船旅

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

船旅

 さっとシャワーだけ浴びて最上階の二等船室に戻ると、ごったがえす人々の中にすっかり酩酊した大学生グループがいる。はじめは彼らを避けて奥へ行き、壁に背をもたれて本を読んでいる長髪の男の隣に腰掛けて、サワコを下ろす。  部屋の四方に備え付けられたテレビの映像をぼんやりと見ている腹の出た男、毛布に潜り込んで既に眠り込んでいる老人、スマートフォンをいじって何か調べているジャージ姿の強面の男。輪になって酒など飲み、語り合っている人々。はじめの目の前で酒盛りを続ける大学生などは、テレビの音量に負けじとスマートフォンでお気に入りのポップスソングを流して、自らの趣向を周囲に誇示している。雑多な男達が、それぞれの在り方をてんでばらばらに披露するその空間には、妙に混沌とした、ある種の熱っぽさが立ち込めていた。 「展望風呂、入って来たっすか?」  長髪の男が、本から顔を上げてはじめに聞く。 「ううん。シャワー」 「でっかい窓がついてる風呂場あるんすよ。眺めもいいし、一度は入ったほうがいいっすよ」 「へぇ」  特に景色などには興味がないのか、気のない返事をして、毛布を敷いてその上でサワコと横になる。 「おっぱじめるんじゃね」  酔っぱらった若者達の嘲る様な言葉を、遮り耳を塞ぐように頭から毛布をかぶって、スマートフォンで女物の洋服やアクセサリーを調べては、サワコに見せて反応を伺った。毛布の中の薄暗がりで、時折はじめを凝視するサワコの頬が、自分の言葉に反応して微妙に上がって微笑んでいるように見えた。  消灯時間になり明かりが落ちると、二等船室を埋め尽くしていたざわめきが一気に静まった。若者達も垂れ流していた音楽はさすがに消し、ひそひそと話しながら残った酒をちびちびとやり始める。  夜闇に輪郭を失った大海。振りすさぶ雨の中、ぽつんとひかりを掲げて西へと進むフェリー汽船を、高波が打つ。ぐらんぐらんと船は揺れ、眠り込もうとする人々を不安な気持ちにさせた。  なかなか寝付けないでいると、揺れ動く船の傾きに押されて、サワコがはじめの方に倒れ込んできた。はじめは、まるで寝返りでも打ったかのようなその動きに微笑んで、顔にかかった髪の毛を掻き揚げ頭を撫でてから、体勢を直してあげた。  その時だった。暗がりの二等船室で、何者かが毛布が被さったサワコの足に蹴躓き、そのまま全体重を乗せて飛び込んできたのは。はじめの呻き声と、硬い物が割れるパキッという渇いた音が、静まり返った船室に響き渡る。 「なんだよこれ」  サワコの顔に肘を乗せ、苦悶の表情を浮かべている男が声をあげる。先程、はじめ達の近くで酒宴を開いていた若者グループの一人のようで、その大柄で筋肉質なシルエットがサワコの身体にぬっと圧し掛かっていた。  はじめは、床を蹴って男を身体をサワコの上から押し退けると、すぐにスマートフォンを取り出して明かりを灯し、サワコの顔を照らし出す。 「大丈夫!?」  闇の中に浮かび上がる寒気だったはじめと、無表情なサワコの顔。一目で、彼女の額に3センチほどの亀裂が入っているのが確認できた。その傷の奥に白いウレタンが、くっきりと見えてしまっている。 「なにしやがる」  と、酒臭い息を吐き、よろよろと立ち上がろうとした男に、間髪を入れずはじめは飛び掛っていくが、どんと両手で突き飛ばされて跳ね返されてしまう。 「殺してやる」  ちょうど手近にあった日本酒の空瓶を取って男に向かう。常軌を逸した剣幕に男は怯み、「落ち着けよ」「悪かった」などと宥めようとするが、逆上したはじめは聞く耳を持たず手に握った空き瓶を、躊躇いなく男に向かって振り下ろそうとする。 「待って! 待ってって!」  騒ぎを聞きつけて起きてきたバックパッカーの男が、はじめを後ろから羽交い絞めにして取り押さえると、同じく泥酔した男の仲間も起きてきて、はじめを取り囲んだ。 