四、彗星の導き

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四、彗星の導き

 大雨が降っていた。肌に落ちる冷たい滴の感覚と、耳に騒つく雨音は、確かにひどい降雨の最中であるはずだった。けれど、見上げても空には雲一つ浮いていない。そこにはただぽっかりと、空洞のような闇が広がるばかりだった。  雨はしくしくと、まるで泣くように俺の肌身を打ち付ける。いいや──本当に、しくしくと誰かが泣く声が聞こえるのだ。何故かその声がひどく悲壮に感じて、俺は思わず泣き声の主を探そうと駆け出した。  足下すら見えない闇の中でも、不思議と俺は平然と走り続けることができた。普通なら、暗い場所では転倒を恐れて足がすくむはずなのだが、何故か今は怖いという気持ちが湧いてこなかった。それよりも、“行かなければ”という謎の焦燥感が、俺の背中を押し続けている。  泣き声に近づけば近づくほど、雨は俺を拒絶するように勢いを増し始めた。滝のような水しぶきを浴びて、髪も服も濡れて枷のように重くなる。それでも構うもんかと俺は意固地になって走り続けた。なんとしてでも、泣き声の主に会いたかった。会って、何かを伝えたかった。何を伝えたいのかまでは、よく考えていなかった。  少しづつ目の前の闇が明けてくる。冷たく、青白い光が朧げに視界を照らし始めたのだ。俺は思わず胸が高鳴るのを感じた。彼女に近づいている──そう思った瞬間、耳をつんざくような甲高い電子音に、泣き声も雨音もかき消されてしまった。  青白い光はおろか、真っ黒な闇さえも灰色にかき消えていく。待ってくれ、消えないでくれ。焦り始める俺に、無情にも電子音は迫ってくる。闇も、雨も、遠ざかっていってしまう。  もう届かないとわかっているのに、俺は思わず手を伸ばそうとして── 「あ痛っ!!」  盛大に、ローテーブルに手の甲を打ち付けていた。痛みの衝撃で目が覚めて、見慣れた白い天井が目に入ってくる。電灯が眩しく感じるのを手で擦りながら、俺はひとまず未だけたたましく電子音を鳴らし続けているスマートフォンを手に取った。 「なんなんだよ、もう……」  履歴に連投されていたメッセージを読んで、俺は思わずため息を漏らした。発信者は全て大久保だ。曰く、『女性陣の予定が合う日が少なく、懇親会は来週の金曜の退勤後か、その次の週の水曜か土曜になる』とのことだ。何もそんな連絡を、こんな──ふと時計を見て、俺は今、深夜の二時を過ぎていることに驚いた──こんな時間にしなくても良いじゃないか。  まだ若干重く感じる目蓋をこすりながら、俺はスマートフォンを元の場所へ置いた。返信なんて、今日の昼あたりにでも返せば良いだろう。そう思ってもう一度寝ようとベッドの上に乗ろうとして、俺はようやく違和感に気付いた。  何故、俺はパジャマに着替えていないのだろうか。いや、よく考えたらそもそも、まだシャワーを浴びてすらいなかった。それよりも──と記憶を巡らせて、俺はようやく“彼女”の存在を思い出した。 「……流助?」  流助の姿が、気配が感じられない。ハンガーラックにかけていたはずの流助の服がない。先程までホットケーキを囲んでいたローテーブルの上は、いつの間にか綺麗に片付いており、食器は代わりに水切りラックの上に掛かっている。流助が丁寧に洗ってくれたようだ。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。  ローテーブルの上に、片付いた皿の代わりに彼女の小銭入れが置かれていることに気づき、俺はもんどり打つようになりながらそれを掴み取った。下に紙が敷かれている。震える手で、紙をくしゃくしゃにしそうになるのを堪えながら、書かれている内容を読み上げた。 “お世話になりました。一晩の間でしたが、本当に助かりました。少なくて申し訳ありませんが、気持ちだけでも置いておきます。  ありがとうございました。さようなら。 