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その年、僕は、毎年、家族で出かける河原に、ひとりで行くことにした。誰にも言わずに。
「今年は特別だから」
そう言われても、僕は、納得できなかった。
来年の春には、遠くへ引っ越してしまう。
だから、あの大好きな河原でのバーベキューや水遊びも、今年の夏が最後なのだ。
それなのに。
行けないなんて寂しすぎる。
昔は、近所の家族とも一緒で、少し年上のお姉さんは、一人っ子の僕の遊び相手をしてくれて、空気を入れたボールでビーチバレーボールをして遊んでくれたり、河原で、スイカ割りもした。
そのお姉さんの家族は、今では、もう、どこかに引っ越してしまったけれど、来年は、僕の家族も引っ越しをする。
だから、もう、あの河原での夏も、今年が最後なのだ。
だから、僕は、ひとりででも、電車に乗って、河原に行こうと決心したのだ。
電車の駅から河原までの道だって、ちゃんと覚えているから大丈夫。
ボールだって、昔、遊んだのと同じようなスイカ模様の新しいのをリュックサックにいれてあるし、ペットボトルの麦茶だって用意してある。
準備万端のはず……だった。
それなのに。
こんなはずじゃなかった。
河原には、誰もいなかった。
僕が期待した、バーベキューのテントも、浮き輪に乗った子どもたちも、にぎやかな笑い声も、そこにあるはずのなにもかもが、まるで空っぽだった。
夏の、この河原が、こんなに寂しいなんて。
僕は、リュックサックの中から取り出したスイカ模様のボールに息を吹き込んでふくらませ、空しいほどキラキラした水辺から、悲しいほど青い空に向かって、投げ上げた。
ポン、ポン、ポン……
何度目だっただろうか。
打ち上げられたボールは、河原とは反対の木立の方へ飛んでいって、消えてしまったのだ。
「どこいちゃったんだろう?」
僕は、前にも、こんなことがあったことを思い出した。
「じゃあ、今度は、スイカのボールじゃなくて、本物のスイカ割りしよう!」
昔の記憶がよみがえる。
ボールを失くしてしまった僕の手を引いて、スイカ割りに誘ってくれたのは、いつも、一緒に遊んでくれていたアヤちゃん、近所に住んでいたお姉さんだった。失くしてしまったボールは、アヤちゃんのものだったけれど、アヤちゃんは、失くしてしまった僕のことを気遣って、ほんとうに、スイカ割りをして遊んだのだ。
あの時食べたスイカ。夏色の味。透明な河原の記憶。
「スイカ割り、しようか?」
あの時と同じ声がする。
あの日と同じ声が聞こえる。
僕は、声の方へ振り向いた。
「アヤちゃん?」
「どうしたの? タクヤくん」
それは、たしかに、あのときのアヤちゃんだった。
でも、いつのまに?
「スイカ割り、する?」
アヤちゃんの指さす方を見ると、いつのまにか、河原にスイカも用意されている。
アヤちゃんが、どこかで拾ってきたような木の枝の棒きれを僕に手渡す。
そして、ショルダーバッグから取り出した水色のタオルで、僕に、目隠しを……
目隠しで河原もスイカも見えなくなる……
……はず、だったのに。
たしかに、目隠しをしたのに。
代わりに、僕には、河原で遊ぶ子どもたちの歓声が聞こえてきた。
そして、その声に交じって、スイカの方角を教えるアヤちゃんの声。
手拍子。
その声、その音を聴いていると、僕には、河原の風景が、そして、水色の空、ビーズ色の波までも、くっきりと見えるような気がした。
「こっちこっち」
アヤちゃんの声がする。
「ストップ」
懐かしい声がする。
「そう! そこ!」
僕は、木の枝のようだった棒きれでスイカを割る。
幻だ。
そんなことはわかっていた。
アヤちゃんは、遠くへ引っ越してしまったのだ。
それに、今年は、特別な夏で、河原の賑わいもあるはずなんてない。
目隠しさえとれば、こんな幻の夏など消えて、もとの、誰もいない河原の中に、僕は、ひとりで立っているだけなのだ。
そう、思っていた。
ほんとうに目隠しを取るまでは。
パチパチパチパチ……
拍手の音も、幻なのだ……
……と思いながら、タオルの目隠しをとった僕は……
……目の前に、アヤちゃんと、そして、水遊びをしたり、走り回ったりする子どもたちの姿が……
ああ。
あんまり、にぎやかな夏の河原が恋しいと思っていたから、とうとう、こんな妄想が現れてしまったのだ。
それならそれで、いい。
夢が覚めるまで、ひと夏の思い出を楽しめばいい。
幻想の中のスイカは、思い出色の味がした。
川の中の小さな魚は、夏祭りの風鈴の声で泳いでいた。
トンボは、もう、秋色の風に乗って飛んでいた。
幻の河原で、アヤちゃんが、僕に、紙皿に乗せた焼きそばを持ってきてくれる。
すぐそばのテント。
まるで、仲良しの友達のテントみたいに。
紙コップの麦茶は、ふるさと色の味がする。
そうだ。
あのスイカ模様のボールのせいだ。
僕のあのボールが河原からそれて、茂みの中にはいってしまって……
「じゃあ、ボール、捜してみようか?」
アヤちゃんが言う。
「うん」
というようにうなずく僕。
僕の手を引いて茂みにはいっていくアヤちゃん。
そうだ。昔も、こんな風だった。
「あ! あったよ!」
これだけは、昔と違っていた。
あのときは、ボールが見つからず、それで、スイカ割りになったのだ。
「あら、こんなに泥だらけ!」
「え?」
アヤちゃんが見つけてきたボールを見て、僕は、驚いた。