「やっぱり、こいつやべぇよ」  怯んだ男が仲間に声をかけると、その中でも長身の強面の男が「やっちゃう?」と周囲に同意を求めた。打ち付ける波、横殴りの雨、自然が生み出す圧倒的な轟音に囲われた暗室に怒気が充満し、異様な緊張感が走った。  騒ぎを聞きつけて、二等船室で眠っていた他の人々も一人、二人と身体を起こす。 「うるさいんだよ」  と、周囲にいた人々の中でも肝が据わっている人が声をあげるが、「離せよ。こいつサワコを傷つけたんだ! 頭に、同じように傷を負わせないと、平等じゃない!」と喚き続けるはじめの怒声を聞くと、声を潜めた。 「お互い冷静になりましょ。ほら、お兄さん達もせっかくの楽しい旅でケチつけたくないでしょ?」  バックパッカーの男は、手馴れた様子で男達に同情を示すような弱々しい笑顔を見せて、殺気だったその気持ちを受け流そうとする。それでいて「悪いのはあいつだって、俺は分かってるっすから」とはじめに耳打ちしながら、二等船室から連れ出していった。  人気のない食堂に、やはり打ち付ける波の音が響いている。白色灯に照らされた室内には、幾つもの四人掛けのテーブルと、既に閉店してカーテンが降ろされたカウンター。それにカップメンなどが売っている自販機があって、いつでも簡単なものが食べられるようになっていた。  はじめがテーブルに突っ伏して虚空を見つめていると、サワコとはじめの肩掛け鞄を担いでバックパッカーの男がやって来た。 「はい。これ荷物と彼女」  はじめの隣にサワコを座らせてから、向かいの席に腰を降ろす。 「落ち着いたっすか? あんなんで相手に怪我負わせちゃったら、彼女といられなくなるっすよ」 「……うん」 「いや、俺はああいうの嫌いじゃないっすけどね。真っ直ぐで」  はじめは、「面倒かけてごめん。ありがとう」とバックパッカーの男に掠れ声で言うと、サワコの額にかかった髪の毛を掻き揚げて、傷ついた箇所を見る。本物の人間と見間違うような作りをした表皮の奥にある、白いウレタンの中身が露出していて、物としてそこに存在する彼女の有様が曝け出てしまっている感があった。  青ざめた顔でその傷に恐る恐る触れるはじめを見て、バッグパッカーの男は、 「本当に好きなんすね。彼女――サワコさんのこと」  と言った。 「うん」 「でも……どうして人じゃないんすか?」  唐突ではあったけれど、率直な男の言葉の響きに嫌な感じは覚えなかった。だからはじめは、どうやって説明したものかとしばらく思案して、たどたどしく話を始めた。 「サワコと出会う少し前。僕は、大学生だったんだ。辞めちゃったけど。その時、同じゼミで、好きな人がいた。勝ち気で、気が強いけど、大らかな所もあって。飲み会ではいつも真ん中にいるような人だった」  スマホを取り出すと、一枚の写真を開く。遠目から、ズームアップで写した荒い画像。髪の短い女の写真で、その意志の強そうな女の面影はどこかサワコと似ている。 「かわいいっすね」 「趣味は読書で、意外と読むものが渋くて歴史小説が好きで。誕生日は八月十日で、自分で鳩の日なんて呼んでたよ。勉強熱心で、休みの日は、英会話教室なんて行ってたらしい。出身は神奈川で、桜木町の奥の方に実家がある。僕は、彼女の住んでいるマンションを突き止めて、ラブレターを投函した。親しくなれないまま大学も四年になってしまって。彼女に年上の彼氏がいるかもしれないって話も聞こえてきて。そうするしか方法がなかった。それにどこか彼女は、そういう異常な部分を許してくれそうな気がしたんだ」 「純愛じゃないすか。結果は?」 「週明けにそのラブレターの写真、SNSでゼミの人間中に渡ってた。僕は名実共にストーカーになって、結局そのまま大学を辞めたんだ。その時だよ、サワコと会ったのは」 「女なんて、他にも沢山いる――とは思えなかったんすか?」 「うん。それは愛情じゃない、と思う。愛は、かけがえのない唯一つのものなんだ。だけどそのままじゃ僕は、きっとその人を殺めてしまっていたから……」  言ってサワコの頬を撫でる。 