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 男はあまりにも太っていたのでタワーマンションに食われた。  もともと微細建築知性群は部屋の汚れを取ったり、匂いを吸収したりするために考案されたものだ。群れが協調行動しながら最適な戦略を選ぶためには、シンプルなルールがいくつかあればいい。例えば渡り鳥の群れは互いにぶつからず統率のとれた動きで飛ぶが、リーダーはいない。接近、併走、衝突回避という三つのルールを守っているだけだ。それで群れとしての頭が良くなる。微細建築知性群も同じように頭の良い群れとして設計された。実際に使用されると知性群は現実からのフィードバックによって自らを改良し、数を増やした。二年も経つころにはタワーマンション全体が群れと置き換わっていた。  その年、グリーンランド氷床が完全に溶けた。海水面が八メートル上昇し、予想よりも早く世界は水浸しとなった。建物を水で囲まれる新世界に人間たちは手をこまねいていたが、建築知性群は即座に適応すると、新しく二つのルールを設定した。「一定の居住空間を確保」と「材料は手近なもので間に合わせる」だ。水没した部屋には誰も住まなかったため群れは二十五階のマンションを、二十六階建てにし、土台部分を強化した。材料は流れてきたコンクリート、車、木材などを利用した。接触してきたものを分解吸収して、群れの複製に変えるのだ。しばらくはそれでうまくいった。が、やがて水位の上昇に材料が間に合わなくなってしまった。緊急避難措置として、群れは嵩張る生物に目をつけた。男は百七十三センチ、二百五キロ、一日のほどんどをベッドで過ごしていた。群れに覆われた男は叫ぶ間もなく分解され、コンクリートや鉄のつなぎとなった。真新しい二十七階の隅々に男の肉体は利用されたが、いくつかの例外もある。右目だけは分解されず、眼球は天井に嵌めこまれた。意識も分解されなかった。あるいは男の意識は分解されなかったのではなく、単にコピーされたのかもしれない。しかしコピーされた意識であっても、複製が正確であればあるほど、自分がオリジナルであると考えるものであり、オリジナルなのかコピーなのかを論じる価値はあまりない。大事なのは新しいフロアに男の意識が宿ったことだ。男は自分だけが理不尽な犠牲となった事実に腹を立て、他の人間も同じように食べられるべきだと願った。男の望みを群れがかなえたのかどうかは定かではない。ただ、それからはフロアが増えるごとに、人が一人食べられた。食べられたものたちは最初の男と同じ反応をした。自分だけが不幸なのは耐えられない。他の誰かも不幸になるべきだ。  住民らは逃げ出すべきだとわかっていながら、自分だけは助かるかもしれないという希望を捨てられず、水位の上昇に怯えながら暮らした。  同じころ、マンションの近くを人魚の恋人たちが泳いでいた。彼と彼女は水中でも会話できたが今は無言だった。喧嘩の理由は生活様式の違いだ。男性の人魚は人として暮らした時期が長かったため、たまには座ってくつろぎたかった。ところが女性の人魚は生れたときから水中で暮らしていたため、男の語る椅子やソファへの愛着を理解しなかった。それだけではなく女は地上で暮らす不便を並べ立てた。服を着なければならない。思い立ってもすぐに泳げない。友人とも離れてしまう。そんな場所では暮らせないと女は言った。男は口を閉じると優美に泳ぐ女から目を逸らし、己の内側に逃げ込む。彼女と離れていた長い年月を想った。ずっと会いたいと願い続けていたのに、どうやら会っても幸せにはなれそうもない。いっそのこと、と男は思う、彼女と出会わなければよかったのではないか。  不意に女に手を引かれ、指さす方向を見ると、異様な物体が目に映った。まるで巨木の根のようにコンクリートが枝分かれして海底をしっかりと掴んでいる。中央にあった菱型の窓から中に入ると、どうやらマンションのようだ。非常階段沿いに上に向かった。五階は水浸しだった。腰の高さまで浸水していて、人の姿はどこにもない。男は尾びれを足に変えると歩き出した。後ろで彼女も同じようにしたのが足音でわかる。暗い廊下は妙にねじくれていて、床は波打っていた。部屋はどれもドアが開いている。内部をのぞくといくつか置き去りにされた家具があった。部屋に足を踏み入れ、ふやけてしまったソファに座った。目を閉じる。 「座ると楽なの?」 「こんなソファでも天国のような気分になれるものだよ」 「じゃあここにする?」  目を開けると、女はいつのまにか足を尾びれに戻していた。アシカのような姿勢になって両手を床についている。座っている男と目の高さが同じだ。どういう意味かたずねると、大きな目をぐるっとまわした。 「だからね、ここだったら他に誰もいないから服を着る必要もないし、すぐ海に行ける」 女はさらりとつけ加えた。「あなたにはソファもある」 「友達も呼んだらどうかな」男は女を見つめた。もう一秒も目が離せなかった。「部屋ならかなりありそうだから」 マンションは二人の新居となった。すぐに彼女の友人たちも越してきた。これまでずっと無人だった水没階は賑やかになった。床を歩く足音や、壁に反響する声を微細建築知性群は感知した。群れに人と人魚を分ける基準はなかったし、区別する必要もない。人も人魚も、微細建築知性群と同じくマンションを構成する群れなのだから。大事なのは一定の居住空間を確保することだ。一階から五階までの部屋がずいぶんと埋まったので居住空間は増えた計算になる。水位が上がっても新しいフロアを作る必要はない。しばらくはそれでうまくいきそうだった。
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