愛しのサワコ

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愛しのサワコ

 表通りのざわめきが、遠くに聞こえる。  雑居ビル脇に設けられた非常階段に腰掛けて、スマートフォンをいじっている男がいる。年の頃は25、6。痩せ型で長身、皺一つないスーツを身に纏い、青白いその顔にはいまいち生気が感じられない。  男は、女性向けブログを見て回り、流行の服やアクセサリーを物色していた。その眼差しは真剣で、迂闊には触れがたい趣があった。 「これ可愛いな」  掠れた男の低い声。  スマートフォンの画面に写しだされた、鮮やかな群青の生地に、濃淡様々な紫色の花が描かれたワンピース。心ここにあらずといった様子で男は、虚空を見て微笑んだ。  カンカンカンと響く足音。 「マネージャー、休憩中にすいませーん」  制服を着た若い女が息を切らして駆け上がってきて、慌てた様子で男に声をかける。 「どうしたの?」 「あの。新しく入った子が、クレームを言いに来たお客さんに言い返しちゃって。揉めてて」  男は溜息を漏らし、静かに若い女と階段を降りて行った。  雑居ビルの一階フロアは、とある携帯電話会社の販売店になっていて、白を貴重とした清潔なスペースに、沢山のスマートフォンが展示されている。ドビュッシーの月の光が店内にひっそりと響き、穏やかな時間を演出しようとしているのだけれど、中央で声を荒げる中年男性と、険悪な目つきでそれを睨みつけるダークスーツを着た青年のせいでいまいち効果はあがっていなかった。 「完全防水って書いてあるよねこれ。お兄さんにも買うとき確認したじゃない」 「だからって海の中で写真撮ろうと思えば壊れるでしょ。常識的に考えろよ。これ機械っすよ?」 「おい、客にどういう口聞いてんだよ、お前」 「はっ? 今、お前って言ったっすか? お客様」  喧々諤々とやりあう二人の間に、異様に頬の釣り上がった妙な笑顔を浮かべて男が割って入る。先程、非常階段で虚空を見つめながら微笑んでいたあの表情が本当の姿だとするならば、それは別人とも思えるような偽物の顔だった。 「はじめさん。だって明らかにあっちがおかしいでしょ。なのになんで土下座までして」 「土下座されれば相手が、強く出られないからだよ」  結局、マネージャーの男――福田はじめは、場を収めるために頭を地面に擦り付けて土下座をした。それから興奮していた店員の男を事務所まで連れて来て、今に至る。 「……嫌じゃないんですか?」  若い男が、顔を歪めて唇を噛む。 「俺、間違ってますかね? スマホを、海の中に入れたら壊れたなんて理由でいきなり罵られて。弁償しろだ、どういう教育受けてるんだ言われて。理不尽じゃないですか、どう考えたって」 「……嫌とか好きとか、間違ってるとか正しいとか、そんな気分で仕事しちゃダメだよ。お客さんが神様だとは思わないけど、お客さんだからね。彼らがいるから、お金貰えるんだから」  いきなり土下座をされては、クレームをつけていた男も強く出られず場は収まったけれど、言い返していた店員の男の立場もなくなった。悲痛な顔で拳を握り締めて、俯いている。 「僕にアドバイスできるのは、お客さんを人間だと思わないこと。彼らのことを、僕らの時間をお金に換金してくれる物としてみれば、感情は動かないよ。現にさっきの土下座も、僕はなんとも思ってない」 「でも人間じゃないっすか、あのおっさん。犬みたいな顔してましたけど」 「そうかな?」  先程、唾を飛ばして文句を並べていた男の顔でも思い出しているのが、はじめは、中空を見つめて難しい顔で黙り込む。 「とにかくこういうことは今後、しないでもらいたいな。それでさ、頑張って続けてよ。売り上げだっていいし、期待してるんだから」  それだけ言うと釈然としない表情で俯く男を残して、商品の説明やらお客さんのクレームやらで騒然としたフロアへと戻っていった。  結局、その若い男はすぐに辞めてしまい、補充人員をどう見つけてくるかと言う手間や金銭的問題だけが、はじめの下に残った。  閉店の時間になり、はじめが銀行に店の金を預けて事務所に戻ってくると、壁向こうのフロアで片付けをしている女の子達の会話が聞こえてきた。どうやらはじめのことを話しているようで、出るに出られず、そのまま彼女達の話を立ち聞きすることとなった。 