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無垢なる世界
明日の朝には、船は目的地である北門司港に到着する。
別れの前にと、はじめとバックパッカーの男は、サワコを間に置いて宴会を催すことにした。船旅も二日目の終わりに近づき、すっかり座り慣れた食堂脇の廊下の席で、自動販売機で買ったスナック菓子をつまみに、ビールを呷る。
「でも例えば、誰にも理解されないとするじゃないですか。サワコさんへの愛を。それって寂しくないっすか? そういうのをちゃんと伝えたいとか思わないんすか?」
やたらと質問を繰り返す男に、一つ一つ丁寧に考えて、はじめは答える。
「伝わるようにするってことは、相手のために形を変えるってことじゃない? 少なくとも、僕が仕事をしてる時はそうだった。相手の望む形や、世の中が必要としている形に変えて、それを出す。それで納得してもらう。最初に考えていた思惑なんて、欠片も残らないこともある。それじゃ僕らの愛が、歪んでしまう。そういうものがなかったから……誰かに媚びるでもなく、惑わされることもなく、生きていたからこそ彼女は美しかったんだと思う。夕焼けのひかりに照らされた、影そのものだったんだ」
「そっかぁ。そこまで行くと、俺にはついていけない世界っすねぇ」
「でも、そういう場所でしか安住できない人っているんだ。閉ざされた世界にいないと、傷だらけになってしまったり、誰かを傷つけてしまう人って、いるんだ。僕のお父さんも、多分そういうタイプの人だった」
窓の彼方に広がる黒一色の世界。船は陸から離れ、海原のただ中を進んでいるらしい。
「うーん、やっぱりちょっと寂しいっすね」
「寂しい、か。もしかしたら……僕の背中を引っ張り続けていた感情って、案外そんなものなのかもしれない。でももう寂しさを、恐れたくないな」
「寂しさを恐れない、っすか。でも、その寂しさが、はじめさんをこうやって意思疎通が可能な場所に、引き止めててくれたってことなんすよね?」
「そうかもしれない。それでも……行かなきゃ。ねっ、サワコ」
はじめは、サワコの頭を撫でて微笑みかける。二人の間に微動だにせず佇んでいたサワコは、語り合う二人の男を、静かに見守っているようでもあった。
男は、時たま大学ノートを取り出しては何かを記入したりしていたけれど、はじめは、別に気にすることもなく話を続けた。分かり合うでもなし、だけれど否定するわけだけでもない会話が心地良く、結局二人は、日を跨ぐまで語り合ってから、床に就いた。
朝もやに頭を隠した山々の麓、立ち並んだ家々、陸からL字に突き出た人工島に点在する倉庫郡。海のただ中にあった周囲の景色は、徐々に人の気配を帯びてきて、そのまま船は北門司港にゆっくりと入港し、錨を下ろした。
はじめが甲板に出ると、ちょうど昨日の老婆に出くわした。
「東京のおうちに帰る!」
甲高い声で騒ぎ立てる老婆が、娘に手を引かれて船内地下の駐車場へと降りていくのを見送ってから、船を下りた。
港の待合いビルの出口で、近くの駅まで送り届けてくれるという乗り合いタクシーに近づいていくと、運転手に呼び止められた。
「それ後ろに積み込めないし。席も人数いっぱいなんだよねぇ」
タクシーの中には、既に四人の男達が乗っていて、サワコを座らせる余裕は確かになさそうだった。やはり皆一様に、はじめとサワコに迷惑そうな、奇異なものを見るような視線を投げかけて、成り行きを見守っている。
昨晩買った、400円の乗り合いタクシーのチケットを見せて何か言おうとするが、思いとどまり息を吐く。
「じゃあ歩いていきます」
「遠いよ」
サワコを背負うために肩に取り付けたバンドをしっかり首下まで上げて、言葉も返さず船着場を出て行った。閑散とした海沿いの道を歩いていると、夏の訪れを感じさせる強い朝日が、雲を溶かして差し込んできて、二人の足元に濃い影を作る。
河口の手前に掛かった橋を渡ろうとした所で、突然、クラクションが背後から鳴った。
「どうしたんすか?」
振り返ると、黒光りするサベージ400に跨った、バックパッカーの男がいる。細長く、贅肉のないスマートなバイクのフォルムが、妙にバックパッカーの男の自由な雰囲気に似合っていた。
