二、深夜の訪問者

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二、深夜の訪問者

 その昔彗星というものは、正体が不明なことから、疫病や災厄の前触れなど不吉の象徴として例えられることが多かった。日本では明治時代、彗星の通過に伴い大気中に毒ガスが撒かれるという噂が流れ、大きな波紋を生んだことがある。  しかし近代では研究が進み、その実態が氷やドライアイスが混ざった巨大な塊だと判明した。悪しき災厄の象徴はたった百年ほどで、人々から親しまれる美しい自然現象へと変貌を遂げたのだ。『彗星のごとく現れる』という言葉がある通り、人々が彗星に抱くイメージは、恐れから憧れへと変わってきたのだろう。  俺にとって彼女との出会いは、正しく“彗星のごとく”と言うべきものだった。 ---  母が危篤であることは、父から数日ほど前に知らされていた。そのためか実際に冷たくなった母の顔を見たとき、思っていたよりも驚かない自分自身に驚いた記憶がある。雨音しか聞こえない静かな病室で、私は母の顔をぼんやりと眺めていた。  ふと見ると、私の横に立っていた父は、死体よりもよほど冷ややかな目を母へと向けていた。私もそのとき、きっと同じような顔をしていたのだろう。父と私は嫌気がさすほどよく似ていた。外見のことではなく、感覚的な話だ。父も私も、世の中をどこか冷めた目で見ていて、無感情で、怒ることも泣くこともほとんどなかった。  父はあまり私に干渉したがらなかったし、私も父を避けていた。父と自分の関係を語ろうと思っても、特に何のエピソードも湧いてこないほどだ。父は仕事が忙しく、あまり家に帰ってくることもなかったので、ろくに会話をしたことすらなかった。私も会話は苦手だったし、それで良いと思っていた。しかし、母はそんな父とは正反対だった。  あまり感情を見せない父と違い、母はよく怒ったり泣いたりする人だった。そして私のことをいたく気に入っていたのか、事あるごとに私を構う人でもあった。学校では何を学ぶべきか、どんなものを食べるべきか、どんな服を着るべきか、将来どんな職業に就くべきか、外では遊ぶなとか、夜は何時に寝なさいとか──そんなことを毎日のようにしつこく言い聞かせられてきた。母の口癖は「全部貴女のためよ。私の言うことだけをききなさい」というものだった。言いつけを破ると、彼女は怒って叫んだり、泣いて私に縋り付いたりしてきた。  私は次第に、この人の言うことを聞く以外は何もするべきではない、と考えるようになっていた。同時に、何もしなくても良いんだとも思っていた。私生活の殆どは母に任せきりで、炊事や洗濯などの家事はおろか、掃除やゴミ出しも自分ではまともにしたことがなかった。唯一、インターネットの世界と、机の引き出しの中だけが私が自由にできる場所だった。  引き出しの中には、小遣いを貯めて買ったゲーム機を集めていた。母に見つかると捨てられてしまうので、引き出しの手前の方にタオルを詰めたりして隠していた。母が寝た後、こっそり一人でゲームを遊ぶのが日課だった。母の言いつけを破るという罪悪感は、まるでなかった。  そもそも、私は母のことが好きではなかった。嫌いだったのかと問われれば、はっきりそうだとも言えないが、少なくとも好きではなかっただろう。よく「私はこんなに貴女を愛しているのに」と泣いて訴えた母に対し、その度に口先で「ごめんなさい」と言いつつも、内心では面倒だと思っていた。そんな親不孝な娘だった。  高校二年の夏、母が倒れた。詳しい病名は聞かされていなかったが、末期がんだったらしい。母の病状は思いの外重く、入院してからは家に帰ってこなくなった。必然的に私は一人で過ごすようになり、そうしてすぐ、自分の無力さを痛感した。  