「マネージャーは銀行?」 「え……はい。さっき封筒持って出て行きましたよ」 「あのさ。あの辞めちゃった子の話って聞いた? 土下座した後に何を言われたかって」 「あー、あれですか。あの……人間だと思うなって言われた話」 「そう。次から次へと変なお客さんが来てさ。気持ちは分かるけど……」 「あのマネージャーが言うと、ちょっと本気っぽくて、怖いですよね」 「うん。私達も、そうやって見られてる気がしない?」  ひそひそと話してはいるのだけれど、甲高いその二つの声は、壁向こうのはじめのところまでよく聞こえてくる。はじめは、特に気にした様子もなく、ネクタイを緩めて息を吐いた。 「あ……でも。そういえば今日、お昼休みに彼女へのプレゼント買ってるの見ました」 「へぇ、何を買ってたの?」 「駅前のジュエリーショップで指輪。意外と付き合ったら、尽くすタイプなんじゃないですか?」  無表情で彼女達の話を聞いていたはじめは、指輪と聞いてふっと微笑み、事務所奥に置かれた鞄の口を開いて、ピンクの包装紙に包まれた小さな箱を取り出した。 「えーウソでしょ。絶対ドSだって」 「いやいや。Sってのは、思いやりのある人にしか出来ないんですよ」  ピンクのリボンで封じられたその箱を熱っぽく見ている内に、いつの間にか話題が彼女達のSM論に移り変わったので、はじめは何も聞かなかったような趣でフロアに入り、片づけを手伝った。  マンションに帰ると、はじめはまず玄関脇にある風呂場の扉を開けて、何も異常が起きていないか確認する。何年か前に、父親が風呂場で自殺未遂を起こして以来、続いている癖だ。空っぽの真っ白い浴槽を見て、一息ついて明かりの消えたリビングに行くと、酒瓶に囲まれた父親が、テーブルに突っ伏して寝息をたてていた。 「ただいま」  暗がりの中でも分かる病的に黄ばんだ肌に、痩せ細った体。はじめの父福田晃一は、五十三という年齢より、一回りも二回りも老けて見えた。  はじめは、父を起こさぬよう、物音一つ立てず空になった酒瓶を台所に持っていってから「おやすみ」と声をかけ、リビングから続く自らの部屋へと入っていった。  入口付近に設けられたスイッチを入れると、三つの暖色系の照明が部屋をうっすらと照らし、その中央の木椅子に座る、凛とした女の姿を浮かび上がらせた。意志の強さを感じさせる、くっきりとした二重に縁取られた眼。厚い唇に、すっときれいに突き出た小さな鼻。胸元まで流れる美しい栗毛の髪。目じりが上がっているからかキツそうな性格にも見えるが、顔全体を見ると、不思議と包み込むような優しさをその表情から感じられた。  前にはじめがスマートフォンで見ていた、紫の花柄のワンピースを纏って、身動き一つせずはじめの方を見つめている。 「サワコ、ただいま」  良く突き出た胸に、太くもなく細くもない完璧にバランスの取れた四肢。よくよく見ると柔らかいその肌は、張りのある弾力を持ったシリコン樹脂で構成されていた。 「やっぱりその服、いいね。ブログでそれを着てたモデルより、ずっとずっと似合ってる」  彼女の顔には、表情の変化は現れない。しかし薄明かりの中、サワコの口角がすっと上がって微笑んだように、はじめの眼には映ったのだ。  彼女の手に握らせたワイングラスに、自らのグラスをそっと合わせる。  かつんと澄んだ音を響き渡らせて、 「誕生日おめでとう」  と、はじめは注がれたワインに口をつけた。  サワコの前に置かれた折りたたみ式の簡易テーブルの上には、他にもチーズや生ハムが置かれていて、二人の晩酌に色を添えている。 「そうだね、もう五年になるね」  サワコの対面に座り、聞こえぬ声に答えるようにはじめが言う。 「大学辞めて、今の所でバイトして、就職して。俺さ、少しは、君を背負って生きていけるような、ちゃんとした男になれたかな」  はじめの部屋に設けられた三つの照明は、よりサワコの美しさを引き立たせるように配置されていて、淡い影が化粧となってサワコの顔に柔らかな立体感を与えていた。サワコが座っているアンティークの木椅子の他は、ベッドと、本棚に几帳面に並べられた本しかない簡素な部屋。この部屋自体がサワコのためにあると言っても良いような作りになっている。 「いや、そりゃ辛いよ。人間の形をした妙な生き物達に囲まれて、お金を貰うために無味乾燥な愛のない時間を過ごしていく。