一、流星と彗星

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一、流星と彗星

 世の中には、『流れ星に願い事を三回唱えると叶えてもらえる』などという俗説がある。しかし俺は生まれてこの方、流星というものを直接見たことがなかった。子供の頃、夕方のテレビのニュースで、流星群の予報を見たことは何度かある。だが、いつも天気が良くないだの、建物で隠れていたりだの、そもそも夜には予報を忘れていたりだの、といった理由で機会を逃し続け、結局俺は大人になっても流星を目にすることはなかった。きっと願いを叶える流れ星なんて、俺にとっては縁のない存在だったのだろう。  その日も晴れると謳っていた天気予報が外れ、テレビであれだけ騒がれていた“アルビレオ彗星”など、とても見られそうにないほどの大雨が降っていた。  入社してからおよそ三ヶ月が経つ。二十二歳、新生活初の夏が訪れていた。  俺は額の汗を片手で拭いながら、参照エラーを吐き出す表計算ソフトと格闘していた。社内の気温はクールビズの影響からか、クーラーがかかっていてもじんわりと暑い。外の大雨も相まっていやに湿った空気の中、窓一つ空いていないオフィスに、キーボードを叩く音が静かに響いている。  夏という季節はどうにも苦手だ。いや、正確に言うと苦手になった、と言うほうが正しいだろうか。幼い頃の俺は、夏休みが楽しみで仕方がない子供だった。学校に行くよりは家にいるほうが好きだったというのも理由の一つだが、夏という季節にある種の浪漫を抱いていたことのほうが主だった。  子供が抱く夏のイメージといえば、砂浜をきらめきながら打ち付ける白い波に、吹き抜けるような空に堂々と構える入道雲や、田舎の実家の煤けた縁側を照らす熱い日差し、明け方から騒ぎ始めるヒグラシ、クマゼミ、アブラゼミ……といったところだろうか。大人になった今、そういった光景は空想の世界に感じる憧れのような、遠い存在になってしまった。夏休みの終わりが近づく度に感じていた、あの焦りに似た切ない気持ちさえ、今思い返せば懐かしいものでしかない。  俺は作業の手を一旦止め、一息ついた。疲れているのだろうか。最近、ついこうして物思いにふけることが多くなった。卓上カレンダーに印刷された海の写真を見て、そういえば海にはもう年単位で行っていないな、と思いかけて首を振る。勤務中に現実逃避なんてするもんじゃない。目の前の膨大な量の管理表に向き直る。  総務課長曰く、今まで適当に派遣社員に丸投げしていて、テンプレートも記述も単位もバラバラになった古いデータが、過去十年分ほどはあるらしい。それらを纏めるように頼まれていたのだが、正直言うと気が遠くなる作業だった。何しろ量が多い。毎月の管理表が約十年分、単純計算でも約百二十件。その上記入者が変わるたびに表記揺れが起きているため、決算書と比較して確認する作業から行わないといけない。一昨日から始めて、今はちょうど四十件目に取り掛かったばかりなので、まだ半分にも達していないところだ。果たしてこの作業ペースは遅いのか、それとも普通なのか、そんな不毛な考えが脳裏を離れなかった。  思わず目頭を押さえかけると、後ろから不意に声がかかった。 「坂本くん、お疲れ」 「あ……お疲れ様です、課長」 「作業中に悪いけど、これ今日の分ね」  課長は気さくに笑みを浮かべながら、五センチほどの厚さがありそうな書類の束を差し出した。今日のぶんの発注書だろう。もうそんな時刻か、と左腕を確認しようとして、俺は自分が腕時計をしていないことに気がついた。またどこかに置き忘れてしまったらしい。 「わかりました」 「帰りまでによろしく。そっちはゆっくりやってくれて良いから。……あ」  課長は自分の机に戻ろうと背中を向けた後、ふと何かを思い出した様子で振り向いた。 「悪いけど、この後三十分くらい残業頼んでもいい?」 「清掃なんか業者に頼めばいいのによぉ」  同期の大久保は、口を尖らせながら呟いた。 「急に予定を変えられたから、間に合わなかったんだとさ」  もう一人の同期の木戸が、怠そうな表情で彼に答える。終業後、俺と大久保と木戸の三人は、応接室の清掃に当たっていた。 