「誰にも裏切られない。傷つけない。完璧な愛情が、彼女との生活にはあった。本質的ではない人達との関わり合いが大半を占めるこの世界で、混じり気のない繋がりを感じられた。そういう世界を突き詰めていくべきだと思って、全てを捨てて旅に出たけど……」  サワコの顔を撫でていた手が、ぴたりと傷口の辺りで止まる。 「でも、こうしてサワコの中身を見ると。とても幼稚な……周囲の人々が言う気持ちの悪いことをしてるんじゃないかって……」 「そんなことないすよ」  バックパッカーの男が、きっぱりとした口調で言う。 「美しいものとか、素晴らしいものとか。そういうのが、必ずしも人との繋がりの中にだけ転がってるわけじゃないと思うっす。ほら? 例えば、大阪の公園に太陽の塔ってあるじゃないすか。芸術が、爆発していた人が作ったモニュメント」 「うん。写真でしか見たことないけど」 「あれって、マジで大きいんすよ。近くで見るとこんな無駄なもんをよくもまぁ、なんて呆れる反面、人間ってすげぇな。とことん突っ走ると、こんなもんでっちあげちゃうんだなって感動したんすよね。ちょっと違うかな? でも、誰もいない場所まで行かないと、見えない景色や作れないものがあるんじゃないかなって、それで思って」  いつの間にか外で吹き荒れていた風が収まっていて、ぱらぱらとした雨音だけが、しばしの静寂を際立てる。  男の言葉を聞いたはじめは、噛み砕くように考え込んでから大きく頬を叩いて息を吐いた。 「ありがとう」 「こっちこそ。貴重な話、聞かせてくれてどもっす」  そうして男は、二等船室へと戻っていった。一人きり、誰もいない食堂で、はじめは、波の音に耳を澄ましながら、サワコと寄り添うようにして眠りに落ちた。  朝になってちらほら人が下に降りてきたので、はじめは、サワコを連れて食堂を出て、廊下に並べられた席へと移動した。雨は完全に治まっていて、窓の外には、穏やかに佇む大海と、柔らかな雲の隙間から注ぎ込む朝のひかりが見えた。 「海の上だと、雲が透き通って見えるね」  窓から差し込むひかりに縁取られたサワコの美しさに、頬を緩める。だけど、すぐに額のグロテスクな傷が目に留まって、はじめは顔を顰めた。 「ごめんね。落ち着いたら、すぐに治すから」  あまり寝付けなかったこともあり、仮眠を取ろうと目を閉じるが、周囲に満ちてきた人々のざわめきが気になって眠れない。スマートフォンで同じ人形愛好家のサイトなどをチェックしていると、船酔いにでもかかったのか気持ち悪くなってきて、水を飲んでは、トイレに行って胃液を吐いた。  そうこうしている内に昼過ぎになり、船は、徳島港に寄港した。閑散とした港の奥には、四国の丸い山並みが広がっていて、その上を無数の白い雲々が重なりあって青空を隠している。  外の空気を吸おうと、はじめが甲板に出て下船していく人々を眺めていると、昨晩、サワコに圧し掛かってきた男とその友達を見つけた。「うどん! うどん!」と陽気な声をあげながら、はしゃぎあって船を下りていく。 「君を傷つけられて。ずっとずっとバカにされて。俺は、本当に殺してしまおうと思ってたんだ。あの人達は、人間じゃないんだから。それを証明してやりたかった」  手摺りに寄りかかって立っているサワコの手を、改めて強く握り締める。 「やらなくて良かった。君と二人、やっとここまで来たのに」  船はしばらくして、徳島港をゆっくりと離れていった。大陸の上に傘のように覆いかぶさっている雲は、海の上までは顔を出して来ていなかったので、沖へ出ると強烈な日差しに船は包まれた。彼方に見える地平線の上には、その後もずっと雲が広がっていて、陸と海上と、まるで別々の空が、別々の世界が、分断されてそこにあるようだとはじめは感じた。  そして、午後になり日も微かに傾いてきた頃。  陸へと吹き付ける穏やかな風の中を進み続ける船の上、サワコは失踪した。  いつの間にか、机に突っ伏して眠り込んでいたはじめが顔を上げると、目の前にいたはずのサワコが消えている。