出航

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出航

 リビングにはもう父の遺体はなく、ただ窓から差し込んだ光が、ぽっかりと空いた板張りの床に落ちている。  父の遺影を薄茶色の肩掛け鞄に放り込み、サワコを背負ってマンションを出る。互いの両肩を黒いゴムバンドで留めているので、力を抜いても、誤って落としてしまう心配はない。  彼女が着ている服はいつぞや買ったワンピースで、紫の花柄模様が、鮮烈な日差しの下でより一層鮮やかに見えた。  朝の山手線。  真っ青な空の中を上下する幾重もの電線が、車窓の外を流れていく。サワコと並んで長椅子に座り、じっとそれを眺めていたはじめに向けられた周囲の視線は、とても厳しいものだった。  はじめはそんな周囲の人々の視線に抗うように、固くサワコの手を握りしめる。 「すいません、お客様。そちらの荷物はちょっとお持ち込みできません……」  羽田空港で、荷物検査を受けようとしたはじめに、恐る恐る検査スタッフの女が声をかけると、はじめの後ろに並んでいた男女四人のグループが「そりゃそうだ」と笑い、追い越していった。 「……荷物じゃないです。彼女です」  背負ったサワコを担ぎ直して、はじめが言う。言い合う形で向かい合った二人などお構いなしに背の高い空港の天井には、淡々と到着時刻の変更を告げるアナウンスの声が響き渡っていた。 「えっと……。人形ですよね、それ?」 「それは人間と言うものの定義を、どう捉えるかと言う認識のあり方の違いです。例えば病気や怪我で動けなくなったって人間だし、それは積み重ねた愛情が、そう思わせる脳の在り方が人間たらしめてると言えるんじゃないですか? 動けないものは人間じゃないなんて、それこそ非人間的だと思いませんか?」 「あの……。動いていた人と始めから動かない人形は、そもそも違うんじゃないですか?」 「過去に動いていたか否かなんて、それこそ認識の差異じゃないですか。彼女は、僕の前で明確に微笑んだことがある。過去から現在に至るまで、彼女は明確に人間だった。身動きしない人がそこにいたとしたら、僕は彼らの過去は知らない。ただ身動きできない現象が、そこに佇んでいるだけでしかない。それでも僕は寛容に、人間だと受け入れますけどね」  はじめと検査スタッフが揉めている間にも、金属探知機のゲートに人間が入っていき、X線検査に手荷物が通されていく。 「少なくとも当社の規定では、人間じゃないんです」 「人間ってあなたの会社の規定で成り立つものなんですか? 航空会社って言うのは、そんな神様みたいな壮絶な客観的存在なんですか?」  ゲートを通ろうとするはじめを押し返すように、数人の検査員が駆け寄ってきて、次第に野次馬も集まってくる。中にはスマートフォンでそのやり取りを撮影する者も現われだした。 「法的にも、宗教的にも、それは人間じゃありませんよ」  応援に駆けつけた検査員の男の断固とした否定の言葉に、はじめは黙り込んでしまう。アプローチを変えて「通してください」とお願いしてみるが、やはり道は開かない。 「とにかく荷物としてお届けいただければ、すぐに積み込みますので……」 「それは、できない。ずっと彼女と一緒にいるんだ」 「では、ご搭乗していただくわけにはいきませんよ」 「人間と言う言葉に込められている、生物的な存在を定義する以上のニュアンス。それを僕は、彼女には強く感じるけど、君には一切感じない。君は人間であって人間じゃない」  立ちふさがった男の顔も直視できずに、ぴかぴかの空港の床に視線をやってはじめが言い捨てる。騒動を眺めていた人々の何人かは、「ああ、負け犬の遠吠えというやつだな」というようなことを思った。  