だけどそのおかげで君とこうして暮らしていけるんだから……」  リビングからは父親の、鼻につっかえたような大きな鼾が聞こえてくる。どこか浮世離れしているはじめの部屋を、その鼾が辛うじて俗世に繋ぎとめているようだった。 「……お父さん? そうだね、それもある。最近は、仕事もずっと休んでるみたいだし。俺が面倒見てあげないと。最低の父親だけど、あの女みたいにぼろぼろになった人を捨てていくなんて、俺にはできない」  サワコが、首を横に振る。薄暗がりの中の錯覚か、やはりはじめにはそう見えた。 「母親をあの女だなんて言ったらいけないって? やっぱり君は優しいね」  はじめは、身を乗り出してサワコに口付けをする。 「好きだよ。俺、もっと自信を持てたら……君に渡したいものがあるんだ」  そう低く呟いて、すがりつくように彼女を強く抱きしめた。  そして彼女のワンピースを捲し上げて、ベッドへと連れて行って、裏に表に、丹念な愛撫を続けてから、はじめは、激しく彼女を求めて声をあげて果てた。彼女のそこに設けられた一万五千円のオナホールは、優しくそれを受け止めた。  夜のうちにサワコから取り外され、丁寧に洗浄された筒状のオナホールが、薄く白んだ朝のひかりを受けてベランダに吊るされ佇んでいる。見た目はただの肌色の形をした細長い筒だが、その中には、女性器のその感触を再現するために、幾つもの透明なひだがびっしりと埋め込まれていた。  その朝、はじめが目を覚ますと、晃一が台所で仰向けになって泡を吹いて倒れていた。顔は青ざめていて、ぴくぴくと震えて視線は定かでない。辺りには、倒れる時に持っていたらしいウィスキーがこぼれ落ちていて、部屋中を強烈なアルコールの臭いで満たしていた。  晃一の白いシャツは、口元から吐き出された黒みを帯びた血に染まっている。 「寒いよ」  汗ばむような朝の日差しの中、晃一は小さな声でそう言った。。  はじめの電話を受けて、すぐに駆けつけた救急隊員がてきぱきと父を担架に乗せて、あれこれ倒れていた時の状況を聞きながらマンションの下へと降りていく。救急車に乗って病院へと赴く間にも、父は「寒い寒い」と身体を震わせ、青ざめた顔を苦痛に歪めていた。そのまま手術室へ運ばれた晃一を見送り、待合室で経過を待つ。朝の病院は、人もまばらで気が付くとはじめは寝入っていた。 「すいません」  看護婦に起こされて、はっと顔を起こす。何か心に染み入る夢を見ていた。どんな夢を見ていたかは忘れたが、きっとサワコの夢だろう。はじめの見る夢は、覚えている限りいつもそうだ。  そのまま医務室に連れて行かれて、応急手術が成功したことと、父が肝がんを併発した末期の肝硬変であることを知らされて、入院手続きを行った。後日、聞いた話では、父の余命はもう三ヶ月もないのだという。  白一色の無機質な病室に置かれた、来客用のパイプ椅子に腰掛けて父の痩せ細った身体を見る。酒ばかり飲んでろくに飯も食わず、食えば吐き、痩せ衰えていた父だけれど、家にいた時よりもまた肉が削げ落ちたような感じがする。ぱさぱさになった白髪も抜け落ちて、今にも消え去りそうな弱さが全身に影となって落ちている。 「いやぁ、面目ない」  ベッドに横たわっている父が、はじめを見上げて頭をかく。  怒りとか、悲しみとか、そういう感情は確かにはじめの中に燻っているのだけれど、肩を落として、気まずそうに息子にすら視線を合わせられないでいる父を前にすると、どうしてもそれらを言葉にすることができない。 「ちょっとカーテン開けてくれないか?」  晃一の言葉に従って厚いカーテンを開け放つが、窓の向こうの空は、白銀の雲に埋め尽くされていて、開放感のようなものは感じられなかった。 「俺、もう長くないんだろ?」  背中越しに聞こえてきた晃一のかさついた言葉に、はじめが頷く事も首を振る事もできずにいると、 「色々な人に迷惑かけたけど、お前には特に、いっぱいかけたな」  と、しみじみと言う。 「本当だよ。何回、寝ゲロの処理させられたか」 「悪い悪い。もうすっぱり消えるから。後は、サワコちゃんと二人、仲良く暮らしてくれよ」  目じりに浮かんだ涙を隠すように、はじめは振り返らず、ただ空を見上げて頷いた。 「うん」 「言ってみればこの世界にある全ては、自己が投影された対象でしかないんだ。動いているものも、動いていないものも」 「なにそれ」 「俺は、いいと思うよ。