私は、一人ではまともに外出することすらできなかった。生活に必要なものはインターネットの通販で買い、食事は即席麺や冷凍食品で済ませていた。洗濯の仕方もよくわからなかったので、汚くなった服は適当に手洗いしたり、片っ端から捨てて新しいものを買っていた。学校の制服だけはどうしようもなかったので、これもまた適当に水でゆすいで干して使っていた。そのせいで私の制服はすぐに色が落ちてシワだらけになってしまったが、私はそんなことはどうでも良いと思っていた。  お金は家のクレジットカードを勝手に使って貯金を崩していたが、父はそれでも私に何も言わなかった。そんな生活を二年ほど続けて、私の身の回りは見る見るうちに汚くなっていった。気づけば大学受験にも失敗し、私は浪人生になっていた。  それから母が死ぬまでの間は、家に引きこもってひたすらゲームに没頭していた。けれど大好きだったはずのゲームをしている間ですら、私の心の中はどこか虚ろだった。クリアしたはずのゲームの内容すらよく覚えていなかったし、引き出しの中でこっそり遊んでいた時のようなワクワクする感覚もなくなった。母が死ぬより少し前に、父が影で知らない女性と付き合っていたことを知ったとき、私はようやくその理由がわかった気がした。  父は、母が危篤になってからも頻繁にその女性と会っていた。大胆にも家の前にタクシーを泊め、女性と待ち合わせていたのだ。娘の私には、不倫を隠す気すらないようだった。  母は、父から全く愛されていなかったのだろう。そして私もまた、母を愛していなかったのだ。彼女が病床に伏している間、友人はおろか母の身内すら見舞いに訪れることはなく、時々来たのは有名女優の危篤に興味津々の、カメラを持ったマスコミだけだったというのだから、世の人達も彼女を愛してはいなかったのだろう。そんな現実と、私に泣いてまで愛を訴えた彼女の姿を思うと、その差はあまりにも残酷だと感じた。  他人事のようにそう感じている私が、最も残酷だとも思った。  だからもう、私は私を、殺してしまおうと思い立った。  生まれて初めて、一人で買い物をした。リュックサックと、キャップと、革のベルトだ。ベルトはできるだけ丈夫なものを二本選んだ。リュックサックに、買ったものとスマートフォンと小銭入れと、それから数年前に飲まずに溜めていた処方薬の睡眠導入剤を詰めて、自室に書き置きを残してから家を出た。  書き置きには、『家にいたくないので、しばらく留守にします。気持ちが落ち着き次第、来月を目処に必ず帰るので、心配しないでください。一人になりたいので、探さないでください』と残しておいた。  もちろん、来月に帰るなんて嘘のつもりだ。これは虚偽の失踪宣告書で、捜索願を出されないための保険のようなものだ。父のことだから、たとえ何も言わずに家出をしたところで、私の捜索願を出すことはないだろう。しかし、マスコミは娘の失踪を無視する父親を見逃さないはずだ。いくら死ぬ予定とはいえ、あまり大きな騒ぎにはしたくなかった。『女優、天野冬海の娘、天野夏来さんが死亡、死因は自殺か──』などという見出しが朝刊に載ることを想像すると、吐き気がする。  もう一つ、これは万が一自殺に失敗して家に帰らざるを得なくなったとき、次の機会を失わないための保険でもある。死ぬために家出をしたと発覚すれば、私は今後同じことをしないよう精神科に入院させられてしまうだろう。最も、そういう意味での保険としてこの書き置きが役に立つ機会などはあってほしくなかったが。あくまでも、私は明日には死んでいる予定なのだから。  一人で電車に乗るのも、私の人生で初めてのことだった。駅のトイレに雑に切った後ろ髪を流し、自販機で水を買ってから、私は改札口へと向かった。切符の買い方がわからず首を傾げていると、駅員の男性が代わりに買ってくれた。