編集者の事件メモ(萩紀夫)

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さっきからベル音が鳴っている。自分のスマホの呼び出し音だ。 アイフォンは鞄のポケットに入れたはずだ。だが、今は会社のPCの作業チェック中で手がいっぱいである。 自分のスマホの呼び出し音を聞くことは、滅多にない。つまり、連絡を取り合うような友達は少ない。仕事のやりとりなら、メールかラインか会社の内線だし。スマホに登録された連絡先の数はたかが知れている。 だから、この電話の用件は、きっと大事なものではない。しばらく放っておけば、発信者は自分を捕まえるのを諦めるだろう。 ところが、電話の主はいっこうに諦めず、呼び出し音は鳴り続いた。 一体誰がかけてきたのだ?この僕に何の用だ? 前回。つまり、この電話より前にかかってきたのは親からだった。 その時僕は、部屋に仕事を持ち帰って、ひとり夜食を食べていた。かけてきた理由は、母親が僕の30と数歳の誕生日を祝うためである。 「あんた、仕事はどうなん?新しい仕事は慣れたかい?仕事辞めると聞いた時はずいぶん心配したけれど、次が見つかって本当に良かった。」 「ああ、うん。まあ、なんとかやってますよ。」 それは、僕がちょうど温めたカツ丼を口にしたタイミングだった。 誕生日を祝ってくれるというのに文句を言うもんじゃないが、僕はこっそりため息をついた。母の話はきっと長い。ようやくありつけた今日のご馳走、つまりカツ丼弁当は、電話が済んで食べれる頃には冷え冷えだろう。 電話口で、母親は僕を祝うと言いながら 「おめでとう」のセリフが2、3秒。 で、残りの10分以上は「早く結婚しろ。」だの「次はいつ帰るか?」だの「お前の知り合いの誰だれは結婚して子供できた。」など等、ちくちくと僕を責める話がながなが続くのだ。 まあ、親はこうやって誕生日を祝ってくれる唯一の存在なわけだし、有り難いと思わなきゃいけない。 この年になって、誕生日のケーキやプレゼントやキャンドルが欲しいもない。が、僕には発泡酒と、母親の「おめでどう」にかこつけた僕への愚痴と、なんとか滑り込んで手に入れた「仕事」が手元にある。ついでに冷えたカツ丼弁当付きだ。 この不景気のご時世だ。僕はまあ、幸せな方ではないか。 母親のその前にかかってきた電話の用件はセールスだった。そのさらに前のは間違い電話。 そう、僕の私用スマホの「電話の呼び出し音」が鳴るのは、大抵はロクでも無い用件だ。 呼び出し音はまだ止まない。どうやら「セールス」や「間違い電話」では無さそうだ。親からかかってきた線も捨てがたい。 平日のこんな時間に?ひょっとして親戚からの急用だろうか? 僕やようやくPCから目を離し、鞄のポケットを探った。 飴色に輝くなめし皮のこのビジネスバックは持ち主の若造(この職場では年寄り扱いだが、業界人としては新人)には不釣り合いな高級品である。バックは最初の就職の際の両親の就職祝いだ。 スマホがまだ鳴り響いている。呼び出し音が切れる前に、発信者の確認ができた。 「木野理央、先生」 (やばい) 僕は一気に青ざめた。 「木野理央」は本名ではない。僕が担当している、ミステリー作家のペンネームだ。 僕は、一応編集者の肩書を持っている。ほとんど名前だけの肩書で、時々自分が編集者を兼任していたことを忘れている。他にも、社内ネットワークの構築とかいろいろな仕事を受け持っていて、こちらがメインの仕事なのだが。 「木野理央先生」は僕が担当する唯一の作家である。 彼女は僕が初めて編集者を名乗ることになった作家であり、付け加えると、僕が編集を担当してから世に出た作品はまだない。 先生は、こちらから連絡しようにもなかなかつかまらない。たまにメールか社あてに電話がかかってくるが、滅多に連絡がこないから、時々存在を忘れてしまう。僕も、他の仕事で忙しいし、無駄足踏むと分かっている案件は気が向かない。 そうは言っても、「木野先生」は、僕が担当する記念すべき第一号の作家さんだ。僕のスマホの連絡先に登録された人間は、上司や先生のほか数名だけ。 (プライベートに仕事は持ち込まない主義だと、僕は言い訳しているが…) 先生の名前がスマホのアドレスに登録されているのは、それだけ彼女を「特別扱い」しているからだ。 まあ経緯は、宴会の席で先生に無理やりアドレス交換させられたから。僕にとっての「特別扱い」にどれくらい価値があるかは、この際置いておこう。 「木野先生」からこのタイミングでかかってくる電話なら、それはやはり「ロクでもない用事」だろう。だが、これは彼女を捕まえるまたとない機会だ。 僕は、慌ててスマホのロックを解除した。 「萩紀夫くんだよね。お願いがあるんだ。」 彼女の声を聞くのは2週間ぶりだ。 前回はこちらから提案した依頼を、彼女が一両日内で返信することで会話が終了したはずだった。その後、返信がないのでこちらから何度もコンタクトを試みたが、捕まえることができなかった。 この声の調子と今までの彼女の性格からいって、電話の内容は前回の提案の返信でないだろう。あの提案書は結構な時間をかけて、一生懸命用意したものなのだが…。そして、彼女が実は提案について検討すらしなかったことへの「お詫び」の電話でもなさそうだ。そんな気遣いを彼女から期待することは「諦めるべきだ」と、僕は彼女を担当してから最初の一カ月で学んだ。 僕がなかなか電話に出なかったことを、彼女は気にしてもいないだろう。