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貴子(たかこ)は祖母のキヨエからの電話を切ると、大慌てで旅行鞄を取り出し、替えの下着や服、必要そうな物を適当に鞄に詰めると、その足で新幹線に飛び乗った。 貴子はとにかく急いでいた。キヨエが大怪我をしたというのだ。 キヨエは田舎で、蕎麦屋を一人で切り盛りしながら暮らしている。キヨエの子供達は皆県外へ散り散りになり、キヨエの長女である貴子の母親も東京で暮らしていた。 キヨエが娘を通り越して孫の貴子に電話を寄越したのは、一人で暮らしていけると言い切った手前、助けて欲しいなんて言えなかったからだろうと貴子は思った。貴子の母親を含め子供達は、一人で暮らすキヨエを心配して共に暮らそうとそれぞれが言っているが、それでもキヨエは、あの店を手放せないのだという。 静かに走行する新幹線の車内には、子供達の笑い声が聞こえてくる。お盆にはまだ早いが、世の子供達は夏休みだ。親に連れられ、もしくは友達同士で、楽しい思い出がこれから作られていくのだろう。 貴子もちょうど夏休み期間中だった。 貴子は友人のやっている小さな雑貨店で働いている。友人が焼き物の職人なので、友人の作る食器類を中心に、工芸品でまとめた生活雑貨を販売し、焼き物の体験やレッスン等も、店舗と併用した工房で行っている。 貴子はその店で、受付や販売担当をしている。定休日以外はお盆期間も店は開けるので、少ない店のスタッフで順番に夏休みを取っている所だ。 なので、他の友人とも休みは合わず、更に三十路に突入して恋人もいない貴子には、夏休みといっても特に予定もなく、田舎へ遊びに行っても良いかなと思ってはいたが、まさかこんな事になるとは思いもしていなかった。 ここ数年、連絡は取れずにいたが、キヨエと過ごした時間は、優しい思い出ばかりだ。良く遊んで貰ったし、親に言いづらい事も相談に乗って貰ったりもした。 今は亡き祖父の邦夫(くにお)はいつもしかめっ面で、職人気質な性格も影響してか、遊んで貰った記憶はあまりない。 だが、邦夫を思い出すと必ず隣には笑顔のキヨエがいて、笑顔の側には美味しいお蕎麦があった。 邦夫が大事にしていた、二つとないあの味。 あの味は、キヨエでも作れないと言っていた。 「……」 そうか、もう食べられないんだな。 そんな事を唐突に思い、それでも店を守ってきたキヨエの姿を思い浮かべれば、貴子は堪らずぎゅっと拳を握りしめた。 キヨエの怪我とはどんな怪我なのか、今は大丈夫でも後々酷い病に発展したらどうしよう。新幹線が停まるまでの長い時間、貴子は心配で堪らず、今日ばかりは、いつもなら楽しめる筈の窓から見える景色の移ろいが、焦れったくて仕方なかった。 駅に着いてバスを乗り継ぎ、キヨエの暮らす小さな集落に向かう。長閑な田園風景が続く中、ただただ広く平面の土地しか見えて来なかったそこにも、ぽつりぽつりと家々が見えてきた。 バスを降りると、走って走ってキヨエの家を目指す。この辺りは、どこまで行っても平地の田畑が続き、遠くに山が見えるばかりだ。蝉の声が太陽の熱を後押しするようだが、空気が澄んでいるせいか風が心地よく、押し潰されるような蒸し暑さは感じなかった。 永遠に続きそうな広々とした道路脇の道を下り、平屋がぽつぽつと建ち並ぶ集落の中、一軒の家の前で貴子は足を止めた。 茅葺き屋根の古くて大きな家だ、昔は立派な門構えがあった筈だが、いつの間にか郵便受けだけがポツンと立っていた。 「おばあちゃん!貴子だけど、入るよ!」 この辺りの家は、基本鍵を掛けていない。 夜や遠出をする時は別だが、昼間は留守でも開いてる家がほとんどだ。 近所で暮らす者同士の昔ながらの信頼関係もあるが、そもそも人が滅多に立ち寄らない静かな集落、そんな田舎の古びた家に、わざわざ物盗りに入る者は居ないだろうという考えからのようだ。