目的地は都心から離れた、いわゆるベッドタウンの駅だ。場所は事前に野山に近い所をインターネットで調べておいた。  去り際に駅員から「もう遅いから早く帰るんだよ」と言われ、私はキャップを深く被り直した。まるで子供だと思われているようだ。だけど、路線図の見方すらわからなかったのだから、そう思われて当然だった。  電車を降りると、インターネットで調べた通りの光景が広がっていた。辺りは東京の駅前とは思えないほど静かで、田舎というにふさわしいほど何もない。あるのは木や生垣や、それに畑か一軒家くらいのようだ。よく見ると、その中にいくつかアパートが建ち並ぶのも見えた。それらを横目に、私は坂を登って山の方へと向かう。できるだけ、人目のつかない場所で首を吊ろうと決めていた。  歩いているうちに、てっきりやんでいたと思っていた雨が、再び降り始めた。傘を持ってこなかったのを一瞬後悔したが、これから死ぬ人間が濡れるかどうかなんて、どうでもいいだろうと思い直した。  しかし、そう思ってしばらく歩いていると、雨はそのうちますます勢いを増し、しまいには雷まで鳴り始めた。それも音の大きさからして、かなり近くに落ちたようだ。私はあまりの轟音につい怖気づき、歩みを止めてしまった。死のうと思っていたはずなのに、雷なんかが怖いと感じてしまった。一瞬にして、頭の中が真っ白になっていくのを感じた。  引き返そうか。どこへだろう。家へ? 帰ってどうなる。今更どうする。帰りたいのか? 帰りたくはない。どうしたいんだ? 何でこんな所に来たんだ。わからない──堂々巡りを始めた思考へ、無理やり終止符を打つように、もう一度雷が落ちた。私は思わずパニックになりながら、近くのアパートの軒下へ駆け込んでいた。  惨めだった。勢いで家を飛び出しておきながら、結局本当は死ぬ勇気なんかなかったのだ。あげく知らない土地で雨に濡れ、震える臆病者の小娘だなんて、自分でも情けなくて仕方がない。一人で生きることができない愚図のくせに、一人で死ぬことすらできないんだ。  雨は怯える私を構うことなく、真っ暗な夜中の路地を冷たく叩きつけている。時折獣の唸り声のような音を立てて、稲光が白く光った。点滅する視界の中、私は進むことも引き返すこともできず、立ち尽くしていた。 「こんな時間にどうされたんですか」  年配の女性の声がした。顔を上げると、傘をさした女性がきょとんと目を開いて私を見ていた。答える言葉が出てこなくて黙っていると、女性は「坂本さんにご用ですか?」と私の背後へ目を配りながら続けた。  振り向くと、確かに表札に“坂本”と書かれているのが見えた。無意識だったが、私は人の部屋のドアの前に立っていたようだ。明かりはついていない。 「……帰りを待ってます」  私は女性に頷いて答えた。口をついて出た適当な嘘だったが、女性はそれ以上追求することはせず、ただ一言「もう夜遅いですから、気をつけてくださいね」とだけ言い残して階段を上っていった。二階の住民のようだ。  女性が去った後、全身からどっと力が抜けていく感覚に襲われた。思わず背後のドアへ背をもたれると、ドアレバーが傾いた。無用心なことに、鍵がかかっていないようだった。慌てて離れたが、部屋の中に人の気配は感じられなかった。  先程の女性は、もう自分の部屋へと帰った様子だった。しかしそれでも、いつ他の近隣住民が通りかかるかわからない状況だ。人に見つかりたくない一心で、私はあまり後先を考えずにドアを開けた。部屋の中は灯り一つついておらず、やはり坂本さんとやらは留守のようだった。玄関に物一つ落ちていないのをいいことに、私はその場にへたりこんだ。目眩がして、本当は立っているのもやっとだった。  そこは全く知らない人の部屋だったが、座っているうちに、次第に心が落ち着いてくるのを感じた。