三、優しい陽だまり

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三、優しい陽だまり

「坂本」  流助の声だ。彼の荷物を勝手に覗いてしまった後ろめたさからか、俺はどことなく張り詰めた空気を感じていた。平静を装い、一呼吸ついてから振り返る。 「お、おう。おかえ……」  しかしそんな俺のその場凌ぎは、別の意味で覆ることになった。 「ごめん、パジャマのボタン取れちゃった」 「……えっ?」  唐突にそう言われ、俺は目を見開いた。流助は着替えに渡していた俺のパジャマを着られなかったらしく、ボタンが外れたそれを手に持ったまま立っていた。代わりにバスタオルを一枚巻いただけの格好をしていたが、問題はそこではない。  非常に言いにくいが、彼──いや、彼女は、思いの外豊満な体つきをしていた。 「え……ええ──っっ!?」 「ちょ、うるさい」  思わず深夜にも関わらず大声を上げた俺に、流助は鬱陶しそうに顔をしかめた。俺は彼女に手で口を塞がれ、なんとか我に返ったものの、冷静に考えるほど気が動転しそうな状況だった。  家出少年だとばかり思っていた目の前の子供は、実は少年ではなく、少女だったのだ。おまけにその女の子が、タオル一枚というあられもない姿で俺の部屋に佇んでいる。異性となんか手を繋いだ経験すらない俺にとって、この光景は些か刺激が強かった。  新品の白いバスタオルに引けをとらないほど、彼女の肌は白く、綺麗だった。つい、柔らかそう……などとみだらな考えをしかけて、俺は首を振った。そんなことを考えている場合ではない。 「なんか着るものない? 寒いんだけど……」 「ご、ごめん! とりあえず、これ着て!」  流助の方は俺の動揺なんか気にもかけていない様子だった。俺は彼女の柔肌から必死で目を逸らしながら、チェストからTシャツを引っ張り出した。普段俺が部屋着に使っているものなのでところどころシワが寄っているが、サイズには余裕がある。 「ありがと。……なんで今謝ったの?」  流助は俺が渡したTシャツを受け取ると、その場で上から被るように着てしまった。本当に、目の前に異性がいることを微塵も気にしていないようだった。その拍子にシャツの下からタオルがぱさりと音を立てて落ちた。 「あ」 「……っ」  俺は心臓が止まりそうなほどの緊張感に襲われ、逃げるように顔を背けた。下は──さっきはてっきり同性だと思って、俺のトランクスを渡してしまったのだが──あれを履いているのだろうか。いや、何を考えているんだ俺は。目のやり場に困った結果、ふと窓越しに見えた自分の顔は情けなく紅潮しきっていた。  とにかく、こんなに動揺していることを彼女に悟られたくはない。ましてや初対面の女の子を相手に、ここまで過剰に意識していることなんか知られたくない。俺はその一心で、Tシャツと引き換えに受け取ったパジャマを掴み、裁縫箱を探しに引き出しを開けた。 「それ、ソーイングセット?」  俺が手に持った黄色い裁縫箱を見て、流助は物珍しげにこちらを覗き込んできた。ソーイングセットという言い回しに、どことなく懐かしさを感じる。 「うん。後回しにしたらボタンをなくしそうだから、今縫っておこうと思って」 「へえ、裁縫できるんだ。男の人が縫い物得意って、ちょっと意外」  流助は目を丸くしながら、俺の手元の針と糸を見つめ始めた。そんなに見られていると、少しだけやりにくい。 「よく言われるよ。俺、ハンドメイドとか好きでさ。得意というか、ちょっとした趣味っていうか」  針に糸を通しながら、何気なくそう答えた。  ふと、学生時代に同級生から『オカンみたい』と言われていたことを思い出した。今思えばあれは一応褒められていたのだと思えるが、当時はなんとなく馬鹿にされているみたいに感じて恥ずかしかった。  世の奥様方は存じないかもしれないが、思春期の男子にとって、母親というものは何故か恥ずかしく感じる存在だったのである。母親側からすれば、そんなことは失礼極まりない発想だとは思うが。  とにかくそんなことがあったからか、俺は今までこういった趣味を周囲にひけらかすことはなかった。