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 取り付けられた予定は、その週の日曜日だった。  どういう偶然だったか、絵美もちょうどその週の日曜日だけはアルバイトを休みにしていたようで、他に休日は時間を作れないということで、急ではあったが日曜日になった。  凡人は、意外と忙しい。 「わざわざお迎えありがとう」 「だって師走さんは僕の家知らないでしょ。その荷物持とうか?」 「気持ち悪い触るな」 「はい……」  約束の時間よりも十分程度早く葉月の家の最寄り駅につくと、そこには既に葉月が待っている様子だった。  ここで早めについて葉月を待って嫌味の一つや二つぶつけてやろうと思っていたのだが、まさか十分以上前に葉月が待っているとは思わず、絵美は思わず肩を竦めた。  やはり彼も業界人だということもあってか、その辺はしっかりしている様子だ。  (つまんないの)  ぼんやりとそんなことを思いながら先を歩く葉月についていくと、葉月は顔出しNGな芸術家というわけではないので、天才画家として非常に視線を集めていた。  それが絵美にとっては、非常に居心地が悪い。 「ねえ」 「ん? 師走さんから話しかけてくるの珍しいね。何かあった?」 「……」  これ以上喋るのやめようかな、と絵美が口を噤むと、葉月はしばらく間を置いてから「冗談だよ」と苦笑する。  (相変わらず、手厳しいなあ) 「貴方はいつも、こんなに人の目を浴びて歩いているの?」 「うん、まあこんなもんかな。でもこんなもんじゃない? それに、ここは僕の最寄り駅だからだいぶマシなほう」 「……そう」  天才というのも、考え物だ。  普段から誰かの目を集めて生きることのない絵美にとってはなかなか気持ちの悪い視線ではあったが、これに慣れている目の前の飄々とした男に苛立ちを覚える。  天才だから、慣れている。  天才だから、当たり前のこと。  天才だから、仕方がないこと。  (やっぱり、嫌いだわ)  家の門の前まで来たところで、今まで葉月の話に適当な相槌を打っていた絵美の足が思わず止まってしまう。  どころか、後ずさってしまう。  それこそ漫画やアニメやドラマでしか見たことのないような平屋の大豪邸で、そこから少し離れた場所にある一軒家か、もしくはそれ以上の大きさを誇る建物は恐らく、アトリエと見て間違いがないだろう。  そもそも、この家の周りには他の建物がなく、ここに来るまでにも少し入り組んだ、この時代の、それも都心の街にしては珍しい舗装されていない道も通ってきた。  駅からも三十分以上歩いたような気もするし、自転車や車が通るにしては危険な道だ。恐らく、葉月は学校に行くまでに朝からこの距離を歩いているのかもしれない。  和洋折衷の大きな家を目の前にして、ここから先に進むという勇気が、一般人であり凡人の絵美にはどうしても出せなかった。  (普通の家ですら嫌だと、言ったのに……!) 「どうしたの? 師走さん」 「やっぱり帰るわ。いいえ、帰らせてください」 「ええ!? ここまで来たんだから入ってよ! ていうかここから駅まで行ける? しかも道も結構危ないしさ……」 「記憶力は良いの。それからご心配どうもありがとう、天才からの心配なんてなくても、私は一人で帰れるわ」 「待って待って待って待って!」 「お母さまによろしくとお伝えして頂戴。これ、つまらないものだけれどお茶菓子なの。お口にあうか分からないけれど召し上がってくださいとお伝えして。きっとお口に合わないでしょうけれど、レシートも付けておくから返品しておいて頂戴」 「待ってってば!」  紙袋の手土産を葉月に押し付けて絵美は来た道を返そうとしていると、葉月は手土産を受け取ることなく絵美の細い腕を掴んで帰ろうとするのを阻止する。  