深緑のタイルが一面に張られた廊下に落ちる、ほのかに赤みを帯び始めたひかりの中、カップルが一組、窓際でささやかな会話を交わしてはくすくすと笑みを零していた。 『彼女も僕に愛想を尽かして、どこかへ行ってしまったのではないだろうか』 『自らの半身にすら、裏切られる』 『何故なら僕は、捨てられ屋の父の血を継いでいるのだから』  呆然と辺りを見渡すはじめの脳裏にぽつんと浮かんで来たそれらの言葉を、打ち払うように勢いよく立ち上がる。 「すいません。ここにいた――そこに置いてあった人形を知りませんか?」  怪訝な顔で振り返った男は、はじめの必死な形相に驚き、咄嗟に愛想笑いを浮かべる。気分を害すると危ないタイプの人間だと判断したのだ。 「いや、俺達が来た時にはなかったけど」 「何時頃、ここに来られたかって分かりませんか?」 「三十分前くらい?」  礼を言ってはじめは、まず最上階の二等船室に上がっていった。徳島で大分人が降りていったからか、混み入っていた昨晩よりはカーペットの上にいる人は少なく、閑散としていた。  六分割された生活スペースを確認して歩くが、どこにもサワコはいない。 「どうしたんすか?」  奥で寝っ転がって大学ノートに何か書き込んでいたバックパッカーの男が、駆け込んできたはじめに気付いて、声を掛ける。 「眠っている間に、サワコが消えた」 「……盗まれたっすか?」 「分からない」 「手伝いますよ」  協力を申し出たバックパッカーの男と手分けして、船内を上から下まで探して回ることにした。  はじめはまず地下の駐車場に赴き、大量に駐められていたトラックや自家用車の中を一つ一つ注意深く覗き込みながら歩いて行く。コンクリートの床と、白い鉄壁に囲われた船体内部にある駐車場には、低いエンジン音が一定の感覚で響き続けていて、その音は、汗だくになってサワコの姿を探し回るはじめの心を、どこかざわめかせた。  軽トラックの荷台には父親の死体が、ワゴンの助手席には昔ストーカーをしていた好きだった女の子が、駐車場の隅にはメンソール煙草を咥えていた母親が、何故だか横たわっているような錯覚を覚えては、何もそこにはないことを確認して次を調べた。駐車場を隅々まで調べてから、デッキへと上がっていく。 「彼女は、消えない。絶対に消えない」  デッキ一階には食堂と別に、二等個室が並んだ居住スペースがある。はじめは、一つ一つ部屋の扉をノックをして、出てきた人に「すいません。間違って荷物が来ちゃったみたいで」と若干、苦しい言い訳をしながら部屋の中を調べていった。その内、それを怪しんだ人が、青い制服を纏った係員の女と警備員の男を呼び出した。 「大切な物、盗まれたかもしれないんです」  と制止する二人に言うと、「何を盗まれたんですか?」と聞かれる。  彼らの顔には、この旅で何度もはじめが目にしてきた訝しげで迷惑そうな表情が滲み出ていて、大切の人のことを話す気がなくなってしまう。はじめは、部屋の中を探るのは諦めて、通路やトイレ、二階に上がって娯楽室や休憩室などを一つ一つ調べていった。 「すいません」  と、突然、船内中央にある螺旋階段を上がっている所、声をかけられた。振り返ると、昨日、サワコに語りかけてきた老女の娘がいて、階段の下、その恰幅の良い身体をしゅんと縮こまらせて、困り顔ではじめを見上げていた。 「あの。昨日、あなたに話しかけたお婆さんを見なかったかしら?」 「見てないです」 「そう……。ちょっと目を離した隙にどこかに行っちゃったみたいで……」 「僕も人を探してるんで。見つけたらお伝えします」  それどころではないと焦りながらも、同じような境遇にいる人に同情心が湧いたのか、そう言ってはじめは、上の階へと向かった。  大きなテレビモニターが設置された休憩室で、家族連れから話を聞いていたバックパッカーの男がいたので、はじめは声を掛けたが、 「影も形もないっすね。サワコさん、目立つと思うんすけど」  と、情報すら得られていないようだった。  