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それから数日が経ち、セミのことなど忘れていた。
夜道を歩いて家に着く。
外灯を頼りに家の鍵を開けようとすると、セミがいた。
腹を上に向け、ちょうどドアを開けるとつぶれる位置だった。
立派なセミである。けれど、ひっくり返ってピクリとも動かなかった。しばし立ち尽くす。虫は得意ではない。というより大嫌いだ。
ドアを開けなければ家には入れない。しかし開ければセミがつぶれる。ドアと地面の隙間があってつぶれないかもしれないが、それを試す気持ちにはなれなかった。
ぐしゃりという音を聴きたくはない。
その時のドアノブの感触を味わいたくはない。
大きな恐怖が私にあった。虫は苦手である。
何度でも言おう。虫は苦手である。
たまたま近くに外用のほうきがあった。
それで履く。
じじじ じじじじじじ
お亡くなりになってはいなかった。セミは羽をばたつかせて音を立てるが、飛び立つまでの生命力はないらしい。こっちは恐怖で声すら出なかった。
しかし、それでドアは開けられるようになった。ホッとして家に入ろうとすると、セミが来た。雨除けの屋根についた外灯の周りを、ぐるぐる回るセミが来た。
そちらのセミは、飛んでいる。
外灯の周りを、ぐるぐるぐるぐる。ものすごい勢いで、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。彼の下には、動かないセミ。その上をぐるぐるぐるぐる、ものすごい勢いで円を描いて飛んでいた。
カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ
カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ
かなり大きな音が聴こえてきた。その音が、何の音なのかわからなかった。音の種類はセミの声と同じ音のようだった。
その音もすごかったのだが、それどころではなかった。私は再び立ち尽くした。なぜなら少しでもセミの回転が大きくなれば、私に直撃するコースを飛んでいたからだ。
—— 助けて!
私は心の中で叫んでいた。けれど、恐怖で声が出てこない。
そのセミは、まるで瀕死の友を守るため、決死でやってきたヒーローのようだった。そうとしか思えなかった。瀕死のセミの上をぐるぐる回って、私の行く手を阻んでいるのだから。
しかし、私はトドメを刺しに来たヒールではない。ただ家に入りたいだけだ。踏みつぶして殺してやろうなどと、ひとかけらも思っていない。恐れおののき何もできないチキンである。ヒーローに助けてもらいたいのはむしろこっちだ。
けれどそのセミは、瀕死のセミを守るように、外灯の下、ドアの前、私の前を、ぐるぐるぐるぐる飛んでいた。
私の前をセミが飛ぶ。
すごい速さでセミが飛ぶ。
ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる回っている。
カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ
私をあざ笑うかのように、その音が聴こえてきた。
カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ
カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ
恐怖で足がすくむ。
私にぶつからんばかりにぐるぐるぐるぐるセミは飛んでいる。カチカチという音も辺りに響く。
臆するな。ぶつかったとしても、私に何ら痛手はない。気分は良くないが、死にはしない。そう自分に言い聞かせ、ドアノブを握って鍵を開け、家に入った。
カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ
ドア越しでもその音は聴こえてきた。
鍵をかけ、チェーンをかける。
哀れな人間は、そうすることしかできなかった。災難から逃げ出し、家の中に隠れることしかできなかった。
カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ
カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ
いつまでもその音が聴こえていた。
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