意外と女子の力が強いことに葉月が驚いていると(この際彼は自分が非力であるということを全く考慮していないわけだが)、遠い玄関の方から「どちらさま?」と低い男性の声が聞こえてくる。 「あ……お、お父さん」  葉月から出てきた単語に絵美はビクッとして急いで帰ろうとしていた足を葉月の家の方に向けると、こちらに向かってくる弥生の姿に思わず息を殺す。  ──本物の、天才。  絵美の頭の中に浮かんだのはそんな言葉だった。  男性……画集弥生は絵の具のところどころついた紺色の作務衣を着用していたことから、つい先ほどまで作業をしていたのだと考えられる。  歩く姿だけで、持つ風格が違う。  オーラのある人間というのを、初めて目の当たりにした絵美は、動くことが出来なければ息をすることさえも忘れていた。 「おや……葉月、彼女が師走さん?」 「あ、うん、そう!」 「ぁ……し、師走絵美、です。……あ、こ、これ、つまらないものですが」  若干声が震えてしまったが、絵美はぺこぺことしながら恐る恐る今まで葉月に押し付けていたはずの紙袋を弥生に手渡す。  弥生はそれを受け取ると、少し目を細めてから「わざわざ申し訳ないね、ありがとう」と小さく微笑んだ。 「師走さん、獣道をわざわざ歩いてきたのに外になんか居ないで、拙宅ですが上がっていってください。家内もお待ちしております」 「は……いぃ……」  思わず声がか細くなってしまいながら、引き攣った愛想笑いを浮かべながら、絵美はぎこちなく頷く。  絵美は、今にも死にそうな思いだった。 「師走さんって女の子だったのね! てっきり男の子だと思ってたわ~。あっ、こんなこと言ったら失礼よね、ごめんなさい! いつもはーくん……葉月と仲良くしてくれてありがとうね、この子ったら変なところ冷めてるっていうか……今日という今日まで全然お友達を呼んできてくれないから、師走さんが来てくれてとっても嬉しいわ。それにお茶菓子まで! 教育の行き届いてるおうちなのねぇ、私も見習わなくっちゃ!」 「そ、そんな、とんでもないです……」 「皐月、そう一度に話しかけてしまったら師走さんが困ってしまうよ。それに、葉月のお友達なんだから、私たちが出しゃばるべきではないよ」 「あ! ごめんなさい、私たちとってもうれしくて! ねえ、弥生さん? あ、それじゃあ、私たちはお仕事に戻るから、何かあったら呼んで頂戴ね。ごゆっくり!」  皐月がそう言ってリビングから出て行くと、思わず絵美の口からは盛大なため息がこぼれる。 「元気なお母さまね」  絵美が何の気なしにそんなことを言うと、目の前の葉月は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべて頬をかいた。  今まで家に友達を呼んだことがないのは紛れもない事実だが、だからと言ってあそこまで母が喜ぶとは思っていなかったのだ。  もう少しちゃんと友達作りというものをしておけばよかったという気持ちもなくはないが、いずれにしても、今日ここに来てくれた絵美には感謝するしかない。 「ええと……折角来たんだし、何かする? と言っても、何も面白いものはないんだけど……」  ここで帰られるわけにはいかない。  あの気分が完全に良くなっている母親の様子を見ている限り、おそらく絵美の分の夕飯を作っているかもしれないし、絵美の方だってあの様子の皐月を見て流石に「じゃあ帰るわね」とは言い出せないだろう。  何もせずにリビングで時間を潰すわけにもいかないのだが、生憎この家には娯楽と呼べるようなものは殆ど無い。  テレビもあるにはあるし、見ないことはないのだが、特に決まってみるようなものが無いこともあり、付けることは殆ど無い。  もちろん、テレビゲームなんてそんな気の利いたものが置いてあるわけでもなく、一人っ子だということも重なり幼少期から一人でいることの多かった葉月にカードゲームやボードゲームなんて言う友達と遊べるようなものは何一つ手元にはない。  