流助” 「……さようならって、何だよ」  喉の奥から、何かがこみ上げてきて詰まるような感覚がした。最後に見た、彼女の思いつめたような泣き顔が脳裏を過ぎる。さようならって、何だよ。もう一度俺は頭の中でそう唱えた。  家出にしては少なすぎる荷物、用途のわからない新品のベルト、頑なに語られない彼女の事情。そして何より、世界を丸ごと不審がるようなあの青い目が、点と点を結ぶように俺の中で一つの答えを導き出す。『そんなこと絶対にあっては駄目だ』、そう信じたい思考と裏腹に、俺はシューズボックスからスニーカーを引っ張り出し、ドアを蹴破るようにして部屋を飛び出した。  鍵なんか掛けている余裕は無かった。  熱帯夜の暑い空気の中、こんなに全力で走っているのに、却って寒く感じるほど血の気が引いていた。体を打ち付ける雨は、さっきの夢の中と同じように俺に重みを押し付ける。くそったれ、と返す思いで俺は路地のコンクリートを蹴り上げた。  こんなのは推理でも何でもなく、ただの勘でしかないが、俺は住宅街の坂道を駆け上り、裏山の方へと向かって走っていた。流助が裏山に行ったと思う根拠なら、一応ある。もうとっくに終電も無くなり、始発にはまだ遅すぎる時間だ。こんな時間では、タクシーすら走っていない。そして彼女のあの様子からして、近隣住民ではないのだろう。全て憶測に過ぎないが、もうそんな憶測しか頼る術が無かった。 「……あっ!!」  不意に足がもつれ、目の前に火花が散るような衝撃が走った。とっさに着いた腕に痛みを感じ、俺はようやく自分が盛大に転倒したことに気がついた。おろしたばかりのワイシャツが擦り切れ、血が滲んでいく。けれど、そんなことに構ってる場合じゃない。俺はもう一度立ち上がった。  今、このまま彼女を失ったら、彼女を救えなかったら、あの夢の中の雨闇のように彼女が消えていってしまったら──俺は絶対に、後悔する。一生後悔し続けることになる。もはやこれは正義感でも同情でも庇護欲でもなんでもなく、ただの意地だった。  思わず目頭が熱くなりかける。走り続けているからか、緊張しているからなのか、早鐘を打つ心臓が苦しく感じた。けれど、今流助が抱いている苦しみは、こんな程度じゃないはずだ。  そうして闇雲に走っていると、ふと、光が目に入った。あの夢の中の光を彷彿とさせる、青い光だ。思わず見上げると、雲の切れ間の中に彗星が伸びているのが見えた。流助の瞳のように、冷たく青白く、それでいて切望を孕んでいるような、目を惹く光だった。  彗星は、まるで山の方へと降りていくように光の尾を伸ばしていた。俺はその光に導かれるように走り続けた。 ---  土砂降りだった雨は勢いを和らげ、小降りの雨音は、人気のない山の中の静けさをいっそう際立てていた。誰もいない夜中の自然は、少しだけ私の心を落ち着かせてくれるような気がする。木々は時折風に揺れたり、雨の滴を溢すだけで、何も語らない。地面は私がスニーカーで踏みつけても、うっすらと足跡を残すばかりで、何も返さない。私は、本当に独りになった。  私はうっすらと生い茂っている木の中から、登れそうな枝のある木を見つけ、滑らないようそっと足をかけた。ぬかるんだ土の付いた靴底が、僅かに滑りかけるのを慎重に堪える。そこから、自分の背よりも少し高い位置の枝を見つけ、ベルトをかける。一本は枝にしっかり括り付け、もう一本を繋げて自分の首へとかけるのだ。決心が鈍ってしまう前に、早くやらなければ。  首元に触れた冷ややかな皮の感触に、思わず肝が縮む。やっぱり、死ぬのが怖いと感じる気持ちだけは消せそうになかった。けれど、ここまで来て今更元にも戻れないだろう。あとは睡眠薬を飲むだけだ。眠くなってしまえば、こんな粗末な恐怖感も、中途半端な生存本能もなくなるはずだ。そしてそのまま抵抗もできずに血流が止まり、縊死に至る。それで、全部終わりだ。  それなのに、そうわかっているはずなのに、私はその最後の一手を取れずにいた。