石畳の床が冷たく、熱った身体には気持ちいい。雨と汗で服もリュックもぐっしょりと濡れていたが、それらを脱ぐのすら面倒だった。身体を起こしている気力もなく、私はそのまま力なく床に倒れ込んだ。乾いていた石畳の隙間に、私が浴びていた雨水が滲み、水たまりの模様を描き始めた。  これからどうしよう。いいや、もう考えたところでどうしようもないだろう。私は不安を抱きつつも、悩むのをやめた。頭の中がひどく熱く、それ以上何も考えたくなかった。おぼろげな不安を頭ごと床に押し当てて、私の意識は遠のいていった。  もう一度、遠くの方で雷が落ちた音が聞こえた。 ---  こんな夜遅くに、知らない子供が自分の部屋の玄関にいる。まるで映画やドラマのワンシーンのような、現実感のない状況だった。  いや、そんなことを考えている場合ではない。ひとまず時間を確認しようとして、俺はその日腕時計をなくしていたことを思い出した。代わりにスマートフォンを取り出そうとすると、ずぶ濡れの少年は立ち上がった。 「通報するの?」 「え? いや、まあ……」 「今、出ていくから」  有無を言わさない態度で、少年はこちらににじり寄ってきた。言わずとも、『通報するな』と言いたげな雰囲気が感じ取れた。俺がドアの前から離れれば、彼はすぐに出て行くつもりなのだろう。青い瞳に、まるで懇願するような悲壮さが滲んでいるように見えた。  俺は迷っていた。このまま警察に連絡すれば、彼はたとえこの部屋から出て行ったとしても、その後間もなく身柄を保護されるはずだ。もう終電はなくなっている時間帯だし、山に近く斜面の多いこの町で、徒歩だけでそれほど遠くに行けるわけがない。彼にどんな事情があって家出をしているのかはわからないが、こういった非常事態は警察に任せるのが一番無難だろう。そもそも、この少年が未成年の可能性がある以上、俺には通報する義務があるはずだ。  だけど、心のどこかでそうすることをためらう自分がいた。何故かはわからない。人の家に不法侵入するような人物の感情を煽れば、何をしでかされるかわかったもんじゃない──などという恐怖感もなくはなかったが、真に躊躇している理由はそれではなかった。  彼の姿はまるで、人を警戒する野良猫のようだった。それは俺に対してだけではなく、世界をまるごと不審がっているような目つきだった。彼に何があってこうなってしまったのかはわからないが、このままただ警察に引き渡したところで、彼本人が納得するとは思えない。そしてその後、この子は何をどう思うのだろうか。他人事かもしれないけれど、そんな風に彼の気持ちを考えると、手が動かなかった。  少年は明らかに自分より体格のある大人相手でも、全く臆する様子がなかった。彼は俺から視線を逸らすことなく、少し動けば身体が触れてしまうほどの距離まで近づいていた。むしろその遠慮のなさに、俺の方が目を逸らしたいような気持ちに襲われかける。  しかしその瞬間、彼は大きくふらついて姿勢を崩し始めた。交差し合っていた視線が途切れ、少年が前のめりに倒れ込んでくる。俺は慌てて手を伸ばした。 「ちょっ、大丈夫!?」  壁にぶつかる寸前の所で彼を抱き押さえ、床に倒れないようゆっくりと腰を落とした。触れた身体がひどく熱いことに気がつき、俺は慌てて彼の顔を覗き込んだ。少年は返事をすることもせず、荒い息を吐いていた。意識はあるようだが、顔色があまり良くない。この暑さだ、熱中症か脱水を起こしているのかもしれない。警察よりも救急を呼ぶべきかと思ったが、少年は俺の考えを察したのか、こちらを見て首を横に振った。  とにかく応急処置くらいはするべきだ。俺は少年を抱えてベッドへと運び込んだ。途中、少年は何度か力なくもがいている様子だったが、「いいから寝てろ」と嗜めると、素直に暴れるのをやめた。  