とはいえ、仮にそれらがあったとしても、絵美はテレビゲームもカードゲームもボードゲームも乗り気でやるような人物ではなさそうだが。  気まぐれで習ったピアノだったりギターだったりはあるかもしれないが、正直、遊ぶ道具ではない。 「お気になさらず。リビングに飾られている絵画でも見て時間を潰すわ」 「……楽しい? それ」 「ま、天才の絵がこんなに間近で見ることができる機会も早々ないでしょうし、それに、絵が好きでもなければ美術部なんて入らないわよ。十分楽しいわ」 「ああそう……? 楽しいなら別に僕から言うことはないんだけど」  そう言いながら絵美は皐月の用意した紅茶に口をつけながら、広い壁に飾られた一枚の絵をまじまじと見つめる。  これは弥生が大学生の頃に描いた、つまりはデビュー作とも呼ばれている「宝」という題名の作品だが、中心の赤い薔薇、それを包む白百合の花は、まるで母子を描いているようである。  恐らく水彩絵の具で描いているのだろうが、青い空に白い雲がぼかしのように上から透き通った色で描かれている。  いくら水彩絵の具で描かれていようとも、この表現力というのもまた常人には難しい技術であるように思える。  とはいえ、「宝」という題名のついているこの作品は母子を描いているように見えることは間違いないのだろうが、これを描いたときの弥生というのはまだ大学生の頃の話で、これを子を思って描きました、ということで葉月生まれた後にでもこの作品を表に出すのであればまだしも、弥生が皐月と出会って間もないような時期にこの作品を外に出しているのを考えると、いささか謎が残るというのも事実だ。  まるでこうなることを見越したような、なんともいえない違和感が残る作品でもある。  もちろん、子どもは世の宝という風に言われることもあるけれど、葉月としては、一人の息子としては、弥生がそんな大きなことを思ってこの作品を描いたようには見えない。  喜怒哀楽という色を見せることが少ない彼の作品の中で、唯一温もりを感じる絵画なのだが、そこにも違和感を覚える。 「……師走さん的に見て、この作品はどうなの? やっぱり、僕のと違う?」 「ええ、そうね」  まさかの即答だった。  少しは考えたり悩んだりする素振りを見せるんじゃないかと思っていたが、ここまではっきりと即答されてしまうとさすがの葉月でも落ち込んでしまいそうだ。  絵美が葉月に対して辺りが強いのは今に始まったことではないが、そりゃ確かに慣れてもいるが、傷つかないとは一言も言っていない。 「理屈なんかじゃ説明できないの」 「ふぅん?」 「貴方の作品から出てくる粗ってものは、完全に“粗”でしかないの。それも、言葉で説明できてしまうものばっかり。でも、不思議ね。……粗まで、作品の一部にしてるんだもの」 「お父さんの絵でも、粗はあるんだ?」 「……まあ、私が勝手に粗なんじゃないかって思ってるだけで、それこそ完成したもので、わざと組み込んでいるものなのかもしれないけれど……表現としては、組み込んでいるというか……わざと空間を作っている?」 「ほんと、すごいなぁ」 「もしかしたら、そんな単純なものでもないのでしょうけれど。何かもっと深い、別のところにつながるような意図があるのかもしれないし。まあ、適当な凡人なりの上から目線をかました考察よ。そんな大したものでもないし、あてにしないでちょうだい」  紅茶を飲みながら考察する絵美の姿に、葉月からは思わず感嘆の声が漏れる。  (家族の僕ですらそんなこと考えて見たことなかったな……。ああいや、僕がお父さんの……画集弥生の家族だからこそ、なのかな)  彼女は天才嫌いの天才に対する批判家だとは思っていたけれど、ここまでしっかりと考察ができているのは、それこそプロの作品にまで文句をつけるところを探すことができている時点で、やはり自分とは視点は違うのだと改めて思った。  