もうどのくらいの時間をそのまま迷い続けたのかもわからない。気づけば雨が止み始めて、周囲は恐ろしいほど静けさを増していた。  『一人で生きることができない愚図のくせに、一人で死ぬことすらできないんだ』──もう一度、自分を責める声が聞こえた。  暫く経ってから、不意を打つように、再び雷が落ちた。あっ、という声をあげるまでもなく、手元が緩み、持っていた水のボトルと薬が地面に転がっていく。枝から足が滑り、支えるものを失くした私の身体は真下へと落ちていく。  死というものは、自分が思うよりも、こんなにあっけなくやってくるものなんだ。最後の最後まで、予定していた通りにはいかなかった。落ちていく感覚の中、走馬灯のようにそんな考えが頭をよぎった。  ああ、これはきっと罰なのだ。壊れていく母にも、冷え切っていく父にも、落ちこぼれていく自分自身にも、何一つ、何もできなかった愚か者への罰だ。私はようやく罰を受けられるのだ。  けれど、やっぱり、それにしたって、こんな終わり方はあんまりじゃないか──私は最後に、あの優しい陽だまりの部屋を、未練がましくも思い返していた。  あんなに幸せな時間を過ごしたのは、生まれて初めてだったのだ。 ---  山の中腹あたりまで走った所で、落雷の音が聞こえて俺は思わず立ち止まった。雨が止み、物音一つ聞こえない静かな山の中で、僅かにギシギシと軋む音が聞こえた──気がする。縋り付く思いで、僅かな可能性に賭けて、俺は音の方へと走った。 「流助!!」  彼女は居た。想像通りの、最悪の光景だった。それでも、苦しそうにもがく彼女はまだ生きている。それだけが唯一の救いだった。 「今、助けるからな!」  崩れるように駆け寄って、片手で出来るだけ流助の身体を支えた。もう片方の手で、彼女の首を絞めているベルトを取ろうとする。しかし、流助の体重に引っ張られているためか、引っかかった金具は硬く閉まっており、うまく外せない。 「くそっ……!」  俺がもたついている間にも、流助は苦しんでいる。幸い気を失ってはいないが、恐らく気道が塞がっているのだ。このままでは窒息してしまう。どうすればいい、どうすれば彼女を救える。流星でも彗星でもなんでもいい、お願いだから俺にこの子を救わせてくれ──祈るように見上げると、ベルトが掛かっている枝は、自分の二の腕よりも少し細いほどで、思っているより脆そうだと気がついた。  考える間もなく体が動き、俺は枝を掴んで思い切り力を込めた。濡れた枝に手が滑り、樹皮が掌を傷つける。それでも痛みなんか気にならないほど、焦りで頭がいっぱいになっていた。細かろうと生きている枝だ。枯れ木と違ってそうそう折れてはくれない。 「くそおおおお!!!!!」  腹の底から声を上げた。人一人の命がかかっているんだ。枝の一本くらい折れてくれ、頼む!  力を込めるあまり、俺の意識は朦朧とし始めていた。『もうだめだ』、そう思った瞬間、急に世界が逆さまになったように感じた。 「痛っ……!」  折れた枝ごと落っこちたのだ、と目前に広がる夜空を見て気付いた。盛大に尻餅をついたので、臀部のあたりが少し痛い。 「流助っ!」  慌てて起き上がろうとして、俺は流助が自分の身体の上で倒れていることに気がついた。奇跡的に、俺の方が下敷きなっていたのだ。ほんの少しだけ安堵をおぼえつつ、俺は彼女の首のベルトを、慌てつつも慎重に外してやった。  流助はひどく真っ青な顔をして、瞳にいっぱいの涙を浮かべて、震えていた。苦しかったのだろう、肩を上下させながら荒く呼吸をする彼女の背を撫でるうちに、何故だか俺まで涙がこみ上げてきてしまった。 「……良かった」  今、俺が言えることはこれだけだった。身体に伝わる彼女の僅かな温もりが、俺の胸元にかかる小さな呼吸が、確かに彼女が生きていることを実感させてくれた。他に怪我はしていないだろうか、後遺症になんかなってやしないだろうか。それだけが気がかりで、俺は流助の顔を覗き込んだ。  流助も俺に気づいたのか、息を整えようと吸ったり吐いたりしながら、俺の方を見た。