得意なことを褒められる嬉しさよりも、男なのにとか、女性的だとか、そういった世間の思うイメージとずれを感じる寂しさのほうが勝ってしまっていたからだ。 「器用じゃん。俺そういうの苦手だから、すごいと思う」 「ふふっ。ありがとう」  だからだろうか。流助の他愛のない褒め言葉が妙に嬉しくて、思わず笑いがこみ上げた。  何故かはわからないが、俺は彼女に対しては、こんな不毛な気恥ずかしさや遠慮などを感じなくて済むような気がしていた。会ったばかりでまだろくに縁もない他人だから、しがらみが無いだけかもしれない。自分の気持ちのことなのに、かもしれないという言葉を使うのも少し不思議だが、そうとしか言いようがなかった。  流助の興味深そうな視線を浴びつつも、俺はボタンを付け終わり、裁縫箱を元の引き出しへとしまった。  ボタンを一つ縫い付けただけなのに、流助はまるで小さな子供のように目を瞬かせているので、思わずこちらもチビっ子を相手しているかのような、微笑ましい気持ちになりつつあった。ついさっきまで彼女を異性として意識しまくっていたという情けない事実は、一旦置いておこう。 「ほら、もう遅いから寝たほうがいいぞ。ベッド使っていいからさ」 「え、でも」  さすがに寝床まで借りるのは忍びないと思っているのだろうか。流助はばつが悪そうに俯いた。 「病人だろ、無理しちゃだめだ。また倒れるかもしれないだろ」  少し強めの口調で言うと、流助はようやく頷いた。一見無遠慮そうに見えて、彼女も内心では緊張しているのだろう。事情はいまだによくわからないが、知らない成人男性の部屋に迷い込んで心細いのかもしれない。今夜はもう遅いことだし、ひとまず彼女に寝る場所を貸して、日が登ってからどうするか考えるべきだろう。  ついでに知らない成人男性が近くにいると寝づらいだろうと思い、俺はベッドから少し離れた床に、敷き布団代わりに冬用のカーペットを敷こうと思い立った。少し意外に見えるかもしれないが、こう見えて俺はわりとどんな場所でも寝られるタイプだ。  そして押し入れの引き戸に手をかけた、ちょうどそのときだった。  くぅ。 「……くぅ?」  子猫が唸ったときのような音に思わず振り向くと、流助がお腹を手で隠すように押さえて、苦笑いを浮かべていた。 「もしかして、お腹空いてるのか?」  流助は返事をする代わりに、気まずそうに口を尖らせて俯いた。 「待ってろ、今なんか作るから」  俺は押し入れを閉じてキッチンへと向かった。冷蔵庫は残念ながら殆ど空っぽだが、粉物やインスタント食品の類なら棚に残っていたはずだ。 「でも、坂本は眠くないの?」  流助は遠慮がちに小さく言った。 「気にしなくていいよ。明日……いや、もう今日か。日曜だし、もう少し夜更かししたって平気だ」 「……うん」  いじらしい彼女の態度が少し気がかりだが──俺は棚の隅に使いかけのホットケーキミックスが残っているのを見つけた。冷蔵庫に少しだけ卵と牛乳があるので、ついでに使い切ってしまおうと思う。ラッキーなことに、数日前に買い置きしていたブルーベリーのジャムもある。どちらかというと朝食っぽいメニューだが、夜食はホットケーキに決定だ。 「甘いものは食べられるか?」 「うん」  流助の方はというと、ベッドに腰かけたまま、所在なさげに足もとをぶらつかせていた。やはり緊張しているのだろうか、表情が少し曇っているようにも見える。  彼女の様子を横目に入れつつ、俺はボウルに卵と牛乳を混ぜ入れた。卵液は先に混ぜておいて、粉は混ぜすぎないのがコツらしい。ちょうど俺も小腹が空いていたので、材料は二人分だ。卵がぴったり二つ残っていて助かった。  ついでに、何か温かい飲み物も入れよう。季節的には冷たいものが恋しくなる時期だったが、食事中に冷たいものを飲むと胃に悪いと聞いたことがある。紅茶は好きかと尋ねると、流助は首を縦に振った。 ---  どうして私なんかにここまで良くしてくれるのだろうか。そう尋ねようとして、私はやっぱり口を閉じた。ついさっき『なんで助けてくれたの』と聞いて、『なんとなく?』と曖昧な上に疑問符の入った返事をされたばかりだった。  きっとこの坂本という人は、こういう性分の人なのだろう。