「タクシーで、また揉めちゃって」
「大変すね。なら後ろ、乗っていってくださいよ」
「サワコも一緒だよ?」
「法的には、3ケツにならないっすよね。だから大丈夫」
さっきまで強張っていたはじめの表情が、ふっとほぐれる。
「……ありがとう」
頭を深々と下げて、サベージの後部座席に乗ろうとした所、はじめが「あっ」と小さく声をあげて、ズボンからスマートフォンを取り出した。大量の着信履歴が残っていて、どうやら何度も何度も勤めていた会社から電話が掛かってきていたようだった。他にも叔母からの着信が入っている。大学時代に出会った初恋の人の写真を開き、神妙な面持ちでそれを見て、思い切り振りかぶる。
「そうだ。番号の交換……」
男がその言葉を言い切る前に、はじめは、そのままスマートフォンを力一杯、海へと放り投げた。緩やかな弧を描いた後、きらきらと朝日を反射する水面に、波紋を一つ作ってそれは確かに海底へと消えていく。
「投げた?」
「うん、捨てたんだ」
それだけ言うと、サワコを背負ったままはじめは、サベージの後部座席に腰を下ろした。
「行こう」
男にはじめ、それにサワコ。三人を乗せた軽やかな細身の機体は、大きな排気音を鳴らし、山間の道を走り抜けていった。突き抜けた青空に、肌を撫でる向かい風。思わずはじめは「ヤァー!」と柄にもなく気持ち良さそうに大声をあげて、男を驚かせた。
男と別れて、人々の視線に晒されながらも電車を乗り継ぎ、木造建ての寂れた駅にはじめが降りた頃には、もう辺りは暗くなっていた。そこから最終バスに乗り込んで、父の故郷の町へと向かう。
松林に囲まれた暗がりの山道を、ヘッドライトの丸い明かりだけを頼りに進んでいく。しばらくするとバスの静かな駆動音と、風に揺れる葉のさざめきに混じって、遠巻きに波の音が聞こえてきたので、はじめは「もうすぐだね」と呟き、サワコの肩を抱いた。
山を抜けると、広大な海が姿を現し、その中にぽつりぽつりと集魚灯を灯した漁船の群れが見えてくる。墨汁のように真っ黒な海の上を、揺らめき進むその漁火は幻想的で、どこかこの世のものではないような感じをはじめに与えた。
そしてバスが大きなカーブを曲がりきると、小高い丘の先に目的地である町の全貌が広がって見えた。その輪郭は闇夜に隠れて掴みにくいけれども、高い山々に囲まれ、漁港から放射状に広がるそれは、町と呼ぶより漁村と呼んだほうが正しく思えるような小さなもので、中段に並び立つ古びた家々の背後には、ちらほらと畑が点在している。
「この景色の中に、父が残した家があるんだ。きっとそれが僕達の本当の家だ」
港手前の終着駅で、サワコを背負いバスを降りると、強い海風に運ばれてきた潮の匂いが鼻腔をくすぐった。
コの字型の漁港に身を寄せる錆び付いた幾つもの船と、赤いペンキがすっかり剥げ落ちたコンクリート造りの市場。防波堤の向こうには、小さな灯を点けた白い灯台があって、今やすっかり茶ばんでしまったその身を自ら晒している。
プリントアウトしてきた地図を頼りに、木造建ての家々の間にある細い坂道を登っていくが、道は迷路のように入り組んでいて、すぐに現在地がどこだか分からなくなってしまった。周囲を取り囲む板張りの外壁は皆、日に焼けて色褪せていて、道には所狭しと漁具が置かれている。道に迷い、何度も何度も同じ道をぐるぐると行き来きしていても誰と出会うこともなく、道を尋ねることもできなかった。
「なんだか人のいない、別の世界に迷い込んだみたいじゃない?」
楽しげに笑って月明かりに浮かび上がる彼女を見やると、「私がいるでしょう」と返してくれた気がした。
「そうだね」
崩れかけた井戸が設けられた小さな広場の脇に、山の方へと向かう細い道を見つけたので入っていった。小さな家々がひしめいていた一角を抜けると、段々畑に咲く菜の花が、薄暗い山の景色の中にひっそりと揺れている。はじめは、段々畑脇のきつい傾斜の坂道を黙々と登っていった。
段丘の上、息を潜めた漁村を見下ろすようにその二階建ての家はあった。