彼女は眉を下げ、青い瞳を熱く潤ませて、ひどく怯えたような顔をしていた。初めて見る、感情的な顔だった。  彼女は何も言わなかった。いや、何も言えないのだろう。俺より一回り小さな身体を震わせて、叱られた子供のように嗚咽を漏らして泣いていた。大丈夫だ、もう大丈夫だよ──あやすような気持ちで、俺は彼女の背を撫で続けた。  そうして、暫くの時間が流れて行った。その間にすっかり雨の止んだ空は、少しづつ雲も晴れ、月や星を映して輝き始めていた。そしてその中に、一際目立つ青白い光が、穏やかなる威光を放っていた。 「彗星だ」  この気高い光が、俺を彼女へと導いてくれたのだ。思わずそう呟くと、つられるように流助も空を見上げた。 「……初めて見た」  ようやく、彼女が口を開いた。 「俺も、今日初めて見たんだ」 「……綺麗だね」 「ああ」  綺麗だ。青い氷の小天体は、冷たくも熱い光を放って、こうして空をゆっくりと何日もかけて渡って行くのだ。それはまるで、生きた命が燃えているかのように美しい光景だった。俺は本当に、心の底から頷いた。  すると、流助は独り言のように呟き始めた。 「こんなふうに、ちゃんと空を見たのも……初めてだ。星って、綺麗だったんだ……」  当たり前のことだけれど、彼女は心の底から噛み締めるようにそう言った。か細いその声が発せられる喉の奥に、今までどれほど多くの苦しみが詰まっていたのか、俺はまだ何も知らない。  けれど、続く彼女の言葉は、そんな苦しみを吐き出しているかのように見えた。 「家出なんかしたの、初めてだったんだ……。死のうと思ったのも初めてだったし、人の家に入ったのも初めてだった。こんなに泥まみれになったのも、初めてだし……」  自分自身のことを、何度も咀嚼するかのように、彼女は頷きながら話し続けた。 「俺、まだ全然生きていなかったんだ」  雨に濡れていた彼女の頬を、新たな滴が、もう一筋伝ってこぼれていった。 「帰ろう、流助。一緒に」  思うよりも先に、俺はそう言った。自分でも、どうしてそう思ったのかはよくわからない。相変わらず、“なんとなく”でしかなかったが、俺はもう、彼女を独りにしたくなかった。  流助はこくりと頷いた。返事はそれだけだったが、今は、それで十分だった。  帰宅した後、俺も流助もひどく濡れて疲れ切っていたので、ひとまず身体を拭いて着替えだけを済ませて、眠ることにした。俺はベッドを流助に勧めたが、流助はむしろ「坂本の方こそベッドで寝るべきだ」と言って聞かなかったので、仕方なく俺は勝手にカーペットを敷き、その上に寝転がることにした。  すると、何故か流助はベッドを使うのではなく、俺の隣に寝そべり始めた。もはや向こうも意地らしい。譲り合いの結果、二人とも床で寝るだなんて、なんだか可笑しくて俺は思わず笑ってしまった。俺につられたのか、彼女も声を上げるほどではないが、口角を上げて笑ってくれた。ようやく、流助の笑顔が見られた。  そのまま寝落ちる前に、唐突に思い出して、俺はローテーブルに置かれていた小銭入れを流助に返した。 「え、なんで」  隣の彼女は驚いた様子で目を見開いた。唐突だったからというより、そもそも小銭入れを返されたことに驚いたのだろう。 「なんでも何も、こんなの貰えないよ」  そう答えても、流助は腑に落ちないのか、なかなか小銭入れを受け取ってくれなかった。案外意地っ張りな彼女に、俺はほんの少し皮肉を込めて、にやりと笑みを作った。 「チビっ子から宿代まで取るほど、お金に困ってないからな」 「なっ……チビっ子じゃないし!」  流助の頬がふっくらとむくれるのを見て、俺は呑気にも『怒った顔も可愛いな』などと感じていた。  そうして、ようやく本当に安心したのか、急激に眠気が込み上げてきて──俺の意識はそのまま眠りへと落ちていった。
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