傷(1)

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傷(1)

 今、目の前を通り過ぎた者に抱く感情に、名前をつけるのは難しい。  それは、ひどく甘やかで単純であり、同時に御し難い暴れ川の奔流のようでもあった。  彼――ユリウスがこちらを認め、顔と名を覚えて、少しでも打ち解けてくれたなら、ここまで凶暴な思いは育たなかったかもしれない。――否、たとえ親しくなっていたとしても、遅かれ早かれ、結論は同じだっただろう。  剣を交わした、あの日。  かつてない好敵手に血を沸騰させ打ち込んだ一撃を、子供の手を捻るように躱し薙ぎ払い、首筋にひたりと細身の刃を突きつけた、白金(プラチナ)の残像。  取り落とした剣に手を伸ばすこともできず、地に膝をつき茫然と見上げた逆光の中、あの瞬間ですら、青灰色の瞳は揺らぐことなく、冷たく凍りついたままだった。あの瞳を見た時から身の内に滾る、理性という名の檻に押し込めてもたちまち喰い破るほどの渇望がある限り、今日のこの決断は変わらなかった。  剣技場で初めて見掛けてから、十ヵ月。  生意気な若造という第一印象を裏切り、ユリウスは寡黙で思慮深く、謙虚な人物だった。そして、至聖神教の大使付き武官の任務に必要な最低限の社交以外、外界の一切を遮断していた。  ユリウスを神殿の外に連れ出したければ、模擬試合か剣術指南を申し込むか、彼が護衛する大使を招待する以外の方法はなかった。皇帝の名を使っても、皇帝直属の近衛、帝国最強の騎士四名で構成される『四神の近衛』の名を使っても、二人きりで話のできる場を設けることは叶わなかった。  禁欲と節制を旨とする神聖騎士であると同時に、高位の聖職者でもある相手に、俗世の権力は通用しなかったのだ。
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