「なら、もっと前から綺麗にしておけば良かったじゃんか。正社員に掃除なんかさせるかよ」 「ぶつくさ文句を言ってる暇があったら、手を動かせよ。そんなんだから残業が長引くんだぞ」 「へいへい」  木戸から冷たくあしらわれ、大久保はしぶしぶ掃除を再開した。拭き取った埃ですっかり真っ黒になってしまった雑巾を、ビニール袋に雑に放り込み、新しい雑巾を水で濡らして硬く絞る。しばらくはこの作業の繰り返しだ。  課長から「急に来客予定が前倒しになったから、建前程度でも綺麗にしておきたいんだよね」と言われたときは思わず首を傾げたが、実際に応接室に入ると、すぐその言葉の意味を理解できた。  応接室には、年代物と思わしき洋風の木製家具と、高価そうな鋲付きのレザーソファが並んでいた。しかしそれらはよほど長い間使われていなかったのか、指で触ると跡ができるほどの埃で覆われてしまっていた。カーペットは用意されていた新品と取り替えるとして、床や家具は拭いて埃をとるしかない。  来客は午後六時の予定だった。あまり時間がないので、それまでに掃除を終えたい。あと何分だろうか、と腕を見て、俺は再び腕時計が無いことに気がついた。 「ごめん木戸。今何分かわかる?」 「二十八分。そろそろ切り上げるか」  時間を見る木戸の横で、大久保が怪訝そうな顔をした。 「坂本、時計は?」 「置いてきたみたい。多分、食堂かトイレのどっちかだと思う」 「探してこいよ。片付けとタイムカード、お前のぶんもやっとくから」  大久保は雑巾を握りながら快活な笑みを浮かべる。木戸も慣れた顔つきで手を振った。 「ごめん。助かるよ」  二人に軽く会釈しつつ、俺は自分の記憶を辿った。昼食の時間に時計を外したような気もするし、手を洗うときに外したような気もする。もしかしたら、着けてきたつもりで自宅に忘れている可能性も──そこまで考えて、心当たりの多さに頭を抱えた。  とにかく手当たり次第に探して、見つからないようなら諦めよう。悩んでいる時間の方が無駄だ。そう焦る気持ちとは裏腹に、廊下を歩く足取りは重く感じた。  恥ずかしながら、俺がこんな風に物をなくすのは、決して珍しいことではなかった。入社してからまだ半年すら経っていないのにも関わらず、その間に自宅の鍵を二回、傘を三回、そしてペン類に至っては回数を覚えていないほどなくしている。先月はクレジットカードをコンビニに忘れ、店員の女性を向かいの交差点まで走らせてしまったし、四月の新入社員歓迎会では、鞄を丸ごと店に置いて行って、その後駅から十五分ほどの距離を往復する羽目になった。おかげで営業部長からは“うっかり坂ちゃん”などという不名誉なあだ名を付けられている。  学生の頃から忘れっぽい性格だったことは自覚していたが、近頃この悪癖がよりひどくなっていた。何かをなくす度に気をつけようと反省するものの、気づけばまた何かをなくしている。幸いなことに、まだ業務に差し障るような重大なミスは起こしていない。しかし正直に言うと、こんな状態でこの先やっていける自信もなかった。  そう考えているうちに、俺は目的地だった二階の男性用トイレを大きく通り過ぎ、いつの間にか廊下の突き当たりに立っていた。  今日はもう、とことん駄目かもしれない。慌てて引き返しながら、そんなことを思った。  二十分後。心当たりのある場所は大方探し終えたが、結局時計は見つからなかった。諦めて帰ろう、とロッカー室を出ようとした途端、 「坂本っ!」 「うわっ!!」  背後から急に大声で呼ばれ、俺は慌てて床にひっくり返りかけた。 「大久保……と、木戸……」  振り向くと、二人がニコニコと笑いながらこちらを見下ろしていた。いつの間にそこにいたのだろうか。ぽかんと口を開けていると、木戸は呆れた様子で大久保を指さした。 「脅かすために隠れて待ってようって、こいつがさ。いい歳して小学生みたいなこと考えるよな」 「でも、気分転換にはなったろ?」  へらへらと笑う大久保の態度は、とてもじゃないが社会人らしくない。けれど確かに、そんな彼の様子にどこか安堵を感じる自分もいた。 「ってわけで、行くぞ坂本!」  