色んな文豪が人形への愛を描いてきたけど、結局その人達はみんな自分が好きなんだ。その過剰な自己愛に対して、自覚や距離があるから面白おかしく、時には不気味に描いてはいるけど。いいんだよ。好きな自分を正しく投影できる、適したものを愛しているんだから間違ってない。例えそれで、最後に絶望したってさ」 「そんな理屈で、彼女を好きなわけじゃないよ」 「一つの解釈だと思って聞き流してくれ。とにかく俺はいいと思う。自分のことを嫌って、嫌いな自分を誤魔化すように他人に依存して、捨てられて、追い詰められるよりずっといい」  空の向こうへ飛んでいく、数羽の烏がはじめの視界に入ってきた。東京都が長い間、害鳥として処理を続けてきて十数年、滅多にその黒い姿を見ることはなくなっていたので、随分と珍しいもののように思える。 「俺は、お父さんのこと嫌いじゃない。迷惑だけどさ」 「そうか。ありがとうな」  それだけ言うと、晃一は噛み締めるように目を瞑って微笑んだ。入院してからずっとアルコールを抜いていたおかげか、ここ数年、はじめに見せていた追い詰められているような暗い表情は、見て取れなかった。  そしてそれから三ヶ月もしない内に、晃一の命の火はあっさりと消えた。  晃一の遺体が横たわるリビングに、度々親戚や父の友達が訪れて、お線香をあげていく。白装束を纏った父の傍らにぼんやりと座って、来客に応対するはじめの後ろで、せかせかと叔母が遺品の整理を行っていた。叔母は、父と違ってふくよかな体躯をしているのだけれど、顔はやはり兄妹で似ていて、神経質そうな細い眼や薄い唇は、晃一やはじめのそれとそっくりだった。  死に化粧を施された父の顔は、生きている時よりは健康的に見えて、じっと見ていると今にも動き出しそうに思える。はじめは、父の冷え切った頬に触れて、厳然としてそこに佇んでいる死に想いを馳せているようなのだが、表情はなく、何を感じているのかは窺い知れない。 「遺言書が見つかったの」  と、いよいよ葬式が明日に迫った日の夕方、叔母がはじめに一通の封筒を手渡した。手にはもう一通の封筒を持っている。 「後、もう一つは美登理さんになんだけど。はじめ、今でも連絡って取ってる?」 「一応、父さんのこと手紙で伝えましたけど。連絡ないです」  嫌悪感が滲み出たはじめの言葉を聞いて、叔母は同調するように頷いた。 「薄情な女よねぇ本当に。兄さんもあんな女に引っかからなきゃ、きっとお酒に溺れたりしなかったのに」 「でも、そしたら僕も生まれてませんよ」  否定するでも肯定するでもなし、なんの感情も込めずに言う。いまいち掴み所のないはじめの言葉に戸惑いながらも、叔母はもう一通の封筒をはじめに渡す。 「あなたは変なのに引っかかっちゃダメよ。それと、これ悪いけど渡して貰える?」  伝えるべきことを伝えて、再び荷物の整理を始めようとした叔母が急に叫び声をあげる。はじめの部屋の戸を開けて、奥にいるサワコの姿を目にしたせいだった。 「なにこれ?」 「……仕事で使うマネキンです。今とりあえず家に置いてて」  呆然と立ち尽くす叔母を押しのけて、慌ててはじめは戸を閉じた。ぎこちない笑みの上に、滲み出る焦り。この数日、それこそ人形のように無表情で、生気なく父の傍らにいたはじめに、久しぶりに人間らしい表情が浮かび上がっていた。 「ごめんね。マネキンだなんて言って、傷ついたよね。本当に俺って死んだほうがいい」  明かりの落ちたリビングに敷かれた三枚の布団。父の遺体とサワコの間で、川の字になってはじめは横たわっていた。花柄の寝巻きを着たサワコの顔にかかった髪の毛をかきあげて、彼女の完成された優しげな顔をじっと見つめる。 「……許してくれるの? ありがとう」  泣き出しそうな顔ではじめは、投げ出されたサワコの手を強く握る。 「親父の遺言さ。ずーっと謝ってばっかりで、親父らしい遺言だなって思ったけど。最後にびっくりするオチが用意されてたんだ」  暗がりの中、床に投げ置かれていた遺言書を手探りで掴み、サワコに見せる。 「九州の方にお爺ちゃん達が住んでた家があるらしいんだけど。その家の権利を、俺に譲るってさ」  サワコの声に応えるように笑顔を見せて、 「……本当。最後まで迷惑かけて。どうしろって言うんだよ、そんなもん」  と言う。  父の遺体の横に置かれた枕机の上で、ちりちりと身を削りながら小さな明かりを灯す線香。