セミの声

2/6
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
 それから数日が経ち、セミのことなど忘れていた。  夜道を歩いて家に着く。  外灯を頼りに家の鍵を開けようとすると、セミがいた。  腹を上に向け、ちょうどドアを開けるとつぶれる位置だった。  立派なセミである。けれど、ひっくり返ってピクリとも動かなかった。しばし立ち尽くす。虫は得意ではない。というより大嫌いだ。  ドアを開けなければ家には入れない。しかし開ければセミがつぶれる。ドアと地面の隙間があってつぶれないかもしれないが、それを試す気持ちにはなれなかった。  ぐしゃりという音を聴きたくはない。  その時のドアノブの感触を味わいたくはない。  大きな恐怖が私にあった。虫は苦手である。  何度でも言おう。虫は苦手である。  たまたま近くに外用のほうきがあった。  それで履く。  じじじ じじじじじじ  お亡くなりになってはいなかった。セミは羽をばたつかせて音を立てるが、飛び立つまでの生命力はないらしい。こっちは恐怖で声すら出なかった。  しかし、それでドアは開けられるようになった。ホッとして家に入ろうとすると、セミが来た。雨除けの屋根についた外灯の周りを、ぐるぐる回るセミが来た。  そちらのセミは、飛んでいる。  外灯の周りを、ぐるぐるぐるぐる。ものすごい勢いで、ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。(セミ)の下には、動かないセミ。その上をぐるぐるぐるぐる、ものすごい勢いで円を描いて飛んでいた。  カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ  カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ  かなり大きな音が聴こえてきた。その音が、何の音なのかわからなかった。音の種類はセミの声と同じ音のようだった。  その音もすごかったのだが、それどころではなかった。私は再び立ち尽くした。なぜなら少しでもセミの回転が大きくなれば、私に直撃するコースを飛んでいたからだ。  —— 助けて!  私は心の中で叫んでいた。けれど、恐怖で声が出てこない。  そのセミは、まるで瀕死の友を守るため、決死でやってきたヒーローのようだった。そうとしか思えなかった。瀕死のセミの上をぐるぐる回って、私の行く手を阻んでいるのだから。  しかし、私はトドメを刺しに来たヒールではない。ただ家に入りたいだけだ。踏みつぶして殺してやろうなどと、ひとかけらも思っていない。恐れおののき何もできないチキンである。ヒーローに助けてもらいたいのはむしろこっちだ。  けれどそのセミは、瀕死のセミを守るように、外灯の下、ドアの前、私の前を、ぐるぐるぐるぐる飛んでいた。  私の前をセミが飛ぶ。  すごい速さでセミが飛ぶ。  ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるぐるぐる回っている。  カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ  私をあざ笑うかのように、その音が聴こえてきた。  カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ  カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ  恐怖で足がすくむ。  私にぶつからんばかりにぐるぐるぐるぐるセミは飛んでいる。カチカチという音も辺りに響く。  臆するな。ぶつかったとしても、私に何ら痛手はない。気分は良くないが、死にはしない。そう自分に言い聞かせ、ドアノブを握って鍵を開け、家に入った。  カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ  ドア越しでもその音は聴こえてきた。  鍵をかけ、チェーンをかける。  哀れな人間(わたし)は、そうすることしかできなかった。災難から逃げ出し、家の中に隠れることしかできなかった。  カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ  カチカチカチカチカチカチカチカチ カチカチカチカチカチカチカチカチ  いつまでもその音が聴こえていた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!