大久保に腕を引っ張られ、俺はふらつきながら立ち上がる。 「え、行くって?」 「作戦会議だ。この後、時間あるだろ?」  木戸も真剣そうな顔で頷いた。「作戦会議?」と思わず聞き返したが、二人は有無を言わさず俺を引きずって歩き始めた。  雨の中二人に連れられて、俺は駅前の居酒屋に来ていた。会社から距離が近く、新入社員歓迎会でも使われたわりと馴染みのある店だ。  天気のせいか、客足はあまり良くないようだ。「空いている席へどうぞ」という案内に促されるまま、二人が適当に座敷席へ座ったのを見て、俺も後に続く。席につくやいなや、大久保は真剣そうな面持ちでちゃぶ台に肘をつき、手を組んだ。 「これより、新入社員懇親会作戦会議を行う」 「新入社員懇親会?」  思わず聞き返すと、頷く大久保の横で木戸が「ようするに合コンだ」と付け加えた。 「新入社員だけで勝手にやっていいのか?」 「別に良いだろ、勤務時間外だし。部長の許可は取ってるぜ」  どうやら大久保達は既に計画を立て始めているらしく、テーブルの上に手帳を広げながら話し始めた。手帳には懇親会のコンセプトやスケジュール予定、懇親会内で催す企画の案、そして参加予定の社員名がずらりと書かれていた。大久保と木戸の名前には、既に参加確定のチェックが入っている。妙々たる用意周到ぶりだ。 「新人同士じゃないと言えないこととかあんだろ? 今日だって雑用ばっかでマトモな仕事やらせて貰えなかったし」 「気持ちはわかるけど……愚痴が言いたいのか異性と出会いたいのか、どっちなんだよ」 「両方だよ!」  大久保は眉をつり上げながら、拳を握ってみせた。そして矢継ぎ早に話を続けた。 「まあ聞けよ。営業二課は得意先の企画倒れでご覧の有り様だし、総務課は派遣社員が立て続けに辞めて、他の部署に雑用を回すレベルになってるじゃないか。新人教育にも手が回っていないみたいだし、俺達以外にも不満を抱いてる新入社員は多いはずだぜ」  確かにそうかもしれない。俺は軽く頷いた。今月に入ってからは、俺も総務の仕事を手伝うようになっているし、大久保の話には説得力を感じる。 「そこでだ。不満を抱いている女の子の話を聞いてあげて、『わかるわかる〜』って同意してあげるんだ。すると女の子は『この人わかってくれる人だ!』って俺らを信用して、コロっと落ちてくれるワケよ」  ……前言撤回しよう。大久保の話は、途中から猛烈な勢いで説得力を失っていった。 「お前、女性をバカにしてないか?」 「あ? どこがだよ。完璧な作戦じゃないか」  そんな簡単に事が進むわけがないだろう。大体、愚痴に同意しただけで恋に落ちるほど、女性を単純なものだと思っているのもどうかしている。思わず呆れかけると、木戸に肩を小突かれた。 「な、こいつバカだろ」 「……そう思うなら何で止めないんだよ」  大久保に聞こえないよう小声で耳打ちした彼に、俺も小声で返した。 「逆に考えろよ、坂本。大久保が合コンでバカをやらかしたら、俺達が上手くフォローするんだ。こいつを踏み台にしてイメージアップしてやろうぜ」  木戸の顔は、時代劇の悪代官さながらの卑しさをしていた。イメージアップなどと謳っているが、俺の中の木戸のイメージはたった今崩落したところだ。 「おい木戸、何話してんだ?」 「いや? 企画案について、坂本に何か意見がないか聞いていただけだ。な、坂本?」 「ほーん?」  大久保の怪訝そうな顔がこちらに向いた。急に話を振られて、俺は内心戸惑いながらも答えた。 「あー、その、愚痴作戦も悪くないと思うけど、前向きな話題もあった方がいいんじゃないか?」 「前向きって、どんなだよ?」 「えーと、流行りの何かとか……」  自分からそう発言をしておいて、つい言葉が濁っていく。俺は同年代の女性の流行など、殆ど知らなかった。頭を抱えていると、木戸が思いついたように顔を上げた。 「流行りはよくわからないけど、事前に時事ネタを仕入れておくのはアリじゃないか? ニュースサイトやSNSのトレンドを調べればいくらでも出てくるだろ」 「それだ!」  木戸のフォローに俺も大久保も頷いた。大久保は早速スマートフォンを開き、目ぼしいネタを探し始める。 