1人が本棚に入れています
本棚に追加
男は古びた土産物屋の前で足を止めた。
弟が死んだ穴に、酒を注いだ帰りだった。そこはクーパーピディでもっとも賑やかだった場所で、採掘場へと続く道の両側には、土産物屋や食堂、地下酒場が軒を連ねている。今はどれも空き家だ。
ゆっくりと土産物屋に近づく。それは昔アルバイトをしていた店だった。ドアはとっくに鍵が壊れていた。足を踏み入れると、どこもかしこも土埃だらけだった。壁につるしてあるラジオも、錆の浮いた回転式の絵葉書スタンドも、それにもちろんオパールの土産物も。原石をそのまま生かしてある彫刻もあれば、バイカラーの石を磨き上げアクセントにしている作品もある。センスの良いものほど重くてかさばる。そのため売れ残ってしまう。どうして置くのか店主に聞いたことがある。店主の答えは人の注目を集めるサイレンのようなものだから、だった。それからすぐに店主は夜逃げした。たぶんサイレンが誰にも届かなかったのだろう。
二十世紀の始めにオーロラのように光が踊る質の良いオパールが発見されると、クーパーピディは砂糖に変わった。世界中から一獲千金を狙う人々が群がり、アリのように地面を掘り返したのだ。一握りの成功者が生まれたが、それ以外のものは土産物屋に転職したり、見切りをつけてシドニーへと向かったりした。店主がどこに行ったのかは誰も知らなかった。
抜け殻となった店を見回すと、古くなった思い出に立っているような気がした。
あの日、店主が夜逃げしたのを知った男は、四つ離れた弟を呼んで二人で店を開けた。儲けは山分けにするはずだった。が、客は四人だけで、何も買ってくれなかった。退屈な時間を弟との会話で埋めた。
男はしばらくその場に佇んでいた。突っ立ったまま弟が死んだ縦穴を思い出していた。
家に戻ると妻が門の前で腕組みをして待っていた。引っ越しのトラックが来るまで十分を切っていた。
「あのさ。怒らないで聞いて欲しいんだ」乾いた唇を湿し男は帰り道に考えていたことを口にした。「弟は祖父がずっと掘っていた枝道を試してみたいと言ってたんだ。おれが跡継ぎになったら、あそこを掘ってと弟は言った。おれはいいよと返事した。見込みがなさそうだったから一度も掘らなかったが」
「何を言ってるの」目をつりあげた。「約束したよね。もうオパール掘りはやめるって」
「弟のために何かしたいんだ」
「言い訳にもなってない」妻は頭をかきむしった。「もうトラックが来る」
わかってる、わかってると言いながら家の前にあったビニールのゴミ袋を裂き、ロープとヘッドランプ、数本のケミカルライトを取りだした。急いで取ったためケミカルライトは折れてしまい、緑色に発光した。
「弟はいつもおれを頼りにしてくれた。褒めてくれたよ。でもおれは褒めなかった」
「だから弟さんは自殺した?」
「わからないけど。ただ弟はどこか遠くを旅してて会えないだけだって気がずっとしてる。あいつが死んだなんて今も信じられない」
「五年たったのよ」妻は言った。「ねえ、自殺した人の気持ちなんて自殺しないとわからない。そうでしょう。あなたに弟さんの気持ちなんて永遠にわからない。先に進みましょう。わたしたちは生きてるのよ」
いつも眠りにつく前はあの穴を思い浮かべずにはいられない。弟が何を見たのか想像することもある。眠りにつく直前、試みがうまく行きそうになることも。しかし激突する瞬間は他人が眺めているような映像に切り替わってしまう。後になって明晰夢でも死の瞬間は一人称ではなく客観的な視点になってしまうのだと本で読んだ。笑い話のつもりで妻に話すと、カウンセリングを受けるように言われた。
男は妻に何も言わなかった。その場を離れ、穴に向かった。地下におりると空気の温度が変わり、湿度が増した。ヘッドランプをつける。地面にハンマーや鏨が乱雑に散らばっていた。それらを拾って先へ進み、雲母の脈が走っているあたりで足を止めた。鏨を壁に当て、その尻をハンマーで思い切りひっぱたく。音が反響し石の欠片が飛んでくる。目を細めた。何度もハンマーで叩く。妻の言う通りだ。妻はいつも正しい。ただ、こうも思う。死は影のようなものだと。太陽が真上にあるときや、暗闇にいるときには、影はほとんど気にならない。しかし黄昏時には長く伸びた影に気づいて、自分はこんなに長いものを引きずっていたのかと愕然とする。そんふうに、不意に弟の死が自分をつかんで離さない。全身が汗で濡れた。胸が破れそうだった。息が苦しい。ハンマーで叩いた。叩き続けた。
弟と話したかった。
弟に会いたかった。
突然、ヘッドランプの明かりが暗くなった。荒い呼吸のまま弱々しい光が岩壁を照らすのを眺めていると、隣でハンマーの音がした。
男は隣を見た。立っていたのは、弟ではなく妻だった。喉が詰まって声が出ない。しばらくしてから、どうしてと男が問うと、あんたのせいでめちゃくちゃよと妻は答えた。
「トラックはどうした」
「追い返したに決まってるでしょ。なんでゴーグルがないの」
「そりゃ、もうやめるつもりだったから」
妻は男に目もくれずハンマーを振っている。欠片が飛んで顔をしかめた。どうしたらいいのかわからず、男は慎重に言った。
「なあ、欠片が飛ぶからもっとゆっくり叩いたほうがいい」
「わかってる」
妻はハンマーを持った手を止めると、だらりと下げる。もう一度、わかってると言い、長いため息をついた。
最初のコメントを投稿しよう!