ぼうぼうに生い茂った草々を踏みしめて庭を進み、家に入ろうとするが、荒れ果てた家の戸は歪んでいて、中々開かない。全身の体重をかけて戸をこじ開けて、なんとか中に入っていったものの、動物にでも荒らされたのか棚にあったものが全て床に散乱していて、壁も穴だらけ。酷い有様だった。
「こりゃ凄いな」
電灯のスイッチを入れるが、やはり電気が通ってないのか明かりは点かなかった。
山の木々を揺らし、唸り声のような音を鳴らして吹く風に、廃屋寸前の家が大きく震えた。はじめは、びくりと体を振るわせて不安げな顔を見せたが、今一度、サワコのシリコン皮質に覆われた手を強く握って、気を奮い起こした。
「壁を塞いで、床を直して。なにもかも……いつか完璧な形にしてみせるから。大丈夫だよサワコ」
一階は、どの部屋も荒れ果ててしまっていたのだけれど、幸いなことに二階の寝室はほぼ手付かずのまま残っていた。流石に布団は、押入れの中でどれも黒くカビていて使い物にならなかったけれど、畳の埃を掃ったら横になることくらいはできた。
流れていった雲の陰から顔を出した満月の明かりが、網戸越しに差し込んできて、ささくれ立った畳の上で、見詰め合うようにして寝転った彼らを照らす。
「君の存在を愛してる。他の誰かの、何かの代わりでもなく。心から」
サワコの髪を掻き揚げると見える、老婆が残した絆創膏。デフォルメされた兎のキャラクターがプリントされている。
「結婚しよう」
はじめは、東京で買っておいた指輪をその細い薬指に嵌めた。鞄からはじめとサワコの名前が記された婚姻届を取り出すと、彼女の指先に朱肉を当てて、印を残した。
「これで僕ら、夫婦だ。永遠に、裏切りを犯さず、愛し合うんだ」
それから汗ばんだ手でサワコの服をそっと脱がして、丹念に丹念に愛撫をしてから一つになった。はじめの吐く荒い息や喘ぎ声が、港周辺の人家と離れた高台の家から、朝方まで漏れ聞こえてきた。
「広内隆盛って覚えといてよ。必ず小説、ものにして見せるっすから」
赤いソファーに腰掛け、上半身を剥き出しにした女の胸を揉みながら、あの長髪のバックパッカーの男――広内隆盛が、得意気に話している。
「おっぱいめっちゃでっかいっすね」
薄暗い照明に照らされたお触りパブの店内では、何人もの女達が同じようにその身体を酔っぱらった男達に向けて差し出していた。
「どういう小説を書くと?」
女が、隆盛の空いたグラスに焼酎を注ぎながら、男の虚栄心を満たしてやろうと興味深げに聞く振りをすると、隆盛は、やはりあらわになった女の胸を揉みしだきながら、満面の笑みを浮かべて話し始めた。
「暇を見つけては日本中、旅して面白そうなもん探してるんすけど。最近、変なのがいたんすよ。ダッチワイフを背負って、旅してる兄ちゃん。それでその人、船の中でその彼女を守るために、ヤバそうな奴らと喧嘩までおっぱじめちゃって」
「へぇ、頭おかしかとねぇ」
「だけどすっごい真っ直ぐでさ。俺は変わり者だぞーって、声をあげてアピールしてるような奴とはちょっと違ったんだ。そのダッチワイフを心から必要としていて、その結果として周囲に変な目で見られてただけって言うか」
「よく分からんけど。でも、お人形さんで一人オナニーしてるだけじゃなかと?」
「言っちゃえばそうだけど。でも例えば突き詰めたオナニーや嘆きの先に、芸術的価値がある絵や、ニッチな人達の欲望を満たす詩や小説が生まれたりもするじゃないすか。極稀に。時代や他人の顔色を伺わないからこそ、輝くものが」
「例えば?」
「万博公園の太陽の塔とか?」
「太陽の塔、見たことある。すっごいでかかとねアレ」
「まぁ、そこまでオーバーじゃなくてもさ。本当にそれで幸せになれるなら、何か大きなものを求めて、失敗したり妥協したりして、絶望するよりもいいんじゃないかなって思ったりしたんすよ」
「それで、そういう小説を書くと?」
「そうだなぁ……。いや、やっぱり書かないっすかね」
言って隆盛は、女の胸に赤子のようにむしゃぶりついた。
「やっぱ俺には、こいつが必要だから。柔らかいっすねぇ」
「あ、もうそろそろ時間だけど、延長すると?」
隆盛は、財布の中身を確認して、従順な子犬のように女の顔を見上げて頷いた。
「うん。するっす」
そして、再び女の胸を揉みしだきながら、旅して出会った人々のことを語り続けた。
