9人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
一、あせびとあやめ
豊鳴山は東峰と西峰の二つの峰をもっている。都に近くありながらも長くの時代を、鬼の棲む山として敬遠されてきた。
その日、その豊鳴山に人の影があった。一つは真っ白い髪に真っ白い山伏姿の男、その脇に灰鼠の着物を着た女童。そして、山裾からは大勢の男衆が手に鉈やら木槌やらを持って登ってきていた。
「なぁ、あせび。麓からなにか登って来るぞ」
「あー……大工衆じゃん」
「大工? 山でなにするんだ?」
「寺を建てに来てんだ。白装束の宮大工が混じってるだろォ?」
「この山にか? いいのか?」
「よくないなァ。ちょいとお帰りいただこうか」
おいで、いずな。
いたずら小僧のように目を細めた山伏姿のあせびが、いずなを手招いた。おかっぱ髪が跳ね、小さな手があせびの肩にかかる。あせびはひょいといずなを抱き上げると、空に向けて小さく息を吹いた。辺りかしこの草がお辞儀をして、木々の枝がガサガサと音を立てる。
ふわりとあせびの身体が浮き上がった。いずなを抱いたあせびの身体はどんどん空に近づき、高く伸びた檜の先にちょこんと腰掛けた。緩く編まれたあせびの髪が、尾のある魚のように空を泳いでいる。
「さてと」
あせびは、歌うようなかけ声とともに懐から手のひらのような葉を取りだし、軽くひと扇ぎした。すると、強いつむじ風が大工衆の足下を駆け抜けていく。ひとりは足をすくわれて転び、ひとりは倒れそうになる身体を必死の形相で木に巻き付けた。転んだ男が後ろの男とぶつかり、どんどん転がる。男たちが立ち上がろうとするたび、楽しげなつむじ風が次々と吹き抜けるのだ。
「よおよお、可笑しいなァ」
あせびが陽気な手を叩いた。大工衆たちは妙な風に慄いて、すっかり進む気をなくしている。そこに、今度は背中からのつむじ風が吹いて、男たちは揃って顔から地面にへばり付いた。
だれかが恐怖に悲鳴をあげる。それを合図に、男たちは我先にと山を駆け下りていった。
「あっはっは。早い早い」
「あせび……あそこ」
甲高く笑うあせびに、しがみついたいずなが小さな指をさした。二人のいる檜から少し離れたこれまた背の高い檜に、真っ黒い鳥が留まっている。否、黒鳥は細めた目で睨み続けるうちに人の形に変わっていく。
あせびと色違いの真っ黒な僧衣。顔の下半分を隠す半面形は鋭い嘴を形作っている。後頭部に結われた真っ直ぐな黒髪が風になびいた。
「あやめだ」
いずなが声を上げると同時に、あせびは檜の枝を蹴った。二人の身体がまたふわりと空に浮かぶ。それはみるみる黒い男の檜へと近づいた。気配に気づいた黒色が素早く振り返る。切れ長の目がさらにスッと細くなり、不機嫌にあせびを睨んだ。
「あやめよォ。ここはおまえの山じゃねェぞ」
打ち残された檜の枝であやめが睨む。あせびはというと風に流れる渡り鳥のように優雅に空を漂っていた。背には人にはないはずの大きな白い羽が広がっている。
いずなを抱いたままのあせびは、まるで昼寝でもしているかのように無防備な姿勢であやめを煽った。
「あせび。あやめを怒らせるな」
諫めながらも、どこか諦めを含んだいずながあせびの頬を抓った。
「今すぐ背を向けて帰んなら見逃してやんよ?」
ふふとわざとらしく笑ったあせびの口元に尖った歯が覗く。
あやめは睨んだ表情をぴくりとも動かさず、無言で檜の枝を蹴った。その背にはあせびと揃いの大きな黒い羽が広がっている。
羽を持つ者の距離が縮まった。一間ほどあった距離が半分になる。
あせびは顔だけは不機嫌に、口元で笑っていた。
空気がびりびりと震動を始める。あせびの真っ白な髪がふわりと浮かぶ。いずなが頬を叩き始めた真っ直ぐな黒髪を払い、小さな唇を尖らせてあやめに向かい合う。
「あやめも挑発に乗るな」
あやめの視線が少しだけいずなを捕らえ、すぐに離された。瞬間、突然の突風が草木をまき散らす。あせびの大きな手が、庇うようにいずなを包んだ。
真っ青な空に不釣り合いな稲妻が走り、呼応するように嵐が吹き荒れた。