それにしても危なくないのかと、昔は貴子も思っていたが、この集落の日常にも大人になるにつれて慣れてしまった。 建て付けの悪い引戸を強引に引き開ける、これがなかなか力が要る。引戸を抉じ開ければ、広い玄関が目に入る。左側には腰の高さの靴箱が置かれ、その上には鏡が壁に付けられている。玄関から室内へは床板が高くなっており、足腰の弱ったキヨエの為に、段差の低い階段と手すりが付いていた。しかし、サンダルはあるがキヨエの靴がない。その代わりに、男物の少しくたびれた黒いスニーカーがあった。 「…隣の重井(しげい)さんかな」 見知らぬ靴が置いてあっても特別疑問に思わないのは、集落の皆が昔から良く知ってる住人だからだ。 左隣のお宅で暮らす重井家とは、血の繋がりは無いが親戚のような間柄で、留守の内に互いの家に上がって待っているという事も少なくない。 「おばあちゃん?」 だから、貴子も不審に思う事なく玄関を上がり、声を掛けつつ居間に入ろうとすると、居間の戸が勢いよく開き、中から身を乗り出してきた青年とぶつかりそうになった。 「うわ!」 「きゃあ!」 お互い咄嗟に仰け反って衝突を回避したのは良いが、目が合うと互いに面食らった顔を浮かべた。 「…ど、どちら様ですか?」 貴子は戸惑いながら尋ね、旅行鞄を胸に抱き寄せ一歩下がる。ここにきて、この日初めて警戒心を抱いた。 目の前に現れたのは、二十代前半位だろうか、頭にタオルを被るように巻いた細身の青年だった。少々つり上がった切れ長の瞳は、貴子を訝ってか睨むように見つめている。体は細身だが、七分袖の黒いシャツの上からでも、その腕が鍛えられているのが見てとれた。下にはくたびれたジーンズを履いている。 だが、貴子には見覚えがない。この集落の人間では無さそうだし、もしくはどこかのお宅の親族だろうか。 「…あなたこそ、どちら様ですか?」 低く警戒を剥き出しにしたような声色に、貴子は思わず肩を揺らした。強面の青年は、見方を変えれば危ない筋の人間のようにも見え、ここで不審者扱いされたら確実に殴りかかられそうだ。 不審者扱いなんて冗談ではない、ここは貴子の祖母の家だ。 「わ、私は、この家の孫です!」 貴子が負けじとキッとその眼差しに力を入れる。貴子が睨んでも、怯えた小動物が威嚇している程度の効果しかないが、それでも青年は何か察した様子で、その双眸を緩めた。 「あ…たかこ、さんですか?」 少々目つきの悪さは残るが、明らかに青年の雰囲気が丸くなり、貴子は拍子抜けした。 「…そ、そうですが」 急に警戒を解かれたので、貴子が戸惑いつつ頷けば、青年は表情こそ固いが、どこか安心した様子を見せた。 「俺、キヨエさんにお世話になっている、匠海(たくみ)と言います。今、キヨエさんの荷物取りに来たんですけど、よく分からなくて」 「…荷物?」 「はい、入院に必要な物なんですけど、」 「え、入院って、おばあちゃん危ないんですか!?」 青ざめ今度は飛び付いてくる貴子に、匠海は驚き目を瞬いた。 「もう(たか)ちゃん、やぁねぇ人を重病人扱いして」 クスクス笑うキヨエは、病院のベッドに横になり、右足首を包帯で巻いていた。ギプス等もなく、それはごく簡単なもので、見る限り他に重症そうな装いもない。 何よりキヨエは元気そうで、貴子はぽかんとしてしまった。 キヨエの怪我とは、店でよろけて転んだ際、足首を捻ってしまった事による軽い捻挫と、転んで体を庇った際に出来た数ヶ所の軽い打撲だそうだ。 ただ、頭を打った可能性もある事から、念のため精密検査をする事になったという。加えて暫く検査らしい検査をしてこなかったので、それなら全身調べて貰おうと、一週間の検査入院をする事になったのだ。 どうやら貴子は、怪我と聞いて勝手に大怪我をしたと思い込んでいたらしい。 だがそれも仕方ないと貴子は思う、キヨエは電話口で、怪我した事を痛々しげに涙ぐみながら話していたのだ。あの時の涙声はどこにいったのか、だが、元気に笑うキヨエの姿を見ていたら、それもどうでも良くなった。 