はじめは、周囲に集まった野次馬を睨みつけ、その輪を抜けて空港を去っていった。  結局、旅立ちは翌日に持ち越された。  その日は朝からぱらぱらと小雨が降っていて、どうも旅立ちに相応しい天候とは言えなかったけれど、サワコと二人、東京湾沿岸を走るモノレールの最前列に並んで座り、飛び込んで来ては過ぎ去っていく景色を眺めていたら、一度はしぼんだ旅情が再び沸き起こってきた。  ビルの谷間を通り過ぎ、背の高い倉庫が密集する一帯を抜けると、一面に広がる東京湾とベイブリッジが車窓を埋め尽くす。向こう岸には、湾岸沿いに並び立つビルの凹凸と、観覧車などが設けられていて、はじめは、今まで自分が住んでいた街の遠景を、感慨深げに見つめていた。  電車の中でも、フェリー乗り場へと向かう乗り合いバスでも、周囲にいる人々は、怪訝な様子でサワコを眺めては、居心地の悪さを感じていたのだけれど、素知らぬ顔ではじめは、隣に座ったサワコの手をただ握り締めていた。  港にある三階建ての待合所のビルには、前日の便が悪天候で欠航したこともあり多くの人々が集っていて、旅券の受け取り手続きを済ませては、出向の時を今や遅しと待っていた。東京見物に来ていた老婦人に、旅立ちを前に高揚した様子で歓談している若者達。強面のトラック運転手に、大きなリュックサックを背負った一人旅の男。老若男女、様々な人がいる。  はじめとサワコが最上階のだだっ広い待合室に入ってきて、整然と並んだベンチの片隅に腰掛けると、とりとめもない話を交わしていた人々がふっと黙り込み、彼らの方へ訝しげな顔を向けた。  腰を下ろし一息ついていると、ポケットに入れていたスマートフォンが、小刻みに震え出した。 「会社からだ」  隣にいるサワコに聞かせるようにはじめは言って、通話状態に切り替える。 「もしもし?」 「人事の沢田です。急に会社辞めるってどういうことですか?」 「辞表に書いた通りです。引継ぎ内容も辞表にまとめてありますので、新しい人に伝えておいてください」 「いないですよ人なんて。人が足りてないのは、マネージャーなんだからあなたも知ってるでしょう」  そう言われると、後ろめたい気持ちがあるのか、はじめは申し訳なさそうに顔を歪める。 「ごめんなさい」 「せめて一ヶ月、いや三ヶ月はいてもらえないでしょうか。その間に、こちらも人を探しますので……」 「ごめんなさい」  ただ謝罪の言葉を重ねて、キリの良い所で電話を切った。 「スマホの販売店って言ってもさ。ノルマがきつくて、売りたくないものを、欲しくもない人に売りつけなくちゃいけなくて。真面目な人はみんな辞めてっちゃうから。割り切ってやれる少し壊れた人しか、残らないんだ。三ヶ月待っても、新しい人に委ねられる補償はないよ」  サワコに語りかけるその話し振りには、辛い仕事を誰かに投げ出して来たことへの罪悪感でもあるのか、言い訳染みた、許しを乞うような感じがあって、その滲み出た想いをただサワコは黙って受け入れた。  待合所の前面はガラス張りになっていて、すっかり日が落ちた暗がりの港に、巨大なフェリーが佇んでいるのが眺め見えた。フェリーから架けられた橋を渡って、何台もの車が港へ下りてくる。 「雨が強くなってきたね」  窓の向こうを流れる大粒の雨のしずくに触れて、はじめが言う。その場にいる誰の耳にも聞こえない言葉が聞こえたのか、はじめは一間置いて、サワコへ向けて優しげに笑いかけた。  一人、はじめとサワコを興味深げに眺めては手元にある大学ノートになにやら記している男がいた。汗ばんだシャツを着た中肉中背の男で、伸びきった髪をまとめて後ろに束ねている。一見にこやかで人の良さそうな顔をしているが、時折見せる人を食ったような表情に、抜け目なさのようなものが見受けられた。 