彼は特別何かを考えずとも、さも当たり前のように人に暖かみを分けてあげられる、陽だまりのような人なのだ。太陽が決して自ら暖かくあろうとか、眩しくあろうなどと意識なんかしないのと同じで、この人はただ自然に生きているだけで優しくいられる人なんだ。  会ってからまだ数時間ほどしか経っていないが、私はこの坂本という男性が、自分とは違う世界で生きている人だと確信していた。彼は端から不躾な態度を取り続ける私に対しても、愛想を尽かすことなく笑って気を遣い続けている。根っからの他人嫌いの私には、到底真似できないことだった。とんでもないお人好しだと思う一方、助けられている身分でそんなひねくれたことを思う自分に呆れる気持ちが湧いた。  そんなことを考えているせいか、私は思わず眉間に力が入り、苦虫を噛んだような顔をしていることに自分で気がついた。この状況でこんなに露骨に厭そうな顔をしていたら、流石に申し訳が立たないだろう。慌てて隠そうと頭を下げて、何故こんなことをしているのかと自分でも惨めな気持ちになった。  何を隠そう、私は陽だまりが大の苦手だった。 「紅茶は好き?」  見ると、キッチンの間仕切りから坂本がひょっこりと顔を出してそう尋ねていた。私が座っている位置からだと間仕切りが邪魔で顔が見えないので、わざわざ身を乗り出しているようだ。こちらの不甲斐なさなんか知って知らでか、彼は何の気兼ねもなさそうな笑みを浮かべていた。  私が頷くと、坂本はやかんに水を注ぎ始めた。それから順を追って、やかんがコンロに置かれる音、コンロの火がつく音が聞こえてきた。昔のアニメやドラマなんかで見かけた、あの電池式のカチッという点火音だ。このご時世に珍しく、ガスコンロを使っているらしい。  火にかけられたやかんが、スーと鈍い音を立てるのが耳に入ってくる。その横で坂本は別の支度をしているのか、冷蔵庫の扉の音や調理器具の立てるコツコツとした音が混ざるのが聞こえた。すっかり手持ち無沙汰になってしまった私は、ぼんやりとそれらを聞き流していた。  そもそも他人の部屋に上がるのなんて生まれて初めてのことで、何をどうしたらいいのかわからなかった。上がるも何も本来は私が無断で部屋に入りこんだだけなのだが、それなのに今は侵入者どころか、逆に客人として持てなされているような有様だ。とても落ち着ける状況ではない。  冷静に考えれば、個人的な事情を理由に勝手に家を飛び出したわがまま娘が、人の部屋で勝手に倒れ、あげく部屋の主に介抱されて世話になっているのである。私にも一応備わっている客観的な一面が、情けないだの非常識だのと、他人事のように私自身を責め立てるのが聞こえてきそうだった。  思わず熱くなりかける目頭を、坂本に悟られないように手で拭った。今更後悔したところで、余計に彼に迷惑をかけてしまうのが目に見えている。せめて気分だけでも変えようと、一先ず私は部屋の内装へ目をやった。  先程から何度か目に入れて気になっていたが、坂本の部屋はピンクやベージュやパステルカラーといった、いわゆる“女の子の好きそうな色”の家具が多かった。今私が座っているベッドのシーツも、ピンクと白のチェック柄で、体格からして私より年上と思われる男性が使うものとしては、なんとも可愛らしい印象だ。  思わず私は、小学校入学前に黒いランドセルをねだって、母に叱られたことを思い出した。母が『黒なんて女の子らしくなくて、周りに変な奴だと思われるからやめなさい』と真剣な顔で言っていたのを、今でもはっきりと覚えている。  当時の私は叱られたことをただ悲しいと感じていたが、今思い返せば、確かに黒いランドセルを背負っている女子なんて同級生にはいなかった。最近の子供たちなら、ランドセルの色なんて何色だろうと気にしないのかもしれないが、私の時代に女子が黒を背負っていたらきっと周囲から浮いたに違いない。あの時母はただ、私が学校で浮いてしまわないか心配しただけだ──そうはわかっていても、あの記憶が苦くて悲しい思い出なのは変わらなかった。  私は一人自嘲した。ピンク色の家具を使う男性を意外だと感じてしまう時点で、私も結局は大衆的な価値観から逃れられてはいないのだ。