君が塗りかえて

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 眼を開くより先に、首に纏わり付く髪の毛に不快を感じた。  冷房はタイマーでとっくに切れているし、眠りに落ちたときは天国のように冷えていた室内は、すっかり地獄の釜のよう。続けざまに耳に飛び込むは、ミンミンと鳴き続ける蝉の声。私は勢いよく身を起こして、窓をがらりと開け放った。 「うるっさいわ蝉! 余所で鳴け!」  ジジっと驚いた蝉は、危なげに空を飛んでいく。  いつも思うけれど、蝉の羽は飛ぶためにあるわけではないのだろう。殆ど、鳴くためだけにあるんだ。そうじゃなければあんなにうるさいはずがない。 「うるさいのはあんたよぉ。もう、放っておいたら昼まで寝てるんだから」  ジーという音が遠ざかっていったと思えば、人の声が鼓膜を揺らす。下を見れば、由梨が呆れたようにこちらを睨んでいた。唇を尖らせて、顔一杯で不満ですということを主張してくる。  由梨はよく言えば幼馴染み、悪く言えば腐れ縁というやつで、大学を卒業してからはルームシェアをしている仲だ。  と、昼までという言葉に引っかかる。  ちらっと時計を見遣ると、確かに短針は十二の付近を指していた。 「ごめんって。だってさあ、今回のイベ全然素材落ちないんだもん。周回辛いわあ」 「またゲームの話ぃ? 私そういうのわかんないってば」 「いいんだよ、ゲームの話ってのが伝われば」  投げやりに言うと、由梨が小さく「もう」と零したのが見えた。あまり怒らせるのも悪いと思い、私は「顔洗って降りるわ」と中へ引っ込む。  最悪な目覚めだったけれど、気分は少しマシだ。寝汗に蒸された首元も、風が通ったからかさっぱり……とまではいかないが、随分冷えた。  その辺に放っていたゴムで髪を括ると、開け放った窓から入った風がうなじを撫でていく。青い葉の香り。由梨は草むしりでもしていたのだろうか。  適当に身支度を整えてリビングへ行くと、こちらも窓が開け放たれていて、由梨はテーブルで麦茶を飲んでいた。透明なグラスが、夏の光を反射して煌めいている。 「朝ご飯何食べたの?」 「んー、ハムエッグと食パン。すぐお昼だけど、何か食べたいものある?」 「当番私だし、私が作るよ」 「寝起きの人に包丁握らせたくありませーん」  由梨はスマホをいじりながら言う。こういう時の由梨は、気遣いでも何でもなく、本気でそう思っていると私は知っていた。事実普段から不器用な手先が、寝起き、就寝前となるとさらに酷くなるという自覚もある。  遠回しに「また怪我でもされて当番が続くのは嫌」と言いたいのだろう。 「ええ……それじゃ素麺以外」 「りょ」  私はテーブルの端に置いてあったリモコンに手を伸ばし、テレビへ向ける。教育番組、バラエティの再放送、情報番組……二周して、結局特に興味もない情報番組で止め、ソファに腰掛けた。  今年の夏は例年より暑くなるらしいんですよ。ええっ、そうなんですか? それじゃあ熱中症とか気を付けないと。そうですね、適度な水分補給と──。  毎年毎年、今までより暑くなっている気がする。まだ子どもの頃は、四十度なんて超えたら大騒ぎだった。いや、そんなこともなかったろうか。  大学生の時はもう毎年それが普通で、高校、中学も変わらなかった気がする。なら小学生の頃は……? 「ねえ由梨、小学生の時ってさあ、夏こんなに暑かったっけ」 「夏はいつだって暑いじゃん。茜はいっつも家でゲームしてたから知らんだけよぉ」 「その隣で漫画読んでたのは誰かなー」  覚えている。今住んでいるこの家よりも市街に近い場所だった。コンビニまで、自転車じゃなくて徒歩で行けるような家。  私の部屋には、伯父が持ってきてくれる漫画やらゲームやらが大量にあって、暇さえあれば私はそれで遊んでいた。  ゲームと言っても様々で、トランプや花札、人生ゲーム、次世代機が出たとかで要らなくなったらしいゲーム機とそのソフト。中でも一人で遊べるものに好んで手を出していた。  