「車両で来られている方、ご搭乗よろしくお願いいたします」  と、言うアナウンスが流れると、男は足元に置いてあった膨れ上がったザックを背負って立ち上がり、フェリーを指差し楽しげに話しているはじめ達の姿を、スマートフォンで盗撮してから去っていった。  乗り合いバスでフェリーに乗り込み、船員に案内されるがまま階段を登っていって最上階にある二等客室まで歩いていく。船内は古びてはいたもののよく手入れがされていて、内壁には目立った汚れ一つ見つからない。  螺旋階段を上っていく途中、食堂や休憩所や風呂場があると聞いたので、はじめはそれらの場所を一つ一つ確認していった。  二等客室には、色あせた薄紅色のシートが敷かれた十六畳のスペースが、通路を跨いで左右に六区画ほど用意されていて、先に乗り込んでいた人々が所狭しと座り込んだり、既に横になったりしていた。  奥まった所にちょうど二人分の空いたスペースがあったので、はじめは、そこに腰を下ろしてサワコを隣に座らせた。  すぐ手前で若い男達が、日本酒の瓶を中央に置き酒盛りを開いていた。聞こえてくる話から察するに、どうやら彼らは同じ大学に通っている友達同士らしく、脈絡のない話を時折しては大きな笑い声をあげていた。  その内、酒盛りを開いている中の誰かが、サワコの方を指差して言った。 「あれダッチワイフだろ」 「使わせてくれねぇかな」  男達は異質な者への蔑みを、集団という安全圏の中で、あけすけに表現してみせる。  はじめは、背後の壁に垂れ下がった厚いカーテンを開けて外の様子を確認するが、まだ船が動き出すような気配はない。ただ暗がりの海と打ち付ける雨、窓ガラスに映るはじめの顔が見えるだけだ。その顔はどうも悲しげで、切羽詰ったようでもあって、そんな自分を恥じるように、はじめは両手で顔を覆った。 「隣いいっすか?」  突然、何者かに声をかけられて振り返ると、そこに髪を後ろに束ねた男がいて、人懐っこい笑顔をにこにこと浮かべていた。ささくれだっていたはじめも思わず虚を突かれたような顔で頷いて、 「どうぞ」  と、言う。  男はパンパンに物が詰め込まれたザックを床に置くと、旅慣れた様子でジャージに着替えて「あ、毛布と枕、取っておいた方がいいっすよ」と棚に置かれた毛布を二枚、はじめに手渡した。 「いっぱい取る人いて、なくなっちゃうんすよ」  悪意がまるでないという程、純朴な面持ちではないが、動物に例えるなら猿に近い、野性味溢れるタイプであるその男の顔からは、周囲の人々にある粘っこい敵意のようなものが感じられない。 「ありがとう」  毛布を受け取ると、毒の抜けた様子で、男に向かってはじめはそう言った。  やはりどこか人寂しかったのかもしれない。男に誘われるままはじめは、デッキ一階の共用スペースにやってきて、そこで出航を待つことにした。食堂の席が埋まっていたので、ジュースにビール、それにカップラーメンやドリアなど様々なものの自動販売機が並んだ廊下沿いのテーブル席に座り、道すがら買った菓子パンを食う。  向かい合って座るはじめとサワコの後ろの席に、食堂で買って来たうどんを手に男が腰掛ける。しばらくすると、ボッボッボッと言う低いエンジン音が鳴り響き、船全体がブルブルと小刻みに震え出した。 「船、出そうっすね」  直に船は港を離れていき、ベイブリッジの下を潜って東京湾を抜け出ていく。ぽつぽつと灯る港の明かりに続いて顔を出した、ひかりに彩られた東京の街のビルの輪郭も、ゆっくりと暗がりの海の中へと消えていった。  はじめは、去り行く故郷をじっと眺めては、サワコの手を強く握り締める。 「どこに行くんすか?」  