編集者の事件メモ(萩紀夫)

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萩の頭の中を何かががぐるぐると回りだし、人々の顔が次から次へと浮かび上がった。噂話をしている会社のスタッフ、疲れた顔の元同僚たち、近頃会う機会のない親戚の顔、学生時代のクラスメイトの笑い声。 記憶のどこかにしまってあった彼らの表情は、今や張り付いたように固定されて、面となって萩の目の前に陳列される。深く広がる、ひんやりとした世界を作りながら。 お面の数はさらに数を増し続けた。『熱海急行』を演じた役者のヒロイン、黒いコート姿の刑事や苦悩に顔をゆがませる令嬢。それに、居酒屋で出会った女たち、その輪の中には僕に微笑みかけるサワの姿がある。記憶の一角を占めるのは、浮かんでは消える、おんな、オンナ、女の顔。その目は僕を見つめた理、無視して前を通り過ぎたり、僕に微笑みかけながらも、どこか冷たい笑顔。そう、僕は彼女らに惹かれながらも正直な話、女というものがよくわからない。 ふと、恐ろしげな鬼の顔が目の前に浮かんだ。さっき仮面歴史館で観たあの面だ。そういえば、鬼は元々とても美しく可憐な少女なのだ。 「どうしたの。ねえ、だいじょうぶ?」 話しかけてきたのは、サワだった。萩はぼんやりと彼女を見かえしたが、心の中はざわついたままだ。サワは心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。その手にはおしぼりを持って僕に差し出している。 自分がひどい顔でもしているのかと思ったが、どうやら違うらしい。いつの間にかお猪口を落として、酒をこぼしていたようだ。 「酔っているんじゃない?飲むのはそれくらいにしておいたら?明日も仕事でしょう?」 ドジ踏んだのは、僕が飲み過ぎたせいと彼女は思っているようだ。何を言っているんだ?酔ってなんかいないさ。ちょっとこの状況に動揺しているだけだ。 でも、ちょうどいいタイミングだ。早くここを抜け出そう。 「食後のデザートは、まだだったかな。」 そう言いながら、萩はウエイターを呼ぼうとして、またお猪口を落とした。 自分の右手が震えている。 「食事が済んだら、もう部屋で休みたい。」 自分の顔から消えた笑顔は取り繕れないで、表情はこわばったままだ。仕方がないので、海を見下ろすフリをして、彼女から顔を逸らそうと思う。萩は右手の震えを左手で抑えながら立ち上がる。ホテルは海側に面していて、レストランの窓から見下ろす海の景色はさぞや綺麗に違いない。 日は沈み、辺りは暗くなりかけていた。美しいオレンジの雲の筋。空との境が曖昧になる海岸線。サーファーは、もう帰ったようだ。海岸に人影は見えない。沖でチラチラと光っているのは漁船だろうか。人のいない海岸には波が打ち寄せては返し、ごうごうと音を響かせている。 波打ち際には黒い影のようなものが漂っていた。岩場から剥がれて流れついた海藻か、ただの錯覚だろうか。まるでイケメン刑事の着ていたあの黒いコートのようではないか。その影は遠目に小さくてハッキリしない。萩はその黒い影に目を凝らし見続ける。他にするべきことがないからだ。血の気が、すうっと引いた。あの影は、やはり海藻ではない。 萩は慌てて飛び上がり、声を上げながら海岸に走り出していた。行きがけにホテルの従業員に叫けぶ。 「人がいる、海に人が。うつ伏せで波に漂っているようだ。」 人が集まり、周りは騒然としはじめた。誰かが救急車を呼び、やがてパトカーも到着した。黒い影は、海藻でもただのボロ服でもなく、コート姿の男だった。到着した警察官が人払いをしたため、その顔はよく見えなかったが、若い男のようだ。結局、彼は助からなかった。 救急車が男を残して引き払い、現場を追い払われると、萩は手持ち無沙汰になってしまった。今日1日の出来事が、酔いとともにすっかり吹き飛んで、萩は自分が出張中だったことを思い出す。とりあえず会社に電話をかけると、幸い編集長が出た。スマホとは、このような緊急時にこそ役に立つ使い方をするものだ。 「海岸で仏さんが上がったようです。」 そういいながら、萩は自分に舌打ちをした。まるで刑事ドラマのセリフじゃないか?他に、もっとマシな言い方ってものがありそうなのに、慣れ親しんだ表現だからつい口に出てしまう。 電話口の編集長は僕の話が冗談ではないことを何度も確かめた。 ようやく納得すると、今度は興奮を隠せない口調で聞き返してきた。 「殺人事件か?」 (もうちょっと言い方ってもんがあるでしょう?人のことをとやかく言えませんが)。 僕は亡くなった若い男に心底申し訳ない気持ちになった。 「ちゃんと取材してこいよ。こんなこと滅多にあるもんじゃないから。」 心の中では編集長に反抗を試みたが、結局他にすることも追いつかないので萩は男の死について取材することにした。 (殺人事件の小説の取材に行って本物の死体を見てしまう。なんてベタな設定なんだ。人が死んでいるんだぞ!俺より若くて将来のあった男が死んだ。 こんな若くていい男死ぬなんて、一体何があっだんだ?)
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