「へえ、女優の天野冬海、亡くなってたんだ」  大久保はスマートフォンの画面にSNSのトレンド欄を表示させて、俺たちに見せつけた。彼の言う女優の訃報は、今日のトレンド欄の中で最も大きく取り上げられていた。 「あの“氷の瞳”の?」  木戸が食いついた。氷の瞳とは、天野冬海の特徴的なアイスブルーの虹彩と、プライベートでドライに振る舞う冷たい印象を掛けた、あだ名のようなものだ。マスコミやワイドショーがそう呼んでいたものが、その後一般層にも定着したらしい。単語の響きは綺麗だが、その意味はどちらかというと蔑称だ。 「酒の席で訃報は無いだろ」  野次馬顔をする二人に釘を刺しつつ、俺もSNSのトレンド欄を覗くことにした。天野冬海の訃報に関する単語で、殆どの欄が埋まっている。死因の病名に関する情報や、代表作のタイトルや、果てには家族関係がうまくいっていなかった、というプライベートに踏み込んだニュースまで広がっている。そんな有象無象の単語群をスクロールして流していくと、俺の目に一枚の写真が留まった。 「アルビレオ彗星か……」  数日ほど前から、夕方から夜にかけて、はくちょう座の近くに見えているという彗星の話題だ。写真の彗星は暗い山地で撮影されたものらしく、青白く尾を伸ばす彗星の光が一際美しく写されていた。 「彗星? 女の子ってそういうの好きそうだよな」  大久保が同じ記事を眺めながら呟いた。 「彗星といえば、願い事を三回唱えると叶えてもらえるっていう話があるよな」 「それ、彗星じゃなくて流星の話じゃないか?」 「似たようなもんじゃないのか?」  首を傾げる大久保に、木戸は律儀に身振り手振りを交えながら、彗星と流星の違いを説明し始めた。 「全然違うぞ。流星は、宇宙の塵が大気圏の摩擦によって発光する現象だ。対して彗星は、氷で出来た小天体が、太陽熱によりガスを発して光る現象でだな……」 「ふぅん……」  大久保は木戸の長い説明を、あまり興味が無さそうに聞き流していた。俺はなんとなく、流星は一瞬だけ光るもので、彗星は数日間かけて空を通っていくものだと認識していたが、そもそもそれらは別の現象らしい。 「というか、その願い事の話って、確か流星が流れるのが早すぎて、結局願い事なんか言い終えられないって意味じゃなかったっけ」  何気なくそう呟くと、大久保は「じゃあ彗星でいいから、願いを叶えてくんないかな」と、雨が叩き続ける窓の方へぼやき始めた。  彼女が欲しい、と霧雨に遮られ見えない彗星へ願いを唱える大久保に、木戸は呆れた様子で「それは自力で叶えろよ」と言い放つ。二人がそうして和気藹々と盛り上がるのを眺めながら、俺は一人、彼女とはそんなに良いものなのだろうかと考えていた。  たしかに、帰宅して自分しかいない部屋で『ただいま』と空に向けて語るのは、なかなかの寂しさがある。そこに誰か『おかえり』と言ってくれる人がいたら、俺の生活はもう少し変わるのだろうか──などと思ってから、そんな考えをするのは未熟かもしれないと思い直した。実家を出て上京してから、まだ三ヶ月しか経っていないのに、ホームシックになるには早すぎるだろう。  俺はそんな雑念を流し込むかのように、グラスの冷水を一気に飲み干した。  暫くそんな調子で同期と酒を飲み交わし、数時間後、俺はようやく帰路についた。懇親会の予定は再来週の頭で、現時点での参加予定者は俺を含めて六人だという。  そのうち女性は二人しかいないので、俺達は新入社員懇親会というコンセプトを諦め、先輩の女性を誘うか、いっそ社外の同年代女性を誘うかの選択に迫られそうだった。結局それじゃあ、ただの合コンと変わらないじゃないか。雨粒が傘のビニールをぽつぽつと打つ音を聴きながら、駅への帰り道で俺は一人そう思った。  終電間近の駅前は、都内いえど閑散としていた。傘を畳みながら定期券を取り出そうとして、俺は急に背筋に悪寒が走るのを感じた。  そういえば、自宅の鍵、かけたっけ。  定期入れに繋げてあるキーリングを見て、急に焦燥感がこみ上げてきた。改札を通りながら今朝の記憶を必死に辿ろうとしたが、鍵をかけたかどうかは全く思い出せない。というか冷静に考えれば、帰宅直前のこんなタイミングでそれを思い出したところで、大して意味はないだろう。