こちらの都合は一切お構いなしな彼女は、いつだって「自己中」なのだから。 「はあ、どんなご用件でしょう?」 僕は急いで、頭の中に浮かんだ「彼女が却下した数々の提案の恨みつらみ」を忘却の彼方へと追いやった。取り返せない費やした時間なら、思い出さないに限る。 (俺は編集者だ。まだ実績がないので、一応ではあるが。) これから新たな彼女のわがままな要求に応えるべく、この先の仕事がリモートで行えるように準備をしないといけない。 僕が「木野理央」の編集者になったのは3ヶ月前だ。転職してから1年半。それまでの俺の肩書は、セキュリティーシステム担当だった。 転職前の就職先は大手の家電メーカーで、白物家電を扱う技術者として働いていた。 最初に家電メーカーで働き出してからの半年間。僕は転職について本気で悩んでいた。 それに対する周りの反応は、決まりきったものだった。 「安定した職を投げ出すなんて、馬鹿げている」 僕の悩みにまともに相手にしてくれる人は、当時いなかった。 それから10年。僕はいよいよ転職に向かって本気で動き出す。 が、やはり同業者で相手にしてくれる人はいなかった。 かつての日本で栄華を誇った白物家電は、今や斜陽産業である。配属部門の行先は誰の目にも不透明であり、「先が見えている人」も「他人の心配をできる人」も、どこにもいなかったからだ。 僕がシステム担当として出版業界に再就職できたのは、ここの人間がそれだけネットワーク技術に不案内だからだろう。僕が今まで学んできたのは「新素材の家庭使用時における安全評価方法」と行った類のものだ。ネットワークについての知識は独学だし、パソコンは趣味程度に知っているだけだ。ここの人事部はそのことを見抜いていなかったと思う。 もっとも、僕は今の職場で「技術に詳しい人」として結構重宝されている。「技術」と言っても外部委託のSEとの打ち合わせに同席したり、所内のパソコンの設定を手伝う他に、ワードやエクセルの使い方がわからないと呼ばれたり。はては、コーヒーメーカーの修理をしたりする、いわゆる「何でも屋」を指しているのだが。 人生とはわからないものだ。 親元にいた学生の頃は、恋愛小説の類を両親に隠れてこっそり読むことは僕の背徳的楽しみだった。 「そんなものに時間を使わないで勉強しなさい。」とは当時よく言われた言葉だ。 そんな親不孝だった趣味が、今や飯の種になっている。 木野のデビュー作「熱海急行殺人事件」が世に出たのは2年ほど前の話だ。 これは若者読者を中心になかなかの話題作に成長した。既存のドラマとのコラボで同タイトル名のドラマが一話完結でテレビ放映までされている。今でもドラマの撮影場所が、マニアの若者相手に観光に一役かっていると聞く。 「熱海急行殺人事件」について、まず一つ言っておかなければならない。 そもそも「熱海急行」などと言う列車は存在しない。 そこは「伊豆急行」の間違いだろう。なぜ誰も訂正しなかったのか不思議でしょうがないのだが、木野先生がゴリ押ししたに違いない。 このドラマがもしシリーズ化されたら本当にそのうち「熱海急行」が出来るのではないか?僕は密かにそう考えている。今の経済状況では新型車両は厳しいかもだが、「既存の急行のプレートを付け替えてダイヤを改正する」くらいなら可能かと思う。 ちなみに、「熱海急行殺人事件」のストーリーはこうだ。 上京した「にわかリア充」が「葉山のお嬢様」を弄んだ末に彼女に刺されて殺される。死体は「熱海の廃墟ホテル」に放置され。その事件を、若いカップルの刑事が解決する、という話だ。 僕が一押しするこの小説のくだりは「般若の形相をしたお嬢様に、にやけた男が命乞いするシーン」なのだが、これに同意してくれる同業者は少ない。 彼らによれば、ヒットの理由は、「たいして活躍しない、イケメン刑事」と「煌びやかで一途な(最後には般若になる)お嬢様」にあると同僚は説明する。 一応若者の部類に入る僕だが、この解説には納得していない。 が、ともかくヒットを受け「木野理央」のことを「売れっ子作家」と呼んでいるが、続編はまだでてない。 熱海急行を担当した元祖編集者は既に退職し、僕は会ったことがなく引き継ぎも書類上のものしかない。「熱海急行殺人事件」の2匹目のどじょうを狙って、社では新しい担当が入れ替わりに2人ついたらしい。2人とも「木野理央」のことを悪く言わない。「気さくで話をしていて楽しい人」というのが元担当者たち(2人とも女性)の印象だ。 木野先生は彼女たち編集担当を連れ「物語の舞台になりそうな観光地」巡りをよくしていたと聞く。メンバーの全員がこのバカにならない拘束時間を大いに楽しんだ。だが、俺の直属の上司にあたる男性編集長だけは、それを良しとしなかった。何しろ「気まぐれなで盛大なお茶会」の末に世に出た作品がまだ無いのだから。 つまり、彼女の次の担当を誰にするか、たらい回しにされていた。その挙句に「片手間の仕事」の一つとして編集担当が僕に回ってきたのだった。編集の肩書に浮かれていた僕は、そのことに気づくまでにずいぶんと時間を無駄にしたわけだが。 僕が納得がいかないのは、編集作業を引き受ける代わりにセキュリティーシステム担当の仕事で免除されたものが一つもないことだ。おまけに先生相手の仕事が増えたのに手当ては増えてない。唯一増えたのは「兼 編集者」と言う肩書だけだった。
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