眼下の宮大工たちが怯えて右往左往している。
「いずな。ちょっと待ってナ」
あせびが歌うようにいずなの頭を撫でる。ふわりと手を離されたいずなは、落下とはほど遠い緩やかな速度で地面に舞い降りた。
「また始まってしまった」
いずなは小さくぼやいて、ため息を吐いた。それから、どうするか決めかねてうろうろしている宮大工たちをのぞき見てまたため息を吐いた。
少し離れた杉の木に雷が落ちる。めきめきと嫌な音を立てて煙が上がった。横倒しになっていく杉が、今度は不自然に舞い上がる。それはなにかを狙うように直線をふっ飛んだ。
燃える木片が大工たちの側に突き刺さり悲鳴が上がる。
「あいつら、いい加減にしないか……」
唇を尖らせたいずなは、近くにあったヤスデの葉を千切り、面のように顔を覆った。
「おい。おまえら」
突然の声に振り返った男たちが、そこにいるのが童女だと見て目を丸くした。いずなは精々神妙な声を作って、高らかに宣言する。
「山の神様が怒っておるぞ。早く山を下りろ」
いずなの声と合わせたように突風が吹き抜けた。幾人もの男が踏みとどまれず、地面に這いつくばっている。かたや、いずなは涼しげな居住まいだ。
無事だった男たちがいずなを不気味そうに見やった。
空気がまた火花を含んで弾ける。
「ああ、もう」
苛立ちを口にして、いずなは大きく息を吸い込んだ。
「っ早う去ね!」
叱咤を合図に男たちが我先にと山を駆け下りていく。いずなはヤスデの葉を放り捨て空を見上げた。
白と黒の大きな鳥が幾度もぶつかり合っている。目を凝らしていくうちに、それはまた大きな羽で自在に飛び回るあせびとあやめの姿に変わった。
楽しそうだ。もし、その顔だけを見ていたなら誰もがそう思うだろう。
あやめから発する雷は苦無のように真っ直ぐあせびの喉を目指し、その刃をはたき落としたあせびからは、風が刃になってあやめの首を薙ぐ。
こんなもの、命がいくつあっても足りない。
二人が同時に距離を取った。獣が咆哮をあげるかのように背が反り立つ。
「あ、あの阿呆ども……」
いずなが弾かれたように駆け出す。坂を登るも下るも危険がある。だから山を回るように駆けた。さっきまでいずなたちがいた場所に、特大の雷が落ちる。
かなり離れたいずなの身体が大きく飛ばされた。
「っ痛……あいつら、俺まで殺す気か」
怨嗟の声とともに起き上がると、すっかり静かになった後方を仰ぎ見た。髪に着物に絡んだ枯れ葉をはたき落とす。
「まったく……」
また呆れたようにつぶやくと、いずなは来た道をまた駆け戻った。
「おい。生きてるか?」
半分に割れた檜の根元に、襤褸布のような二人がへたり込んでいた。全身傷だらけ、肩では止まりそうな息を繰り返している。
「いずなァ……どっちの勝ちだァ?」
顔も上げずにあせびが問う。そこには、勝ったのはもちろん自分だろうという自惚れが混ざっていた。
「指一本動かせぬくせに……大きな口を……」
いずなが答えるよりも先に、こちらは顔だけを辛うじて上げたあやめがあざ笑った。腹が立ったのか、あせびもまたのろのろと顔を上げる。
その顔が勝敗を言えとばかりにいずなを見た。
「馬鹿者どもが! 相打ちだ!」
叱り飛ばしたいずなに、二人が小さく舌打ちをした。やはり息の根を止めなければ勝ちはない、などと物騒なことをつぶやいている。そんな強がりを言えるような有様ではない。双方ともに息をしているのさえ、やっとといった状態なのだ。
「まったく……」
ため息をついたいずなが、懐から蛤の殻を取りだした。蓋を開けてその塗り薬をあせびの傷に塗っていく。
「俺はいらん……」
いずなが立ち上がり、順番だとあやめに伸ばした手が払われた。ムッと口を尖らせたいずなが、あやめの頭を平手に打った。仏頂面のあやめが黙り込み、それを見たあせびがにやにやと笑っている。
「その薬、俺のもんだァ」
「なおさらいらん……ッツ!」
「いってェ!」
今度はいずなの拳があやめの脳天に降り、蛤の蓋があせびの額に直撃した。
「五月蠅いぞ。天狗ども」
冷ややかに言い放ったいずなに、白黒二人の天狗は仏頂面に黙り込んだ。
最初のコメントを投稿しよう!