いくら物忘れが激しいからって、この状態で今まで空き巣に入られなかったのは奇跡だと思う。それか、今夜こそ空き巣に入られているかもしれない。  人気のない列車の中で揺られながらも、俺の頭の中はどうしようもない不安でいっぱいになっていた。通帳やキャッシュカードがなくなっていたら、どうしよう。あの口座には、両親が汗水流して一緒に貯めてくれた貯金が入っている。盗まれたら、手続きはどう取ればいいのだろう。そもそも、盗まれていなければいいのだが。  窓の外では雷の轟音が幾度も鳴り響いていたが、それすらどこか遠く感じるほど、俺は心の余裕が無かった。  電車から降りる頃には、俺の気持ちは少しづつ落ち着き始めていた。それでも早足で最寄駅を出て、アパートまでの道のりはなるべく急いで駆け抜けた。後ろの方から再び雷が落ちる音が聞こえたが、それどころじゃない。  手元が揺れ、傘が幾度か傾いてしまい、その度に雨水が入り込んでスーツが濡れた。何度か水溜りを踏んでしまい、泥水が革靴に跳ね、染み込んだ雨水が足先を冷やし始める。しかしそれ以上に、冷や汗をかいている首筋の方がよほど冷たく感じた。  アパートの明かりはどの部屋もついておらず、住民は皆寝付いている様子だった。俺の部屋はアパートの一階の中で最も道路側に近い。近隣住民を起こさないようそっとドアに近づき、レバーを捻った。  緩い力でドアレバーが傾き、やはり鍵はかかっていなかったと知って落胆した。恐る恐るドアを開け、玄関の明かりを付けようとしたところで、俺は辺りに強い違和感を感じた。  不意に目線を下に向けて、ぎょっとした。暗がりでよく見えないが、玄関の床に何かが転がっている。息を飲んで見ていると、転がっていた何かはゆっくりと起き上がり始めた。人だ。自分の部屋に、知らない誰かがいる。不法侵入、窃盗、はたまた強盗、まさか幽霊──不穏なイメージが脳裏を過ぎりはじめた。  ついさっきまで『空き巣に入られているかもしれない』などと想像を巡らせていたが、まさか侵入者と玄関で鉢合わせることになるとは思ってもいなかった。心臓が激しく早鐘を打つのが、自分の耳にまで聞こえてきそうな程だった。俺は緊張でドアに片手をかけたまま動けずにいたが、人影の方も上体を起こして座ったまま、じっとして動かないようだった。  そうして互いに動くことができないまま、時間だけが闇雲に流れていくのを感じた。次第に暗闇に目が慣れ始め、よく見ると人影はかなり小柄な体格をしていることがわかってきた。襲ってくるような気配もなさそうだ。俺はほんの僅かに安堵を感じた。  しかしそれとは別に、冷静になりつつある頭の中で、一つの疑問が湧き始めてもいた。この子は一体俺の部屋で、それも玄関で、何をしているのだろうか。側から見た限りでは、中学生ほどの子供に見える。この季節に似つかわしくない長袖のジャンパーを着て、リュックサックを背負い、黒いキャップを深めに被っていた。俺はさほど服飾には詳しくないが、履いている黒いズボンとスニーカーは、メンズもののように見える。俺の脳裏をよぎっていた不穏なイメージに、家出少年という単語が上書きされ始めた。  訝しげに思ったのが、俺の顔にも出ていたのだろう。少年は俺の方を見ながら顔を上げた。 「……帰ってきたんだ。この部屋の人?」  抑揚のない、冷え切った声だった。それでいて、透き通るような響きも感じられた。まだ声変わりすらしていない、年端もいかない子供のようだ。俺は当惑しながらも、彼に頷いて見せた。  服も髪も黒いためわかりにくかったが、よく目を凝らすと、少年はひどく濡れ、おまけに震えている様子だった。しかしその瞳だけは爛々と光り、まるで俺の姿を捕らえているようにも見えた。震える子供に憐憫を感じる気持ちを許さないかのような、強さを持った視線だった。 「おかえり」  冷たいままの声で、彼は確かにそう言った。その声と同じくらい冷たい瞳は、夜の闇の中で目立つほどの青さを放っていた。それはまるで、発光する氷の小天体のようだった。  綺麗だ、と俺は思った。
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