あの頃の私は、周りの女の子が恋の話や異性のアイドルの話などで盛り上がる中、一人だけ“ロボット兵が宇宙で戦争をするアニメ”や、“勇者が世界を救うため戦うゲーム”のことなんかで頭をいっぱいにしていた。クラスメイトと同じ趣味の話ができなくて、他にうまい会話も思いつかず、いつも一人で過ごしていた。そのことを、寂しいと感じていたはずなのに。  何故か気持ちがざわついて、私は思わずシーツと似たピンク色のタオルケットに手を伸ばしていた。さらさらとしたタオル生地の手触りが心地いい。男の人がピンク色を好いていても、別にいいじゃないか。言い聞かせるように私はそう思った。私だって、黒や青が好きなんだ。だって、カッコいいじゃないか。  ふと、タオルケットの中に何かが入っている感触がした。まくり上げると、丸くデフォルメされたサメのぬいぐるみがあった。名前は忘れてしまったが、いわゆる児童向けのマスコットキャラクターだ。坂本はこのキャラクターが好きなのだろうか。タオルケットの中に入っていたということは、普段からこの丸いサメと一緒に寝ているのかもしれない。想像すると微笑ましい気持ちになった。  丸いサメにそっとタオルケットをかけ直すと同時に、キッチンの方から叫び声が聞こえてきた。 「うわっ熱っっっち!!!」 「え、大丈夫?」  驚いて駆け寄ると、坂本は湯気が吹き出すやかんの前で手をさすっていた。その横には濡れた布巾の上にフライパンが乗っているのが見える。ひとまずコンロの火を止めると、坂本は水道の水で手を冷やしながら苦笑いした。 「ごめん、焼きながらお湯を沸かそうと思ってたら、思いのほか沸くのが早くて」  やかんを慌てて上げようとして、熱くなった取っ手で火傷をしたらしい。「同時進行なんて、慣れないことしようとするもんじゃないな」と坂本は眉を下げた。 「紅茶は俺が淹れるよ。ポットはこれでいいの?」  フライパンの隣に白い陶器のポットが置かれているのを見つけた。フタを開けてみたが、まだ茶葉は入れられていなかった。 「ごめん……俺がやるから大丈夫だよ」 「なんで謝るの。危なっかしいから俺にも手伝わせて。茶葉はどこ?」  坂本は謝るのが癖らしい。二度目のごめんを跳ね除けると、彼はようやく観念したのか遠慮をやめた。 「ありがとう。じゃあ、先にそのお湯をポットとカップに注いでおいてくれるかな」 「お湯を先に入れるの?」 「ううん。ポットとカップをお湯で暖めておくんだ。その間にもう一度お湯を沸かせて、それから茶葉は棚の上の赤い缶ね」  手の水を拭いて、坂本は再びフライパンを暖め始めた。火傷はもう大丈夫なのだろうか。私は言われた通りポットとその横の二つのカップにお湯を注いだ。ぶわりと湧き立った湯気が暑い。  二度目のお湯を沸かしながら隣を見ると、坂本はホットケーキを焼き始めていた。生地を上の方から落とすように注ぐ。思っていたより高い位置から注がれたが、フライパンの上に乗った生地は綺麗に丸い円を描いていた。慣れた手つきだ、と素直に感心した。  言われた通りに紅茶を用意し終えた頃に、ちょうどよく坂本のホットケーキも焼き上がった。食器やジャムの瓶を手分けしてテーブルに運ぶと、木製のローテーブルの上はちょっとしたお茶会場のような景色になった。シンプルなデザインの白いポットと食器が並び、その上にふんわりと焼き上げられたホットケーキが見目よく乗っている。  まるでカフェに訪れた女子にでもなったような気分で、なんだか恥ずかしかった。実際はカフェなんて一度も行ったことがないので、偏見もいいところだが。 「いい感じだろ。今日はちょっと自信作だ」  ホットケーキに小さく切ったバターを乗せながら、坂本が自慢げに笑った。きつね色の生地の上でバターがとろけていく。「分厚いね」と思ったままのことを言うと、坂本はまた笑った。 「さぁ、冷めないうちに食べよう」  向かい合って座った坂本といただきますを言い合って、私はホットケーキに早速ナイフを入れた。ナイフはまるでクリームでも切ったかのように軽く入っていく。断面に細かく気泡の入った、理想的なフカフカ具合だ。  一口サイズに切って、口に入れる。──おいしい。ほんのり甘くて柔らかい生地に、バターのまろやかなしょっぱさがいいアクセントになっている。