同じく漫画も色々なジャンルが備わっていた。少年漫画も、少女漫画もあった。よくわかる文学! といったような、名作をコミカライズしたものもあったから、未だに伯父のツボはわからない。  とにかくそういったものに溢れた部屋の中で、私と由梨はずっと一緒に過ごしていた。私はゲームを、由梨は漫画を。  小学校を卒業して中学に上がると、由梨は「可愛い」というものに興味を惹かれていって、私は変わらずゲームばかりで。  高校へ入学と共にスマホを手に入れると、由梨はよりきらきらしていった。対して私は部活にも入らず、文句を言われない程度に勉強をしながらソシャゲに手を出す日々。  それでも、由梨は暇さえあれば私の部屋を訪れた。  どうしてもきらきらした同級生には馴染めなかったけれど、由梨はそんなことなんて知らないといった様子で、私の築いていた塀を軽々跳び越えてきた。  もう二十年になる。正直、この歳まで彼女と一緒にいるとは思わなかった。 「それよりさぁ、見てよこれ」 「どれどれ」  由梨は私にスマホの画面を向けて、ほれとでも言うように揺らす。いや、見えないんだけど。仕方なく腰を上げてテーブルに近付いた。 「何? 夜光虫を見に行こう……?」 「そう! すごくない? めっちゃ綺麗なんだよねぇ」  読み上げたタイトルのサイトは、その名の通り夜光虫観察のススメといった様子。自分のスマホで検索をかけようとすると、「ご飯作るから」と手に押しつけられる。  私は自分の椅子に座って、ページをスクロールしていく。夜光虫とは何か、その発生条件や、よく見られる場所。ポイントに注意事項。それらが端的にまとめられているため、読みやすい。  発生しやすい場所は、潮が緩やかな海か。ここから自転車で行ける海、確か割と緩やかだった気がする。多分由梨、行きたいんだろうな。そこまで考えてるかはわからないけど。  私は由梨のスマホをテーブルに置いて、今度こそ自分のスマホを取り出した。発生する時間帯は……夜遅くということしかわからない。  それなら日が落ちてから家を出て、お弁当や飲み物でも持って気長に待とうか。 「茜がだめなのってさぁ、シイタケだっけ、エリンギだっけ」 「エリンギ」 「はいよ」  何を作っているのかとキッチンのほうを覗いてみると、まな板に向かう背中だけが見えた。音からして、何か野菜を切っているのだと思う。  ぼうっと、由梨が置いていった飲みかけの麦茶を眺めた。テーブルには結露の輪が幾つか重なっている。じゅわっとフライパンが何かを焦がす音。一拍遅れてソースが香る。  具材を炒める音は、まるで蝉の声のようだった。じりとコンクリートを焦がす陽を受けて、ただ立ち尽くしている気持ちになる。蝉時雨にうたれて、遠くの陽炎を眺めるような。  妙にリアルだと思えば、なるほどこれは小さい時の記憶だ。私はその先に消えていった人の帰りを、充電の切れたゲーム機片手に待っていた。 「お待たせぇ」  我に返ると、いつの間にか目の前には箸が並べられ、由梨が皿を置くところだった。昼ご飯は焼きそば。 「ごめん、ぼうっとしてた。シイタケ要素は?」 「いや、あれはただ聞いただけ。それでさ、夜光虫なんだけど」  彼女は真っ黒になった画面を軽くタップして、ロック画面を開く。時間を確認したかっただけなのか、そのまま放置して私に向き直った。 「あれね、すごそう。見に行っちゃう?」 「見れるの? さっき見たやつ、鎌倉とか書いてたじゃん。無理くない?」 「いけるいける。そこまで行かなくてもさ、多分裏浜で見れるよ」  裏浜というのは、自転車で二十分ほどのところにある海岸だ。正式名称は知らないけれど、山の裏にあるからそう呼んでいる。 潮は落ち着いているし適度に日陰もあるけれど、ごつごつとした岩が多いために気を抜くと滑って転けて血だらけになる。海水浴には不向きな場所。  そこからはとんとんと話が進んでいった。夕方に出て、ゆっくり待とうということでまとまって、ちょうどそこで昼食も食べ終えた。 