何はともあれ、軽い怪我で済んだのなら良かったと、貴子はほっと胸を撫で下ろした。 「ありがとうね、心配して飛んで来てくれて」 「ううん、とりあえず元気そうで安心した。それに仕事も休みだしちょうど良かったよ。こっちに少し居ても良い?」 するとキヨエは目を輝かせ、待っていましたとばかりに身を乗り出し貴子の手を握った。 「勿論よ!その為に貴ちゃんに電話したんだから」 「え?」 母達には言いづらかったからではないのか。 きょとんとする貴子をそのままに、キヨエは部屋の角に立っていた匠海を手招いた。 病室は大部屋だったが、入院してる患者はキヨエを入れて二名だった。キヨエが居るのは窓際のベッドだ。もう一人の患者はドア近くのベッドを使用しており、今はベッドで本を読んでいた。 匠海はタオルを頭から取り、控えめに側にやって来る。先ほどは睨まれていたように感じたが、それはやはり、見知らぬ女の訪問に驚き、不審者だと思っていたせいかもしれない。今の匠海の視線は躊躇いがちで、良く見れば精悍な顔立ちをしている事に気がついた。こうして見えるのも、キヨエの怪我の程度を知り、貴子もようやく冷静になれたからかもしれない。 「この子は匠海君。今ね、うちの店を住み込みで手伝って貰ってるの」 「え、そうなの!?」 貴子の母親を含め、親族は畳んだ方が良いとさえ言っている蕎麦屋には、従業員が居たようだ。 「先程はすみません、助かりました」 「いえ、こちらこそ」 匠海とキヨエの家で鉢合わせた後、貴子が入院に必要そうな物を適当に見繕い、といっても、ある程度の物は病院で買う事も出来るので荷物らしい荷物は無かったが、そのまま匠海の運転する軽トラックで病院まで連れてきてもらったのだ。 「貴ちゃんは、東京に居る長女の娘よ。今日から貴ちゃんに店を手伝って貰おうと思って」 「え!?聞いてないよ!私、店なんて手伝った事ないし!」 「大丈夫よ、私の代わりだからお料理運ぶだけ。今は、匠ちゃんがおじいちゃんの跡継いでお蕎麦作ってくれてるから」 そうなの、と振り返ると、匠海はペコリと頭を下げた。 「という訳で、よろしくね」 ぽん、とキヨエは貴子の肩を叩くと、「じゃあ、お仕事頑張ってね」と、貴子は反論の余地なく病室から追い出されてしまった。 その日の夜は、久しぶりに貴子が来たと集落の家々から人が集まり、ちょっとしたお祭り騒ぎになった。それが過ぎれば、広い家で匠海と二人きり。よく知りもしない男と嫁入り前の女が同じ屋根の下で二人、間違いなんて起きないだろうが、そうとは言いきれないのが、男と女だ。 だが、どうしよう、なんて考えていたのは貴子だけで、匠海はアルバイトに出掛けると、夜中まで帰って来なかった。 聞けば、キヨエの店では給料は受け取ろうとせず、その代わり住み込みで食べさせて貰っているという。朝からお昼過ぎまでキヨエの店で働き、夜は町の蕎麦屋で働いているらしい。とは言え、要らないと言われても、匠海の給料はキヨエがよけて別に積んであるそうだ。 それにしても何故給料を受け取らないのか、こんな若者が何故潰れかけた蕎麦屋で働いているのか、貴子には謎だった。 そしてその蕎麦屋に、そもそも自分が来て手伝う程、客は来るのだろうか。 道の駅の側にある蕎麦屋は、祖父の邦夫が始めた店で、邦夫が亡くなる前からだんだんと廃れていったと聞いている。 そんな店に、貴子の出る幕はあるのだろうか。 だが、そう侮っていたのが間違いだった。 匠海について朝早くに開店の準備に取り掛かり、午前十時の開店から閉店まで、店は絶えず客で賑わっていた。 話を聞けば、この蕎麦を食べる為、キヨエに会う為に、わざわざ遠方からこの地へ足を運ぶ客も多いという。 貴子にとってはメニューが少ないのがせめてもの救いだったが、てんてこ舞いの給仕デビューとなったのは、言うまでもない。
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