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「ただいま帰りましたぁ」
ドラマでしか見ることのなさそうな平屋の大きな門をくぐって葉月が帰宅すると、家の渡り廊下を挟んだ場所にあるアトリエの方から何かが落ちるような音が聞こえてくる。
葉月は驚いて肩を震わせたが、すぐにアトリエの方へ向かって行く。
「どうした!?」
勢いよく数あるアトリエの中から彫刻室と彫られた扉を葉月が開けると、そこには横になりながら見たことのない石膏像を抱きしめた葉月の母親だった。
葉月の母親、皐月は元々名のある彫刻家だったのだが、弥生と結婚したことによりさらにその名前を広げた人物だ。
皐月と弥生との出会いは大学生の頃だったらしく、弥生が名前を世間により認知されるきっかけになった作品も、大学生の頃に描かれたものらしい。
「ごめんねぇはーくん、これ彫ってるときにロベール二世ちゃん落としちゃって」
「もう……なにやってるんだよ、お母さん。……ロベール二世ちゃん?」
「うん、この前お母さんが彫ったやつ」
「また独特な路線を……」
(ロベール二世って誰だったっけ? フランスの王様だったような気がするんだけど……。ま、僕は日本史で受験するつもりだからあんまり関係ないけど……。あ、でも、師走さんなら何か知ってるかも)
「師走さん?」
葉月が皐月の自作であるロベール二世の石膏像を皐月から受け取っていると、皐月は不思議そうに首を傾げた。
心の中でとどめているつもりだったが、皐月のこの様子を見ていると、どうやら葉月は絵美の名前を口に出してしまったようだ。
ここで変に言いまわして面倒なことを聞かれても困る、ここはそれっぽいことを言って凌いでしまおう。
「ああ……いや、学校の友達なんだ」
「友達!?」
「友達って言ったら怒られるかもしれないけど……」
あんたと友達になったつもりなんてない、と、きっと絵美なら言うだろう。
ただ、普段の会話で葉月が友達という単語を家の中ではあまり出さないこともあり、皐月の方は嬉しそうに目を輝かせながら立ち上がってほこりを払う。
それにしても、この流れはあまり葉月的にはよくない気がする。
「今度お家に来てもらいましょう?」
(ああ……やっぱり……)
「はーくんと仲良くしてくれてありがとうって言わなくちゃ!」
「え……で、でも、僕そんなに師走さんと仲がいいわけじゃ……」
どうにかしてこの流れを回避しようと言葉を選ぶが、皐月は「何言ってるのよ!」と葉月の肩を撫でる。
「そう言わずに! 声だけでもかけてちょうだい!」
「う……うん……」
ここまでノリノリになっている皐月の姿を見て、葉月は複雑な気持ちになってしまっていた。
今まで友達という友達をまともに作らずに生きてきてしまったせいで、母親に心配させてしまうことになっていたとは。
元々、周りからは勝手にちやほやされていたけれど、友達というほど親しい人間はいなかった。
それに、勝手にちやほやするだけちやほやしておいて、暫くすればさっさと離れてしまうような人ばかりだった。
絵美が今までの人生の中で初めて突っかかってくる人間だったということもあり、勝手に絵美のことを友人認定してしまったが……。
「声だけは、かけてみるけど……」
(師走さん……来てくれるかなぁ)
目の前でわくわくして、鼻歌まで添えながら次の作品のための彫刻作品を作っている母親の姿を見てしまうと、どうか来てくれれば、と息子としての気持ちがわいた。
「絶対に行かない」
「……そう言うと思った……」
翌日の放課後、葉月はダメもとで絵美に声をかけてみたが絵美は画用紙に向かいながら、つまりのところ、葉月の方を一度も見ることなくそう答えた。
絵美の描いてる絵でも見てやろうと少し視線をそちらに向けるが、見事に腕や体で隠されてしまって良く見えない。
(もしかして、絵を描くの苦手だったりするのかな……?)
朝教室で声をかけるのでも良かったのだが、一番最初に学校で声をかけた時に「教室で話しかけないでください」と言われてしまったので、どうして自分が相手に沿わなければならないんだ、という気持ちもあったけれど、ここは素直に部室で話しかけることにしたのだった。
元より彼女が行くとは言わないだろうとは思っていたけれど、ここまではっきりと言い切られてしまうと昨晩皐月へと抱いた意味とはまた違う形で複雑な気持ちになってしまうのも事実だ。
(別に師走さんなんてどうでもいいけど、お母さんがなぁ……)
「そもそも、どうして私なんかを誘うのよ。貴方には貴方を無条件で慕ってくれる都合の良い存在がたっくさんいるでしょう? それとも、あえて美術部の私に、凡人のくせに貴方に口出しをする私に声をかけることで、「僕は天才なんだ」と見せつけるつもり? 貴方の才能あふれるご両親を盾にして脅すつもりなのかしら? 良いご趣味ね」
画用紙に鉛筆を走らせていた絵美の手が止まったかと思うと、鋭い目つきで葉月のことを睨みつけながら、嫌味ったらしく笑う。
まあ、葉月はもはや絵美のこのような一面には良くも悪くも慣れつつあったため、それに一々惑わされることも減ったが。
どうせ笑うならそんな嫌味のこもった笑みよりも、月人に見せているような純粋な笑みを見せてほしいものだ。
「違うよ。お母さんが師走さんを家に呼んでほしいって言ってたんだ。僕は来ないと思うよってちゃんと言ったけど……」
「お母さまが?」
葉月の母のことを「お母さま」と咄嗟に言ったことに感心しつつも、絵美の今までの厳しそうな表情からは一転して、次は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
