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二、いずなと鳥目
それは、いずなが豊鳴山に住み始めて、年を半周ほどしたころだった。
山は、手伝いにしても童女が分け入るには深い山だった。ついこのあいだまで赤や黄色に色づいていた木々はすっかりその色を散らしてしまい、今は寒々しい枝が剥き出しになっている。
いずなはかじかんだ手のひらに息を吐きかけて、また草履履きの足を草の中に踏み入れた。ざくざくと枯れ枝が折れる音が山に響く。
「確か春ごろこの辺に見えてたんだが……」
紫の花が山裾から見えたはずだと、いずなが藪に分け入っていく。
「ああ、あった!」
丈夫な葛が幾重にも巻いた木を見つけ駆け寄る。途中、真っ直ぐに伸びた杉のあいだを抜けた。
「え?」
いずなはなぜか足を止めてしまった。そこにはなにもない。なのに、なにかが自分を引き止めたような気がしたのだ。きょろきょろと辺りを見渡し、首を傾げてからふたたび立派な葛の元へと向かった。
「これだけあったらしばらくは大丈夫……」
懐から小刀を出したところで、枝の折れる音に振り返った。
「だれだ……?」
そこには修験者のような衣を身につけた男が三人、異様な気配を立ち上らせていた。
「小童……だれの許しを得て入った?」
「ここが豊鳴山東峰と知ってのことか?」
「人ごときが汚らわしい」
じりじりとあいだが詰まっていくのを、いずなは無意識に後ずさった。装束も頭襟も猛禽の嘴のような半面形もすべて闇に沈むかのような黒だ。一人の持つ錫杖がじゃらじゃらと嫌な音を立てた。
「消せ」
「消せ」
「消せ」
合唱のように重なる声は無機質で、いずなは恐怖にきびすを返した。駆け出した背中に静かな足音が追いかけてくる。狭い木々の隙間を抜け、背の高い笹のなかをわざと分け入り、いずなは必死で駆けた。
「ああっ……!」
いずなの足下で岩が弾けた。衝撃に足がもつれ倒れ込む。いずなは振り返るよりも先に、立ち上がり駆けた。背中に錫杖の圧が薙いだ。腹の奥が恐怖に縮こまった。
「ちっ……」
後方からの舌打ちに恐怖が増していく。
「助けて……」
山がどんどん深くなっていく。心臓は今にも口から飛び出しそうだった。
いずなの頬を足を、かまいたちのような刃が通り過ぎる。いずなは痛みにうずくまりたくなる弱気を叱咤した。小さな沢を駆け抜け、山いちごの棘の中に飛び込む。棘の蔓をかき分け、奥へ奥へと逃げた。細い手足を幾重にも血が流れていく。
荊の緞帳をかき分けた先に光が見えた。
山を抜けた。そう希望を持った瞬間、目のまえにもう一人の男が立ち塞がった。
後ろからの三人と同じような黒一色の装束に、逃げ場がなくなったと奥歯が鳴った。
「あやめ様! それは侵入者でございます!」
「お始末を!」
ちらりといずなを見たあやめが手のひらをそっと持ち上げた。男たちが圧倒的優位に立ち止まった気配がする。
「うつけが……」
小さな侮蔑はいずなにしか聞こえなかった。なにかの塊がいずなの頬を掠め、次の瞬間男たちが倒れた。
いずなは、助かったと思うことはできなかった。なぜなら、呻く男たちを一瞥したあやめの視線の先にはいずながいる。そこには、友好的な色など存在しない。
「無駄にいたぶるなど愚鈍にもほどがある」
一歩また一歩と近づくあやめは無表情のなかにいずなを捕らえている。あれほど必死に駆けたはずの足が動かなかった。
「ここは神域ぞ。消えろ」
あやめの腕が伸びる。いずなの頬が鞭で打たれたようにびりびりと痛んだ。
「痛みなど、感じる暇もなかろう」
尖ったかぎ爪にいずなは耐え切れず目を瞑った。
「ひ……っ」
それなのに、来ると思った衝撃はいつまで経っても来ない。
恐る恐る目を開いたすぐ前に、真っ白な背中があった。大きな背中が振り返る。それは山伏のような白装束をまとった男だった。男はにこりと口の端を上げ、いずなをひょいと抱き上げた。その大きな身体が軽々と飛び上がる。
二間ほどを走り、そこでいずなを下ろした。
「ここはもう、うちの領域さなァ」
あやめに向けられた口調は、軽薄に音頭をつけていた。あやめが明らかに苛立ちをまとう。
「あ、危ないぞ。そいつ、おかしな力を……」
白装束の背を引っ張ったいずなに、男がまた笑いかけた。
「よぉく知っとるよ」
まぁ、そこで休んでなァ。そういずなの頭を撫でた男は、杉の木の脇を抜けて、あやめの前に立った。
「あせび。何の真似だ」
旧知なのか、あやめが白装束の名を呼んだ。
「なにって、俺らの領域を守っとるだけさァ」
「巫山戯るな」
あやめの全身にみるみる殺気がみなぎっていく。いずなは恐怖にしゃがみ込んだ。それなのに、あせびは飄々と片足に体重を乗せてあやめを見ている。
瞬間、あせびのすぐ脇が弾けた。枝が四方に飛散する。
気づけば、あせびの姿はいずこかへ消えていた。いずなは慌てて辺りを見渡す。あせびを見つけるよりも先に、左方で木の幹がへしゃげて煙を上げた。
まるで雷が落ちたかのようだった。