髪を束ねた男が、食堂で買ってきたうどんをすすりながら聞く。 「九州です。お兄さんは?」 「俺も九州っすね。ちょっと長い休み取ったんで、バイクで九州中回ろうと思って」  それから男は、一頻り自分が暇を見つけては日本中を旅して回っていることなど説明してから、ぐっと身体を前に倒して話を切り出した。 「それにしてもその人形、めっちゃリアルっすよね。最初、本物の人かと思ったっすよ」  揶揄している訳ではないということは、感心しきっているその語調から汲み取れたので、「一緒に、九州の家に行くんです」と堂々とはじめは答えた。 「いいなぁ。でも変な目で見られたりしないっすか?」 「それが空港で……」  思わず昨日空港で起こした騒動について話して聞かせると、男は爆笑してそれを受け止めた。「しょうがないんだから」とサワコも、はじめの話に優しく相槌を打ってくれているような気分にもなった。 「無茶しすぎっすよ」 「差別されるのは分かってるし、それも当然だと思ってる。だけど絶対、離れたくなかったんだ」  深刻な響きがあるはじめの言葉。興味深そうにそれを聞いていた男は、 「まぁ、気持ちは分かるっすけどね。俺もサベージなしの旅なんて絶対嫌っすし」 「サベージ?」 「あ、乗ってるバイクっすね。もうボロなんすけど、ずーっと乗ってて」 「恋人みたいなもの?」 「かもしれないっすね」 「いいね」  思わず笑みをこぼす。父親が死んでからというもの、はじめがサワコ以外の人とこんな風に打ち解けて話したのは初めてのことだった。湾岸道路のテールランプや、夜闇に沈んだ工場を、縁取る灯かりが過ぎ去っていくのを眺めながら、ビール片手に話を続けた。  すると伊豆の南端を通り過ぎようという頃、 「あら、可愛い女の子ね。お人形さんみたい」  と、後ろから見知らぬ老婆に話しかけられた。風呂上りなのか血色が良く、短く刈られた白髪もほのかに濡れている。澄み切った柔和な表情と痩せ細った身体は、何か不要な物がごっそり抜け落ちたような無駄のない印象をはじめ達に与えた。 「こんばんわ」  そして老婆は、微動だにしないサワコに会釈をする。 「もうお母さん、知らない人に話しかけちゃダメでしょ」  老婆の背後から現れた、娘と思わしき初老の女が、老婆の手を引き奥の席へと連れて行って座らせる。娘は横切る時に、「すいません」とはじめに謝ってはいたが、意識せずにか触れてはいけない人へと向ける訝しげな表情を顕にしてしまっていた。  娘は、携帯電話を取り出して、なにやら電話をし始めた。 「もしもし、姉さん。お母さん、ずっと家に帰りたい帰りたいって言ってて。お風呂でも泣きだしちゃって……。薬? 分かった……」  漏れ聞こえてくる話から察するに、どうやら痴呆症の母親を姉の家から引き取って、九州の実家へとこの妹さんが連れて帰る途中らしい。老人ホームに入れる入れないという話で、母を間に置いて姉妹で揉めている様が、その険しい口調と共に伝わってきた。  電話が終わると、うたた寝を始めていた老婆を引き連れて妹さんは去っていき、残された沈黙に、外から聞こえてくる荒々しい波の音がただ響いた。 「色んな人がいて面白いっすね」  ビールを飲み干して、男が言う。 「うん」  壁一枚隔てた向こうでは、強烈な雨が降り続けていて、高波が船に打ち付けては船を揺らしている。  はじめもビールを飲み干し頷いて、何やら深々と考え込むように窓に写り込んだサワコの顔を見つめる。ふざけて父親が、酔っぱらった時に話しかけたことはあったが、そういう冗談めいたものを除けば、はじめ以外でサワコに語りかけた人は、あの老婆が初めてだったのだ。
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