「せっかくだしさぁ、今日は外で買っていこうよ」 「お、いいね。私ハンバーガー食べたい」 「じゃあ寄って行こ」  他愛のない会話をしながら皿を洗って、夕方までにしておきたいことを終わらせて。そうして夕方の六時、私たちは家を出発した。  由梨は珍しくすっぴんだ。家では普通に見るけれど、外出する時にはいつも化粧を欠かさないのに。そう言うと、彼女は澄まして、 「化粧ってのはねぇ、自分がしたいときに、自分がしたいようにするものなの」  と答えた。  途中数カ所の店に寄って、私たちは食料を調達していく。裏浜に辿り着いたときには、とっぷりと日が暮れていた。  夏だからと虫除けを持ってきた由梨を拝んで、ふたりしてつんと鼻に来るにおいを纏う。  良さげな場所を見つけて、ハンバーガーを食べて、炭酸を飲んで、おやつをつまんだ。いつまでかかるかわからないからと多めに買った飲み物はすっかり温くなってしまう。  私はイベントの素材周回をしつつ、由梨はSNSのチェックをしつつ、夜光虫が光出すのを待った。  日が落ちたとはいえ蒸し暑い。海から来る風は涼しいような気もするけれど、なんだか生臭くて快適とは言い難かった。暑さのためか、生理的な冷や汗かわからないものが、汗腺という汗腺から噴き出しているような気がした。 「ねぇ、ほんとにここでも見れるかな」 「どうだろ。夜光虫ってプランクトンだからさ、プランクトン臭がするらしいんだよね」 「なにそれぇ」 「ほら、今も嫌なにおいしてるじゃん? これよ」  隣で由梨がすんと鼻を鳴らす。そうしなくても臭うとは思うんだけど。  海は穏やかだ。遠くの空には月がぽつんと浮かんでいる。 「茜さあ、今もまだ夏嫌い?」 「えー、わからん。なんで?」 「わからんってどういうことよ」  私は星を見上げてから、ゆっくり目を閉じた。ゆらゆらと揺れる影を思い出す。夏に閉じ込められてしまったあの頃の自分が、陽炎のように手招く。途端に何だか息苦しくなって、徐ろに温くなった水を口に含んだ。  私は夏が嫌いだった。小学生の時、信じていた人に置いて行かれたあの日から。夏が来る度に苦しくて、蝉時雨が煩わしくて。ひとりきりの世界に引きこもるために、一層ゲームに没頭した。  隣にいてくれたのは由梨だけ。由梨がいるから、今はもう、蝉の声に驚いて飛び起きることもない。 「だってわかんない。思い出すと嫌なことはたくさんあるけどさ、なんか、もうどうでもいいっていうか、だから判断する材料がないっていうか」  それでも思い出すことがないわけではない。強がり半分でうんうん唸りながら答える。すると由梨がこちらを見た……気がした。 「……じゃあさ、こうしない? ふたりで夏の思い出作るの。そんでさ、十年後とかにまた聞くから、その時答えてよ」 「そんなの──あっ」  私は勢いよく立ち上がる。その拍子に体勢を崩しそうになったけれど、そんなことお構いなしに海を食い入るように見詰めた。 「わあ」  視線を辿った由梨も声をあげる。  先程まで黒く沈み、月の光を鱗のように反射していた海が、今は波の動きと共に淡く輝いていた。青い光がゆらゆらと、薄いヴェールを被せたように揺蕩っている。  寄せて返す。波同士がぶつかり合って、砕ける。すると青みが増して、ぼうっと光る。その繰り返し。  単純なような複雑なようなそれを、私たちはずっと眺めていた。  北極の空みたいだ。青一色ではあるけれど、オーロラのよう。 「こういうことをさぁ、繰り返すの」 「……そんなのさ、由梨が一緒なら何でも楽しいに決まってんじゃん。答えが決まってる検証とか面白くないでしょ」  自分で思っていたよりも拗ねたような声が出て、私は思わず噴き出した。由梨もつられてか笑い出す。近くに民家がないのをいいことに、いつまでも。  スマホを確認すると、ちょうど新しい一日が始まる時間。  同時に、止まっていた私の夏が、ゆっくりと動きはじめた。
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