常にムッとしているイメージの強い絵美だったが、こうしてよく見ていると表情がころころと変わる人物だと思う。
「どうして? あなたのお母さまって……堀田皐月よね?」
「ん……まあ、うん」
絵美の言葉に、葉月の返答は曖昧なものだ。
間違いではないのだけれど、確かに間違いではないのだけれど。
「堀田皐月よね?」と絵美が聞いたことに、ほんの少しではあるが、葉月は失望してしまった。
絵美からすれば勝手に失望されているのだが、勝手に失望されていることを絵美は知らない。
(結局、師走さんも突っかかるのは僕だけか)
「そう。私は彫刻は専門じゃないから何も言うことはできないけれど、世間が評価する天才のレベルはしょうもないものね」
「え」
思わぬ方向から話題が飛んできたことに、葉月の口からは思わず素っ頓狂な声が漏れた。
「もし貴方がお母さまを尊敬していたらごめんなさい。これは個人の意見だからあまり気にしないでほしいのだけれど、彼女の名前の広がりは技術というよりかは独創性の勝利よね。それから、あまりこの言い方は良くないのかもしれないけれど、画集弥生の名前の恩恵を受けているのも間違いないでしょうね。……まあ、彼女の独創性は確かに天才と呼んでも良いのでしょうけれど、遅かれ早かれ同じことをした人はいるでしょう」
ただ、彼女がパイオニアだっただけね。
肩を竦めながら絵美はそう言った。
一瞬でも絵美の誰もが口をそろえて言った一言に失望してしまった自分がバカらしくて、思わず葉月の口からは笑みがこぼれる。
彼女は天才が嫌いなだけであって、自分以外の芸術家が嫌いなだけで、自分以外の天才や芸術家を全て等しく批判しているだけだというのに、それでも、葉月にとっては、それが嬉しかった。
誰もが名前だけでよく知りもせずに評価ばかりをしていたけれど、絵美だけはやはり違うものだと思った。
「…………きっも」
肩を震わせてくく、と笑いをこらえている葉月を見ながら、絵美は顔を顰める。
丁寧に「気持ち悪いわね」とは言われたことがあるが、露骨な暴言を聞くのももしかしたら珍しいかもしれない。
天才には友達と呼べる人物が少ない。
何もわからぬまま適当に慕ってくれる人物はそう少なくはないけれど、全ての行動が「天才のすること」として括られてしまう葉月としては、純粋な嫌悪感というものは懐かしいものだった。
というか、その純粋な嫌悪を向けられることもあまりなかったのだが。
そりゃ小学校一年生や二年生の時には親しいとまでは言えなくとも友人らしき人は居たが、結局は大人の方が葉月と関わることを避けさせていたし。
「やっぱり決めた、師走さん今度うちに来てよ! 僕、家に誰か呼んだことなくてさ、お母さんも心配してるみたいで」
「絶対に嫌」
「なんでさ?」
「そもそも、私は人に気を遣うのが得意じゃないの。人様にお家に伺うのはとても気を遣うし疲れるわ。それに、ただの同級生だったらまだしも……いや、ただの同級生ですら気を遣って嫌なのに、仮にも貴方は天才と呼ばれているじゃない。気を遣うのよ、特に」
貴方のことを天才だとは認めていないけれど。
絵美の目は紛れもなくそう言っていて、葉月も思わず苦笑いをしてしまう。
きっと、絵美は物の言い方だったり言葉遣いこそはあまり褒められたものではないが、真面目な性格なのだろう。葉月は誰かの家に行くことも誰かに家に来てもらうことも無いのだが、でも確かに、人の家に行くというものは気を遣う行動かもしれない。
(それにしたって……気遣いすぎじゃない?)
「気にしすぎだよ。僕もお母さんも、そんなに気にされる方が嫌だし」
「招かれるのはとても疲れるわ。貴方だって、分かるでしょう? 天才だから」
嫌味のように絵美はそう言うと、葉月も肩を竦めてしまう。
「確かに」
心当たりがないわけじゃない。……なんてレベルではない。
心当たりしかない。幼少期から何か絵を描けば意味もなくお呼ばれすることが多かった。
両親も優れた芸術家と世間では言われていることもあり、自分が何かをしたわけでなくとも大きな会場だったりパーティーに呼ばれることは少なくはない。
確かに、その時ばかりは息が詰まりそうな気持になる。
自分は好きに絵を描いただけなのに。好きなものを描いただけなのに。
誰かに何かを評価されるためではない。自分のために、描いているだけなのに。
「そう、これで伝わったかしら。お断りさせていただくわ」
「い、一回だけでいいから! お母さん、すごく楽しみにしてるみたいで」
お母さん、という単語を出されることに弱いのか、絵美は必死な葉月の様子に困ったように腕を組んで考え込んでしまう。
目を閉じて頭をひねっているのを見ている様子、絵美の中でも良心と行きたくないという気持ちが葛藤しているのだろう。
(しつこく誘った僕が言うのも違うけど、そんなに考え込むくらいなら断っちゃえばいいのに。……ほんと、真面目だなぁ)
葉月には、あまり分からない。
迷うも何も、葉月には「そうするしかない」という強制的な選択肢しかないのだから。
「……分かった。今回だけね。お母さまに心配をかけるようなろくでもない息子に付き合ってあげましょう」
「そんな言い方……」
しなくてもよくない?
そう言おうと思った時には、絵美はすでに目の前の画用紙に向き直っているようだった。
(ほんと……いっつも思うけど……何描いてるんだろ? コンクールのやつとか? 全然そんな感じしないけど……)
それにしたって、ろくでもない息子、なんて単語を同級生の口から聞く日が来るとは思ってもいなかった。
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