俺は部屋のクーラーの電源を入れ、バスタオルを二枚ほど脱衣所から引っ張り出し、扇風機を彼に向けた。タオルを受け取った少年は、意外そうな顔をしてこちらを見ていた。  それから、冷蔵庫の氷と水道の水をビニール袋に詰め、口を固く縛ってからハンドタオルで包み、少年の首筋へ当てがった。手製の氷のうだ。もう一つ作って、そっちは脇腹のあたりに当ててやった。少年のキャップと靴を脱がせ、リュックも下ろして床へと置く。見た目は大きな荷物だったが、そのわりにやけに軽く感じたのが少しだけ気になった。  夏真っ只中の時期にも関わらず、少年はやけに厚着をしていた。濡れたジャンパーをそのまま着ていると、熱がこもってしまうだろう。そう思って首元のファスナーに手をかけると、彼は俺の手首を掴んで拒絶した。 「いい、服くらい自分で脱げる」  少年は不安そうに眉根を寄せながらそう言った。玄関で倒れかける前とは打って変わって、その目にもう威圧感は感じられなかった。 「そっか、ごめんな」  俺が謝ると、彼は目を伏せた。少しの気まずさを感じて、俺は一旦ベッドから離れることにした。ついでなので、そのままキッチンへ向かって、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出した。経口補水液を作るには、塩と砂糖がいくら必要だっただろうか。適当に作るわけにもいかないので、スマートフォンで調べることにした。インターネットは便利だ。 「坂本さん、だっけ」 「え、知ってるの?」  後ろの方からそう聞こえて、俺は間の抜けた返事をしてしまった。 「表札に書いてあったから」 「よく見てるなぁ」 「ありがとう」 「え?」  思わず、砂糖を計量器にかけようとしていた手が止まった。何故かお礼を言われることを意外に感じる自分がいた。急に照れくさくなって、半笑いになりながら「あぁ」とか「まあ、うん」などと返事を濁していると、「ふふっ」と彼が笑うのが聞こえてきた。それを聞いて、俺は照れるを通り越して胸が高鳴るのを感じた。男の子相手に何を考えているのだろうか、俺は。とにかく、警戒を解いてくれたようで一安心だった。  コップに材料を混ぜながら、俺は少年に話しかけてみることにした。どうして俺の部屋にいたのか純粋に気になっていたし、何か深い事情があるのなら、少しでも力になりたいと思っていた。 「あ、そうだ。君、名前は?」 「……名前?」  ひとまず名前を知っておきたいと思い、率直にそう尋ねた。いつまでも君や少年と呼び続けるのも変だろう。すると、彼は「リュウスケ」と小さく答えた。 「リュウスケ……えーと、漢字は……」 「流れるの流に、助けるの助」 「流助」 「うん」  最近の子にしては、古風さを感じる名前だった。俺の感覚からすると、かえってカッコいいと思う。俺の名前はどちらかというと中性的な響きをしているので、小さい頃はよく『ちーくん』とか『ちあちゃん』などと、可愛らしいあだ名を付けられたものだ。というか、実家の姉なんかは、未だにそのあだ名で俺を呼んでくることがある。 「カッコいい名前だな」 「……そうかな」  何気なくそう言うと、流助は小さな声で答えた。顔を見ていないのでわからないが、もしかしたら彼も照れているのかもしれない。ついニヤけそうになるのを抑えながら、俺は初めて作った経口補水液を一口味見してみた。甘いようなしょっぱいような、微妙な味がする。思っていたより、まずい。 「無理して話さなくてもいいけどさ」  吊り戸棚に、確かレモン汁のボトルが入っていたはずだ。酸味を足すと味が良くなるらしい。探しながら俺は彼に話しかけた。 「何か事情があるなら、言ってほしいな」  少しだけ間をおいてから、流助は答えた。 「特にないよ」  見え透いた嘘だと思った。何もない子供が、一人でこんなところにいるはずがないだろう。