窓の外には、果てのない海。底の見えない暗い海の底へと、泡をこぼしながら沈んでいくサワコの姿を思わずはじめは連想してしまい、冷や汗が流れ出る。  例え世界中の人々に嫌われても、彼女は、隣にいてくれていると思っていた。だから彼女と旅に出たのに、それさえ失われたら生きている意味などない。そんなネガティブな思考に沈み込んでいたはじめは、思わず「死のうかな」と漏らしてしまう。 「いやいや、生きましょうよ! そういやさっき階段の所で、誰と話してたんすか?」 「……そうだ。昨日、サワコに話しかけてきたお婆ちゃん見なかった?」 「えっ? ちょっとボケてた感じの人っすか」 「うん。その人も、行方不明なんだって」 「船尾の甲板にいたっすよ。遠めに見た感じ、誰かと話してた趣だったっすけど」  無造作に口に出されたその言葉に、はじめが怪訝な顔を示す。 「誰と話してたんだろ。娘さんと離れ離れで」  そうはじめが返した所で、二人は顔を見合わせて、確信めいた予感を胸にそのまま階段を駆け下りていった。  強烈な夕焼けの日差しを受けて、甲板を駆けていく二人の影が長く伸びる。海を挟んで遠くに見える、四国の波打つような山々の陰に、赤い日が落ちようとしていた。 「いた」  船の後方に、端に救命艇が取り付けられた70メートル程の露天甲板がある。救命艇の影もまた長く伸び、奥のベンチに腰掛けた老婆とサワコが、茜色のひかりの中、シルエットとなってそこに佇んでいた。  静まり返った夕凪ぎの海に、音一つ立てず滞留した大気。時が止まったようなその時に、しわがれた声が聞こえてくる。 「あら。頭、怪我してるじゃない。あなた、本当におっちょこちょいなんだから」  影絵めいた風情で、何やら優しげな口調で話しかけている老婆の姿を、目を眇めて二人は見つめる。老婆は手元にある可愛らしいマスコットキャラクターが描かれたポーチから、絆創膏を取り出して、すっとサワコの額の傷を塞いだ。 「おうちに帰ったら、まぁちゃんの大好きなブリ大根、作ってあげるからね」  無表情で彼方を見るサワコに、老婆は微笑み語りかけて、時折まぁちゃんの声が聞こえているかのように何度も頷いた。  影となった老婆の顔から、突き抜けた明るさが見て取れた。 「きれいだな」  哀れんだ様子で老婆を見やるバックパッカーの男の隣、はじめが呟いた。 「きれいっすか?」 「勘違いしてた」  はじめは、沈み行く赤い眩さの中にいる老婆を、瞬きもせずにじっと見つめていた。瞳は、すっかり潤んでいて、どこか切羽詰った調子で掠れた声を捻り出す。 「覚悟が足りてなかったんだ。僕は……そう。あんな風に美しく、狂わなきゃならなかった」 「中学校に入ったら、ママにお洋服を買ってくれるの? ありがとうねぇ、まぁちゃんはは優しかねぇ」  煙突から吐き出された黒煙が、夕焼けの空にたなびいている。  二人は、日が落ちるまで老婆とまぁちゃんのやりとりを眺めていた。まぁちゃんは、とても気遣いのできる人のようで、陸の方から強い風が吹き付けてくると「体が冷えるから、中へ入りましょう」などと声をかけているようだった。 「そうね。もう行かんとね」 「おばあちゃん。彼女は、僕の大切な人なんだ。返してくれる?」  立ち上がった老婆を脅かさないように、微笑みを浮かべてはじめが声をかけると、老婆は大きく首を横に振った。 「必ず幸せにするから。お願いします」  途中、泣きじゃくってヒステリーを起こした老婆に「人さらい!」と罵られながらも、はじめは、辛抱強く交渉してサワコをなんとか取り戻した。最後に、やってきた娘(どうやら老婆は、娘と認識できていなかったようだけれども)に連れられて行くその背を見送って、深く深く頭を下げた。  スクリューに巻かれて生まれた無数の白い水泡が、船の尾から伸びていき、暗がりの海に線を引く。低いエンジン音を響かせて、水平線の先を目指して船は進んでいった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!