気づけばもう一口、もう一口と手が出て、私は夢中になってホットケーキを口に詰め込んでいた。  口の中を甘い生地でいっぱいにしながら、そういえば昨夜から何も食べていなかったことを思い出した。 「ジャムもうまいぞ」  坂本はジャムの瓶を持って、何やらご機嫌な笑みを浮かべている。そんな風に見られているのが気恥ずかしくて、私はつい顔をしかめてしまった。 「なんでニヤニヤしてるの」 「はは、ごめん。おいしそうに食べてくれるから、嬉しくて」 「ふうん……まあ、確かにおいしいけど」  渡されたジャムを受け取りながら、私は頷いた。なんだか悔しいが、美味しいのは本当だ。  坂本は私の拗ねた様子に気づいていないのか、楽しげに話を続けた。 「俺、実家ではよく姉貴と変わりばんこでメシ作ってたんだ。最近は一人暮らしだったから、こういうの久しぶりでさ」  彼の語り口は、本当に楽しかった思い出を噛み締めているようだった。坂本一家の和やかな団欒のイメージが自然と脳裏に浮かんでくる。坂本の作った料理を囲んで美味しそうに食べる彼の姉と、その両親──もしかしたら、祖父母や親戚かもしれないけれど──顔も名前も何も知らない人たちだが、きっと幸せだったに違いない。  同時に、無意識にその光景を自分の家族と比較してしまう自分がいた。物心ついた時から、私の家族が一堂に食卓を囲むことは一度もなかった。正確に言うと、父が食事時に顔を見せることがなかったのだ。殆どは母と二人きりで食事をとり、時々母の仕事が忙しい日に、一人で出前を取ったり家にあったものを適当に食べていた程度だ。  思い出せることといえば、母が『野菜くらい生で食べられるようになりなさい』と毎日のように出していたサラダの野菜が、苦くてかたくて大嫌いだったことくらいだ。食べ終わるまで席を立つことも許してもらえなかったので、渋々食べたふりをして、その後トイレにこっそり吐き戻したこともある。結局吐いたことはバレて、その次の晩までは罰として何も食べさせてもらえなかった。  そんなことを思い出してしまったものだから、私はまた惨めな気持ちになってしまった。いちいち事あるごとに自分の不幸ばかりを槍玉にあげて、卑屈にも程がある。けれど、どう頭の中をこねくり回しても、私の中にはこんな惨めで卑屈なエピソードしか存在しないのだ。空っぽの貯金箱を叩き壊したところで、お金は一円も出てこないのと同じで。  ──本当に惨めだ。十九年も生きておいて、どうしたらこんな空っぽ人間が育ってしまうんだ。 「……流助?」  見上げると、坂本が心配そうな様子で私の顔を覗き込んでいた。 「大丈夫か? えっと……あ。もしかして、泣くほど美味しかったとか?」  冗談めかして笑う彼の表情を見て、『しまった』と思った。「泣いてない!」と慌てて誤魔化そうとした声はひどく上ずってしまい、むしろ露骨に泣いているのが露わになってしまった。  泣いたらだめだ。これ以上心配をかけたらだめだ。そう思うと余計に涙が出てきた。だめだってわかっているのに。溢れて止まらなくなった涙が、頬を濡らしていく感覚に血の気が引いた。  私に気づいた坂本が、はっと眉を下げた。 「流助、ごめ……」 「違う。坂本のせいじゃない」  咄嗟に言った否定の言葉すら、震えてしまった。また坂本を謝らせてしまった。後悔すればするほど、頭の中はこんがらがっていってしまう。落ち着け、落ち着け。と必死に自分に言い聞かせるが、それすら自分を責めているように感じて、泣き虫の私は落ち着いてくれそうになかった。  ふと、頬に柔らかいものが触れた。いつのまにか、坂本の手が彼のものと思われるハンドタオル越しに私に触れていた。 「こういうとき、どうすればいいかわからなくて……こんなことしかできないんだけどさ」  そう言いながら、彼は緩やかに微笑んだ。さっきまでの楽しげな表情とも、その前の呑気そうな笑顔とも違う、優しい微笑みだった。泣いてしまった私を気遣って、作ってくれている笑みだ。その優しさが、寒気がするほど暖かかった。 「その、何かあった……のかは、聞かない方がいいんだよな。えっと、大丈夫……じゃないよな、ええっと……」  坂本は明らかに狼狽した様子で、必死に言葉を選んでいた。