰りの急行列車に乗り込んでから、僕はようやくスマホを立ち上げた。着信履歴が2通。先生からものだった。話をする勇気がなかったので、先生の電話にずっと出てなかったのだ。先生の方からかけてくる、しかも2回も。とても珍しいことだ。 僕はメールで箇条書きにおばちゃんの情報を書いて送信した。 「お菓子のお土産を2つ帰ってこい。」 先生から返信が返ってきた。 次の日曜日、僕は指定された駅にお土産の一つを持って先生を待った。もう一つのお土産は、すでに会社でスタッフに配ってある。先生は喪服姿であらわれた。先生の後についていくと、ついた場所は、自殺した若い男の実家だった。 どうやって家を知ったのかといぶかったが、お悔やみ欄を調べて年齢と日時と場所で当たりをつけたという。皆の情報収集能力には目を剥くばかりだ。自分がいろいろと情けなくなってくる。 男の成仏を祈って、仏壇に一生懸命手を合わせる。男の写真の隣には、小さな女の子の写真が飾ってある。僕が聞いたおばちゃん情報は、半分正しかった。 男は2人姉妹の父親だったそうだ。父親である彼が子供たちを連れて3人で海辺に遊びに行った時、小さな妹が波に流されて亡くなったという。男はよく海を散歩していた。結局、自殺だったかは分からない。遺書はないから、波にさらわれた、単に事故による水死かもしれない。 弔問を終えて、先生と二人で近くの喫茶店に移動した。編集長が先に来て待っている。先生に合わせて、これから仕事の打ち合わせだ。小説の方で進展があるのだろう。編集者の僕としては、いい傾向だ。 「葉山のお嬢様の過去を書くことにしたわ。被害者に会う前の、純粋で幸せだった頃の彼女の話よ。」 (それはいいかもしれない。お嬢様の幸せだった時代。般若になる前の。読者はそこで本を閉じ、先を読まなければいい。そうすれば彼女は永遠に輝いたままだ。) 先生は鞄から封筒を取り出すと、写真を机の前に広げた。現像所から先生の家に届けられた、僕が撮った写真の数々だった。 「どれも本当にいい写真ね。これとこれと、ここの写真を私がもらうわね。あとは萩くんにお返しするわ。」 写真から顔を上げると、先生はちらりと僕を覗き込んだ。心なしか憐むような、同情するような目をしている。 隣で座る編集長は、明らかに口元に抑え切れない笑いを浮かべている。目も笑っているようだ。 僕は、はたと悟った。ポーカーフェイスを装いながら。 (編集長、僕とサワのことを先生に喋ったでしょう。それってひどくありません?) 先生は言葉を続ける。 「来宮神社には行ったの?大楠が有名なのよね。電話が通じなかったから何度か旅館に問い合わせたのよ。フロントのおばちゃんが人づてに聞いた話だと、あなたのことを教えてくれたわ。」 (おばちゃんの情報拡散力、恐るべし!彼女は主役級の大活躍だ。力量が凄すぎて、却ってお話の信憑性が成り立たないかもしれない。) 僕の前言を撤回しよう。 (人は働きに見返りがあるべきだが、報酬は金品にすべきだ。のちのち誤解や、あと腐れのないように。) 僕は、もうここを出たい。このあと、行くあてはないけれど。幸い山ほどある仕事が僕を待っている。 僕は目の前に広げられた写真を片付け始めた。 自分が撮った写真に目をやる。光り輝く海、ぼんやりした風景に浮かび上がるサワの笑顔。笑顔、素敵に輝く笑顔。俺とのツーショット写真もあった。 (いつ、こんな写真を撮ったっけ?) まるで恋人のように風に戯れる二人。2人とも、とても幸せそうじゃないか。 僕は中座すると、アプリを立ち上げてサワに送信することにした。 「とても楽しかったです。もし許してくれるなら、僕との旅行にもう一度付き合ってくれませんか?一緒に行って欲しい神社があるんです。」
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