さっき、茂みにはいってしまったボールは、まだ、買ったばかりの新しいボールで、今日、初めて使ったものだ。泥なんてついていないはず。
「僕のは、『タクヤ』って名前が書いてあるよ」
「じゃあ、洗ってみようか?」
アヤちゃんと僕は、見つかった泥だらけのボールを河原で洗ってみることにした。
「『アヤ』!」
「あ、これ、私のだ!」
「え?」
スイカ模様のボールには、確かに、『アヤ』と書かれていた。
ポン、ポン、ポン……
ボールには、透明な水面と、河原の賑わいが映っていた。
アヤちゃん、僕、アヤちゃん、僕、……
何度めかに打ち上げたとき、秋色のトンボが映ったとき、僕には、ボールの中に、河原のハイキングコースが見えた。
川沿いの山道を歩いているのは、僕とアヤちゃんだった。
すると、いつしか、僕とアヤちゃんは、河原からそう遠くない山道を歩いていた。
もう、傾きかけた光が、樹々の間から差し込んで、小川の水の音が涼し気だ。
僕たちは、休憩にちょうどよさそうな山道の脇のベンチに腰掛けて、お弁当の時間にする。
アヤちゃんが、リュックサックからおにぎりを出して、僕にも手渡してくれる。
「はい、どうぞ!」
僕の分も用意してくれていたのだ。
「ありがとう」
僕たちは、ペットボトルの麦茶を飲みながら、水色の風の森の空気を楽しんだ。
「今度は何が映るんだろう?」
アヤちゃんが、リュックサックの中から取り出したあのスイカ模様のボールに、また、空気を吹き込んでふくらませたのを見て、僕は、そのボールに、また、何か映るのではないかとのぞきこんだ。この山道だって、河原で、このボールに映った景色で、今、アヤちゃんと僕は、その景色の中にはいってしまっているのだということを思い出した。
「バス停?」
ボールに映ったのは、夕日に照らされたバス停のようだった。
「もう、帰らないと……」
アヤちゃんがそう言ったとき、僕たちは、もう、そのバス停のそばに立って、バスを待っていた。
「楽しかった。ありがとう」
僕に、バスの切符を渡しながら、アヤちゃんが言った。
「うん。楽しかった。ありがとう」
僕は、もちろん、アヤちゃんも一緒にバスに乗ってくれるものだと思っていたのに。
「私、ここに泊まらないといけないから」
山道の向こうから茶色のバスがやってくると、アヤちゃんは、そう言って、すぐ後ろの建物を指さした。
いつのまに?
そのときまで、僕は、バス停の後ろにある建物に気づかなかった。
建物の前には、小学校みたいな庭も見えた。
アヤちゃん、ひとりで来ていたのだと思っていたけれど、もしかすると、家族で、ここのホテルに泊まっていたのかもしれない。遠くに引っ越しても、こうやって、ホテルに泊まって、この夏の河原に来ていたんだと、僕は思った。
「ここ、ホテル?」
と、聞こうとしたときには、もう、バスは、目の前に止まって、僕の前で、ドアが開いた。
「楽しかった。ありがとう」
「私も。ありがとう」
バスの中から、夕焼け色の山道で、手を振るアヤちゃんの姿が見えなくなるまで、僕は、後ろの窓からバス停の方を見ていた。
黙って、ひとりで河原に行ったことを叱られることはなかった。
叱ることも忘れるほど、母さんは、驚いていた。
「それは、人違いでしょう?」
母さんは、僕が、アヤちゃんに会ったことを信じようとしなかった。
「アヤちゃんは、もう、六年も前に亡くなったのよ」
今度は、僕が、驚く番だった。
引っ越しをしたころには、もう、病気になっていたのだということ。
僕が悲しむから秘密にしていたこと。
でも、僕は、たしかに、今日、アヤちゃんに会ったのだ。
別れ際にもらったバスの切符は、まだ、ちゃんと、手元にあった。
驚いたことに、切符に印字されていたのは、六年前の日付だった。
「そんな……」
たしかに、今日、この切符で、あの山道の停留所から電車の駅まで、バスに乗って帰ってきたのに。
母さんがアヤちゃんのママに電話してわかったことは、もっとびっくりするようなことだった。
バスの切符の日付は、アヤちゃんが亡くなった日の日付だったこと。
切符に印字されていた乗車駅は、アヤちゃんが亡くなった病院の前の停留所だったこと。今ではもう無い病院。今ではもう走っていないバス。
アヤちゃんが亡くなる何日か前から、アヤちゃんが、いつか、河原で失くしてしまったボールを捜しに行くと言っていたこと。
アヤちゃんが亡くなった日、いつのまにか、そのスイカ模様のボールが、病室の床頭台の上に乗っていて、誰が持ってきたのか、今でもわからないということ。
それから何日かして、アヤちゃんのママから、僕に、そのスイカ模様のボールが届いた。
空気をいれてみて、僕は、間違いないと思った。この前、河原でアヤちゃんと遊んだボールだということが。ボールには、「アヤ」と、名前が書いてあった。
それを光にかざしてみたら、また、河原で待っていてくれるアヤちゃんの姿が映るんじゃないかと、僕は、少し、期待したけれど、今度は何も映らなかった。
でも、いつか、また、このボールにアヤちゃんの姿が映り、その風景の中にはいっていけるような気がして、空気を抜いて、大切にしまっておくことにした。
この風船と、切符は、大切にしまっておくことにした。
これがあれば、また、アヤちゃんに会える。
あの日、たしかに、僕は、河原でアヤちゃんに会った。
アヤちゃんは、僕に、会いに来てくれたのだ。
特別な夏に。
最後の夏に。
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