雲ひとつない青空の下、庭に咲き乱れた桔梗の陰に隠れた子供達の八つの目が、高台の家を監視していた。穏やかな波の音にかき消されてしまうようなひそひそ声で、何かずっと話し込んでいる。
「間違いなか?」
「ほんなことてじゃって! わし、あのふうけもんがこの家入っていくのみたもん」
一番、身体が大きな少年に問われて、背丈の小さいいがぐり頭の子が興奮した面持ちで答える。
「それじゃ、ドモ。早く中に行って、見て来いや」
ドモと呼ばれたひび割れた丸眼鏡をかけた子供が、大きく首を振ってそれを否定する。
「だっ、あの家の奴……子供さらったって、えっと、そっのまま……蝋で固めて、にっ、人形にするって、えっと、かあさん言ってたもん? だっ……えっと、近づいたらいけんて。そんな、いやや。僕まだっ……死にたかなっ」
つっかえつっかえ必死に言葉を紡いでいたドモを、身体の大きな少年が思い切り突き飛ばす。倒れ込み、土塗れになったドモを、バカにしたような笑みを浮かべて周りの少年達が見下ろした。
「逆らうなや!」
脅しつけるその低い声に押されて、ドモが重たい足取りで軒下まで歩いていくと、庭に置かれた物干し竿に、肌色に塗られた筒状の物体が吊るされているのを見かけた。ちょうどリレーのバトン程の大きさのそれは、風に揺られてくるくると回っている。いまいち使用用途は分からなかったけれど、筒の真ん中に空いた奇妙なびらびらをまとった亀裂を見て、何かしらの良からぬものであろうとドモは直感した。
濡れ縁に手を掛け、庭に向かって設けられた大きな窓から恐る恐る家の中を覗き込んだ。薄いレースのカーテン越しに見えるこざっぱりとしたリビング。必要最低限の家具しか置かれていない部屋の奥に、椅子に腰掛け、白いワンピースを羽織った女の人がいた。あちらを向いていて顔は見えないけれど、身動き一つしないその姿は、生きながらにして蝋で固められた人間、という母が話した恐ろしいイメージをドモに連想させた。
「なにしてるの?」
びくりと身体を震わせて振り返ると、そこにポロシャツにジーパンといったラフな出で立ちをした長身の男――はじめがいた。枝切りバサミを持って、汗だくになったその姿を見て、ドモは小さく声をあげる。救いを求めて遠巻きにいた友達の方を見るが、みんな既に逃げ去っていた。
「ぼっ……そのっ……家に……入って……殺さっ……」
緊張からか余計にたどたどしくなった少年の言葉を、はじめは、しっかり聞き取ろうと屈み込んで耳を傾ける。しかし、少年は目前に迫った男の無表情な顔に、余計に怯えてしまい、目じりを涙で濡らしたまま言葉を失ってしまう。
「汚れてるよ」
はじめは、土埃に塗れた少年の服を軽く払うと、
「気にしないでいいよ。君も、頑張りなよ」
と声をかけて、庭の奥へと引っ込んでいった。どうやら庭木の手入れをしていたようで、ぱちんぱちんと枝を切る音が聞こえてくる。
山の中腹にある古ぼけた神社に見守られた、小さな漁村。
人家の集まった一群から離れ、最も神の社の近くにあるその庭で、ドモは、混ざり気のないはじめの笑みに虚を突かれしばらく呆然と立ち尽くしていた。
はじめが海辺の漁村に居を移してから、季節が一巡りして新たな夏が訪れた。
庭を埋め尽くしていた雑草は刈り取られ、今や桔梗や朝顔などの花々が咲き渡っている。庭の片隅に置かれた、買ったばかりの赤い自転車の後部座席にサワコを乗せて、はじめは家前の坂道を下りて行く。
段々畑で作物の手入れをする人々は、彼らが見せる異様な姿に慣れてしまったのか通り過ぎていく二人を特に気にするでもなく農作業を続けていた。
立ち漕ぎになってスピードを速めると、サワコの身体が勢いに流され後ろに大きく仰け反ったが、はじめの腰に絡みつき組まれた手が支えとなって、振り落ちてしまうことはなさそうだった。
坂下に広がる古びた家々と港の向こうには、夏の強烈な日差しを照り返す海のきらめきと、沖合いに浮かぶ小島が黒い影となってぽつんと佇んでいた。はじめとサワコは、その眩い景色に飛び込んでいくかのように、颯爽と急な坂道を駆け抜けていった。
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