夏の目

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 豚を使う理由がわかるか。  伯父がそう質問したのは少年が裏庭の小屋で、豚の目をクリーニングしているときだった。養豚場から買った目玉には脂肪や肉がついている。それらを取り除くのがクリーニングだ。夏休みが始まって三日間、朝から晩までやっていたから作業スピードはあがっていた。ただし眼球を使ったトレーニングの成果は微々たるもので、自然クリーニングの手つきから集中が途切れがちだった。少年は椅子に腰かけたまま、しばらく手元のメスを見つめた。やがて手を動かすと「人間の目は売ってないから」と答えた。伯父は苦笑して心理学の雑誌を閉じると、少年の隣に腰を下ろし一緒にクリーニングを始めた。熟練した手つきだった。メスを動かすというより手元で目玉をくるくると動かしている。まるで服でも脱ぐように肉や脂肪が下に置いたバケツに落ちる。少年がひとつクリーニングをすませる間に伯父は三つ終わらせた。昔は牛を使っていたんだと伯父は言った。牛は人間よりも目玉が大きくて扱いやすいため、解剖の実習にも使用されていたという。しかし狂牛病が発生してから頭部の販売は中止となった。 「まあともかくだ」伯父は続けた。「どうして昔から他の動物を使って練習してきたんだと思う?」  少年は銀色のボールに山盛りとなった目玉をまたひとつ手にして考える。人間の目では練習量が足りないから、という答えではないのだろう。それは昔から、と強調した点からも推測できる。この能力は平安時代の終わりから一族に継承されてきたと聞いている。昔だったら人間の目玉も、今よりはずいぶんと手に入りやすかったはずだ。眼球を二つ綺麗にしてから、少年は降参した。 「最初から人の目で練習すると死から戻ってこなくなるという文献が残ってる。だから豚で感覚を慣らし、鈍らせておくんだ」 「鈍くてもわかるの?」 「アフリカ文学の傑作に『アラーの神にもいわれはない』という作品がある。フランス語で書かれているんだが、おれはイギリス旅行中に英語版を読んだ。すばらしかった。アフリカの少年兵が主人公で、彼の仲間である少年少女がどうやって銃を手に取ったか、どうやって死んでいったかを主人公が語る。少年は気分が乗らないときには途中で話を打ち切ってしまう。それがとてもいい」  伯父が何を言いたいのかさっぱりわからないながらも少年はうなずく。少なくとも今日はいつもよりましだ。伯父の話は分かりにくいか答えに窮するか、どちらかだった。例えば伯父は障害があるのは個人ではなく社会なんだと説明するが、詳しく教えてくれない。自分で考えろとつき放す。かと思えば、スナックの明美ちゃんとの会話を事細かに語って、十五歳の少年が閉口しても頓着せず、女の話を続ける。ずいぶんと自分勝手だと思う。そういう性格は先天的な原因によって右目しか見えない視野の狭さからくるのかと思うこともある。だとすると自分も右目しか見えないから、伯父のようになるのか。 「とはいえだ、これはフランス語から英語に訳されたもので、しかも、それをおれが日本語にして理解したわけだ。伝言ゲームのようで、本当に理解できているのかという疑問は残る」話す間に興が乗ってきたのか、クリーニングの速度が上がっていた。少年の一に対して四のペースだ。「帰国して日本語訳を読んだ。勘違いもあったが、そう間違ってもなかったよ。伝言ゲームでも大まかな筋や内容は理解できるんだ。豚で練習するのは、重訳で作品を読むようなものさ。それはそんなに的外れではないんだ」  クリーニングが終わると、伯父に促され少年は眼球を手に取った。角膜と神経線維とに分かれるよう、白目の部分である強膜に切りつける。ざくざく切っていくとゼリー状の硝子体がこぼれた。切り終えたら角膜側をアルコール消毒しミネラルウォーターで洗う。顎をあげ、見えない左目にコンタクトレンズの要領でそれをのせ、右目を閉じる。見開いたままの左目に何かが見えた。早すぎる。カメラを素早く左右に動かしているみたいだ。何が写っているのかわからない。木の柱が見えた。土も。映像が強くぶれ、すぐに見えなくなる。死んだ豚が最後に見た光景だ。残像が消えないうちに、急いで手指を拭いてノートパソコンのキーボードに打ちこんだ。片っ端から映像を文字にしたが、あまりに情報量が少なかった。ボールの目玉をすべて使っても二ページに満たない。画面をのぞきこんだ伯父が豚の動きに慣れろと言った。だから翌日は養豚場で一日中、豚を眺めた。人間よりも低い位置に目があり、低い重心でターンする。動きを頭にいれて豚の目をのせると少しだけ映像が理解でき、表示される文字が増えた。翌日にはさらに増え、次の日には一個の目の情報が一ページに収まらなかった。翌週は鶏の目を使った。動きに慣れたころカラスの死骸を見つけた。ナイフで目をえぐり取って持ち帰った。伯父には内緒にした。  村を貫いている県道は大型観光バスが通るほどの道幅がある。それだと助成金が出るのだ。村に似つかわしくない路上には轢かれた動物の死骸が放置されていることがよくあった。少年は平らになった遺体から頭部が無事なものを選び、そっと目を奪った。狸の目。犬の目。猫。鹿。イタチ。犬。カラス。犬。アライグマ。犬。犬。犬。瀕死の鷹を見つけたときは興奮で胸が張り裂けそうになった。撃たれたのか血で羽根を汚し痙攣していた。その目で見ると、世界は白黒で異常なほどくっきりと遠くまで見渡せた。素晴らしい速度で滑走し、地にぶつかる寸前に舞い上がる。それから視野がぶれ、墜落した。夏休みの間ずっと死体を探したが、鷹の目に当たるような幸運は二度となかった。
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