くゆる煙と共に、部屋に甘い匂いを漂わせる。 「酔っぱらってた時に話してたんだ。父さんの実家は、小さな漁港を見渡せる丘の上にあって、そこから汽笛を鳴らして港を出て行く船を、飽きることなく見ていたって。夕焼けが海の向こうに落ちるまでずっと」  ふっとはじめは目を閉じて、大きく息を吐く。 「そんな所で二人きり。誰にも邪魔されることなく、静かに暮らしていくってのも悪くないかもね。ここは、余計なものが多すぎるしさ」  線香の明かりが崩れ落ちる。微動だにせずにはじめを凝視するサワコと、白装束に身を包み、死に化粧を施された晃一に挟まれて、はじめは眠り落ちるまでそんなおぼろげな未来について語り続けていた。  新宿駅構内にある喫茶店は、ちょうど昼時ということもあって人で溢れかえっていた。木目調で整えられた落ち着いた店内で、丹念に化粧を施した中年の女と向かい合って、はじめはアイスコーヒーを飲んでいる。  互いにどこか余所余所しく、「身体の調子は?」やら「午後から雨が降るんだって」やらとりとめのないことを口にしては黙り込む。 「あのさ」  と、意を決したようにはじめが口を開いた。 「これお父さんからの手紙。お母さんに渡して欲しいって」  女は、目の前に置かれた封筒を前にしばらく困ったような顔をしてから、鞄から細長いメンソール煙草を取り出して火をつける。 「私に、それを見る権利はないと思う」  鼻を突くきつい臭いがする煙を吐いて、女は封筒をはじめの前に押し返した。 「要は面倒だから見たくないってことね。わかった」  きつい口調を耳にして、女は悲しげな顔を見せる。はじめには、どうも被害者じみた印象を意図的に作っているようにしか思えなかった。 「悲しんだって、何も許されないんだ。あなたは被害者ぶって不倫して、お父さんを傷つけた。その事実は嘆こうが、時が経とうが、変わらない」 「ただ私は……自分の人生を生きたかっただけなの」 「僕は、お父さんの代わりに、お母さんを傷つけてやりたい気持ちでいっぱいだよ。それだってある意味、僕の人生のためだ」  どこかすねた子供のような表情で、はじめは女を睨みつける。 「それで手紙は、いらないの?」 「どうせ怨み言しか書いてないんだから。責めないで」  はじめは、封筒を手に取り席を立ち、十年ぶりとなる母との短い邂逅を打ち切って外に出る。新宿駅を行き交う無数の人々の間を、早足に去っていった。  八階建てのマンション、最上階にあるはじめの部屋のベランダからは、山手線沿線の町並みを眺め見ることが出来た。明かりの粒が束となって、道筋を作っているようなその夜景を晃一はやたらと気に入っていて、夏になるとよくここで街を見下ろし、一人でウィスキーなど飲んでいた。 「怨み言なんて、何一つ書かれてなかったんだ。あれはさ……遺言じゃなくて、ただのラブレターだよ」  手摺りに両手を乗せ、眼下に広がる夜景へ視線をやって、はじめが言う。  横にはサワコが似たようなポーズで立っていて、時折、吹き上げてくる風に吹かれてウェーブがかった長い髪が揺れては、顔にかかった。 「君と出会えて良かった、とかさ。男作って、何もかも放棄して好き勝手やって逃げてったあんな女に感謝の言葉ばかりで。それで最後に書かれてた言葉が、今でも愛してます。ありがとう、だってさ」  サワコの胸に、顔を埋める。声の調子は弱々しく、泣き出しそうにも思えた。 「……うん。俺が君と出会う少し前に、あの人に書いた手紙とそっくりだった。やっぱり親子だな。それで親子で、裏切られてんだから馬鹿みたいだ」  ポケットからスマートフォンを取り出して、何年も前に撮られた画質の粗い画像ファイルを映し出す。それは二十歳位のショートカットの女の写真で、広い肩幅と気の強そうな面影はどこかサワコと似ていた。 「未練たっぷりに、まだ写真まで残しててさ」  小さく掠れたはじめの声を、飲み込まんとする強い風の音。風に押されて倒れ込んできたサワコの身体を、はじめはしかと抱き止めた。 「……そうだね。もうこの汚れた土地にいる理由なんてないよね」  耳の奥に響いてくる低い風の音と、揺れる窓の軋み。吹きすさぶ風の中、はじめはサワコの肩を強く握り締め、シリコン樹脂の柔肌にその手を食い込ませた。
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