そんなことを本人に言ったらきっと、いつもの嫌味と皮肉をたっぷり込めた刺々しい言葉で詰られてしまうのだろうけれど。  自分とも、周りとも、やはり違う。 「気を悪くしたらごめんなさい。世に出たのが画集弥生が大学生の頃だというのは引っかかるところではあるけれど……きっとこれって貴方とお母さまの絵でしょう? 彼の作品の中でこんなに温もりがあるもの、私はこれ以外に知らないもの」 「え、お父さんの絵を他にも知ってるの?」 「ふざけてる? これでも私はちゃんと絵を勉強してきたの。知ってるに決まってるでしょう」 「はは、そっか、そうだよね」  僕に駄目だしするくらいだもんね。  思わず葉月が口を滑らせると、絵美の紅茶を飲もうとしていた手がピタリと止まった。  (しまった)  恐る恐る絵美の表情を確認しようと目をそちらへと向けると、ここが人様の家だということを加味した上で何かを堪えているような表情を見せていたが、気持ちを落ち着けるように紅茶に口をつけて、喉を上下に動かす。 「それは、嫌味?」  色々言いたい気持ちを堪えているだろう絵美の口から絞り出されたか細いいつもの皮肉に、葉月はやってしまった、と眉をひそめる。 「ごめん。そんなつもりじゃなかった」  葉月が言う。 「ごめんね。師走さん」  葉月は重ねて謝る。 「天才なのに、ごめん」  いろんな言葉を飲み込んだ絵美が何を言いたかったのか、葉月には分かってしまった。 「夕飯まで頂いてしまってすみません。ありがとうございました」 「うん、またいつでもうちにいらしてね」 「ええ、また近いうちに」  夜も更け、葉月は絵美を最寄りの駅まで送ることにした。  あれから殆ど会話は無かったが、葉月が何かを話せばそっけなく受け答えはしてくれていたのが唯一の幸いだった。  ここで完全に無視をされていたら、確実に葉月は絵美に対する負の感情を隠せなかったように思うし、少なくとも、皐月や弥生の前では親しい振りを継続してくれていた。  きっと、弥生にはバレてしまっていたかもしれないけれど、それでも、弥生は知らないふりをしてくれていたから。 「師走さん、あのさ……」 「貴方のお母さまは」 「え」 「貴方のお母さまはとても素敵な人ね」 「え? あ、ありがとう……?」  (いきなり、なに? ……こわ)  絵美が誰かを褒めるなんてことはそれこそ月人相手にしか見たことが無いのだが、ここではっきりと言われてしまうのもなんだか気味が悪い。  (僕がそわそわしてたのってなんの気遣いだったの? あんだけ無言の圧かけといて?) 「仕方ないから、お母さまがまたお友達の話題を出したときは私の名前を出すことを許してあげましょう。あんな素敵な方に、心配をかけるものではないわ」 「??」 「会話のある家庭なんだから、大事にしなさい」  絵美はそう言うと、肩の力が抜けたのか思いっきり伸びをしながら舗装されていない道を歩く。  深呼吸をしながら突き進んでいく道は来た道をそのまま引き返しているようで、彼女の自称していた記憶力というものは本当のものらしい。 「怒って、無いの?」  葉月は恐る恐るそんなことを尋ねると、絵美はくるりと振り返って葉月のことを目を細めながら品定めでもするかのようにじっと見つめる。  今まで絵美にこうしてまじまじと見つめることは何度かあったが、改めてこうして熱視線を浴びるというものはなんとなく恥ずかしい。 「そうね、怒っていたわ」 「怒っていた?」 「貴方の自分が天才だと優越を理解した上での発言も頭に来たし、天才だという肩書があるにも関わらず、それを良いものにして学ぼうとしない怠惰の姿勢。それから」  絵美の言葉はそこで止まってしまった。  いつものように詰るならさっさと詰ってほしい。 「それから、貴方はやはり天才なんだと、悔しくなったわ」
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