あせびはひらりひらりと、まるで舞でも踊るかのようにその雷を躱している。いったいどうやって見ているのだろうと不思議な動きだった。
「白い人! 後ろだ!」
いずなが叫んだ。先ほどあやめに倒された男たちがよろよろと立ち上がり、あせびの後方から迫ったのだ。
「はっ。多対一とは卑怯!」
あせびは、到底そんなことを思っていそうにない楽しげな口調で男たちを指さした。もちろん、攻撃の手はひらりと躱してしまっている。頭に血を上らせた男たちの攻撃を軽くいなしながら、あせびがいずなの側までやってきた。
「さァて。そろそろ帰ろうか」
場違いに笑いかけたあせびが、ふたたびいずなを抱えた。
その瞬間、山中を突風が駆け抜けた。いずなはその衝撃でぎゅっとあせびにしがみついた。
「またな。あやめ」
風の中にあせびの声が笑う。同時に、バリバリと雷が鳴り響いた。あせびの手がいずなの耳を塞いでくれている。
「おー怖」
あせびはお約束の感嘆を、思ってもいなさそうな口調でつぶやく。いずなの足が地面についた。
「あれ?」
辺りはさっきとはまったく違う草木が茂っている。いずなが目を閉じていた時間は、ほんのわずかだ。
「せっかくのべっぴんが台無しだなァ」
あせびが懐から蛤の薬入れを取りだし、倒木に座らせたいずなの傷に塗っていく。痛みがみるみる引いていった。
「あせびと言ったか。助かった。ありがとう」
いずなが深々と頭を下げた。そのおかっぱをあせびが撫でる。
「べっぴんさんの名は?」
「俺か? 俺はいずなと言う」
「いずなか! 良い名だの」
そう褒めたあせびは、どこにでもいるような気のいい男といった体で、さっきまでの常人離れした動きなど夢のようだった。
「さっきの人たちは何者なんだ?」
「ん? あれらは東峰に棲む天狗さ」
ぽかんと口を開けたいずなに、あせびが飄々と語り始めた。
昔々、豊鳴山には伯翁坊なる大天狗が棲み着いた。伯翁坊を慕う天狗たちが集まり山は神域となった。
あせびが木々に隠れた尾根を仰ぐ。
「あせびはさっきの黒いのと知り合いか?」
「おう、あやめか。まァ、古い馴染みだな。いずなこそ、あんな山の奥にどうした?」
子どもが一人で山に入るのは危ないぞと、心のこもらない説教が続いた。いずなはどうにも楽しくなってしまって、歩き出したあせびに並ぶ。
「俺のおとうは葛の籠を作ってるんだ。もうすぐ冬になるだろ? だからちょっとでも籠の材料を集めねばならん」
「町から登ってきたのかァ!?」
目を丸くして驚くあせびに、違う違うと頭を振ってみせる。
「俺たちが住んでいるの山の中ほどだ。俺もおとうも町では住めんから……」
そこで話を切ったいずなに、あせびはなぜかとは聞かなかった。聞かれなかったから、いずなは話したくなってしまった。
「俺は拾い子なんだ。おとうと、死んだおかあが面倒を見てくれた」
「うん?」
「留守居のおかあが殺されてしまって、なんでだかおとうが罪人にされてしまった」
おとうには罪人の焼き印が押されているが、処刑のまえに逃げてきたのだ。いずなの話にあせびは、そうかそうかとただ相づちを打った。いずなにはそれがまたうれしくなった。
「こんな話を聞いて、あせびは俺らを突きだそうとは思わんのか?」
「なんでだ?」
そうこうするうちに、見慣れた木々が目に入り、やがていずなの住む山小屋にたどり着いた。いずなはただあせびの歩に合わせていただけなのに、どうして帰ることができたのかと不思議でしょうがなかった。
あせびが、小屋の少し離れたところで二本並んだ杉の木に触れた。
「いずな。また困ったことがあったら、こんな風に並んだ杉のあいだを抜けて山を登るといい」
まるで呪いのようだといずなは思った。
「わかった」
頷いたいずなが瞬きをして顔を上げたとき、そこにはもうあせびの姿は影も形もなくなっていた。
「……消えてしまった」
呆然としたいずなに、小屋の中から声がかかる。
「いずなか。帰ったのか」
「おとう。ただいま」
木戸を開けて小屋に入る。囲炉裏の側では、額に爛れた傷跡をもった男が顔を上げた。罪人の印を無理やり消した痕だ。
男はいずなの養父で、その通り名を鳥目と言った。本名はいずなも知らない。男は夜になるとなぜだか途端に周りが見えなくなってしまう。だから鳥目なのだ、そう死んだおかあから聞かされていた。
「遅かったじゃないか」
「山の奥でいい葛を見つけたぞ。今日は持てなかったが、また集めてくる」
「どの辺りだ?」
「秘密だ。葛集めは俺の仕事だ。おとうは横取りするなよ」
鳥目が編んだ籠を、いずなが町に売りに行く。夜目の利かない鳥目の代わりにいずなが葛を集める。二人はそうやって暮らしていた。
「あまり山奥には入るなよ」
鳥目がそう締めくくって腰を上げた。
小さな蝋燭の明かりで質素な夕餉を食う。夜目の利かない鳥目だが、手探りだけで籠を編んでいく。かしかしと乾いた葛が擦れる音を聞きながら、いずなはかい巻きに包まって眠った。
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