彼のそういう少し不器用な一面が、今は心底有り難かった。 「いいから早く食べよ、紅茶冷めちゃう」  差し伸べられた手を解こうと手を伸ばすと、坂本はハンドタオルをそのまま私の手へと握らせた。よく見ると、ハンドタオルの隅には小さな肉球の刺繍が施されている。彼の好みがだんだんわかってきた気がした。 「そうだな。……あ」  何かに気づいた様子で、坂本は急にティーカップをこちらへ見せるように掲げてみせた。 「手伝ってくれてありがとう、流助」  先に言われてしまった。『ありがとう』は本来、私が一番言うべきことなのに。  返す言葉がうまく出てこなくて、私は借りたハンドタオルで顔を隠したまま頷くことしかできなかった。  暫くして気持ちが落ち着いてきたので、私は坂本に勧められるまま食事を再開した。ホットケーキはすっかり冷めてしまっていたが、冷めても美味しいことに変わりはなかった。添えられたブルーベリーのジャムの酸味と、少しだけミルクを入れた紅茶の香りで時々味を変えながら、目の前の皿はだんだん空っぽになっていった。 「ごちそうさま」  お腹がいっぱいになって一息つくと、ふと先に食べ終えていた坂本が、ローテーブルにもたれかかってゆらゆらと船を漕ぎ始めているのが見えた。テーブルに向けて眠り込んだりしてしまったら危ないので、私は彼の上体を支えて床の方へと倒してやった。一見すると彼の体つきは痩せ型のように見えたが、実際触れてみると結構筋肉が付いているのか、そこそこ重かった。  本当は、さっき自分がされたように持ち上げてベッドまで運んでやりたい所だったが、生憎私にはそこまでの腕力はなかった。ベッドの上からクッションとタオルケットを持ってきて、枕と肌掛けにしてやるくらいが精々だった。頭と床の間に半ば無理やりクッションを突っ込んでも、坂本が起きる気配はなかった。  すっかり眠り込んでしまった坂本はそのまま寝かせておいて、私はローテーブルの上を片付けることにした。燃えるゴミと燃えないゴミの分別すらできないポンコツでも、皿洗いくらいは流石にできる。これでも家にいた頃は、たまに母を手伝ったりもしていた。たまに、なあたりが私らしいが。  重ねた食器を流し台へと運び、先ずは水で洗い流す。食器はどれも残りものなどはついておらず、綺麗に平らげられていた。白い皿やカップに汚れが残らないよう、洗剤を使いながら念入りにスポンジで擦る。これくらいしかできないのだから、せめてこれくらいはちゃんとやり遂げたかった。  これくらいは──そう思い、改めて間仕切りの横から坂本を覗いてみた。気持ちよさそうに寝入っているが、その格好は恐らく仕事着であろうシャツとスラックスのままで、ネクタイすら外されていなかった。帰ってきた時間帯からして、会社勤めのサラリーマンなのだろう。仕事帰りで疲れていただろうに、わざわざ私を先に風呂に入れて食事まで作ってくれたことを思うと、胸が痛かった。  洗った食器とティーセットは、流し台の側の水切りラックへとかけておいた。食器を洗い終わった後、もう一度彼の様子を見に行ったが、深く寝入っているのか静かに寝息を立てるばかりだった。壁に掛かっていた時計を見ると、時刻はもう深夜の一時を指していた。  私は借りたばかりのシャツを脱ぎ、すっかりべしょべしょに濡らしてしまったハンドタオルと一緒に洗濯カゴに返した。ハンガーラックにかけられていた自分の服はまだ湿ったままだったが、気にせず着直した。  起きた後の坂本が心配するかもしれないと思い、紙とペンを借りてお礼のメモを書き残す。簡素な内容になってしまったが、紙を無駄にするのもよくないと思い、書き直さないことにした。メモの上に小銭入れを置き、荷物を持って私は部屋を後にした。  少しだけ名残惜しかったが──これ以上、この優しい陽だまりを私なんかが荒らしたくなかった。 “お世話になりました。一晩の間でしたが、本当に助かりました。少なくて申し訳ありませんが、気持ちだけでも置いておきます。  ありがとうございました。さようなら。 流助”  今度こそ、お別れだ。
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