人には話したくない事情なのか、それともまだ警戒されているのか、どちらだろうか。どちらにせよ、余計なお世話だったみたいだ。 「逆に聞いてもいい?」  流助が尋ねてきた。 「うん?」 「なんで助けてくれたの」  単純に、疑問に思っているようだった。いざそう聞かれると、俺には明確に答えられる理由がなかった。『助けなければいけないと思ったから』としか言いようがないが、その答えではなんだか義務的すぎて、合っていないような気がした。  結局、暫くうだうだと悩んでから、俺は「……なんとなく?」とはっきりしない返事をしてしまった。そんな答えで流助は納得したのかしなかったのか、後ろの方から「ふぅん……」と唸るのが聞こえてきた。その後はお互い、それ以上話すこともなく、少しの間静かな時間が流れていった。 「飲み物、飲めそうか? 水分取ったほうがいいぞ」  俺は手作りの経口補水液をペットボトルに詰め、キャップを締めながら、キッチンの間仕切り越しに尋ねた。 「……うん」  振り向くと、流助はベッドに横になって、壁の方を向いていた。いつの間に脱いだのか、荷物の隣に上着が二枚、くしゃくしゃに丸めて置いてあった。 「今作ったから、味はちょっと……だけど、良かったら」  俺はペットボトルを差し出した。暗くてよく見えなかったが、流助は顔だけをこちらへ向けて、頷いた様子だった。彼がボトルを受け取ってくれたのを見て、俺は濡れた上着を乾かすため、クローゼットからハンガーを出した。洗濯してやろうか迷ったが、彼にそこまで長居をする気はあるのだろうか。ジャンパーと、その下に着ていたらしいTシャツのシワを伸ばしながら、ふとそう思った。 「立てそうだったら、シャワー浴びてきたほうがいいぞ。濡れたままだと風邪ひくからさ」  流助は「ん」と小さく頷いた。  浴室からシャワーの音が流れるのを聞きながら、俺はぼんやりと窓の外を見ていた。外ではゲリラ豪雨が勢いを増し、激しい雨が窓を横殴りに打ち付けている。時刻は正子を過ぎ、既に日付が変わっていた。  ふと見ると、置いていた流助のリュックサックがいつの間にか倒れており、中身が床にこぼれてしまっていた。どうやら、口を開けっ放しにして使っていたらしい。幸い中身までは雨に濡れていないようだった。  床に転がっていたスマートフォンと、合皮製らしい小さな小銭入れをリュックに戻そうとして、俺はリュックの口からベルトがはみ出しているのに気がついた。思わず手に取ると、ベルトは二本あり、どちらも買ったばかりのものらしくタグが付いたままだった。リュックの中に新品のベルトがあることに、なんとなく違和感を感じる。人の荷物を勝手に漁るなんて、我ながら趣味が悪いと思うが、気になって仕方がなかった。流助がまだ浴室から出てこないことを音で確認しながら、俺はリュックの中を覗き込んだ。  随分と軽い荷物だと思っていたが、思った通り、中身はほとんど何も入っていないようだ。ベルトの下には、ハサミと紙の袋が入っていた。袋をリュックから出すと、内服薬と書かれていた。紙袋に印字された受診者名は“天野夏来様”と書かれている。家族の名前だろうか。流石に薬の名前にまでは心当たりがなかった。  それ以外には、何も入っていなかった。スマートフォンと小銭入れと、二本のベルトとハサミと薬だけだ。あとは、リュックの横のポケットに、小さな水のペットボトルが入っている。家出少年にしては、持ち物が少なすぎやしないだろうか。何故か、すごく嫌な予感がした。特に、用途のわからない新品のベルトに対し、得体の知れない不安感が募る。  浴室のドアが開く音が聞こえて、俺は慌ててリュックを元の場所に戻した。
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