本当の意味での『ひと』夏の思い出

1/1
前へ
/1ページ
次へ

本当の意味での『ひと』夏の思い出

「さて、読者諸君に問おう。君たちは『ひと夏の思い出』という言葉を聞いて、どんなものを思い浮かべるだろうか。  友人と海でやったバーベキュー? 幼なじみの女の子とたまたま実家で再会したこと? もしかしたら夏の間に異世界へと飛ばされ大冒険をした~なんて言う人もいるかもしれない。  結構結構、大いに結構だ。  仮に人間80歳まで生きるとする。今はもう少し平均寿命が上がっているとは思うが、まあとりあえず80歳だ。  では、簡単な質問をしよう。夏は何回ある?  ――そう、答えは簡単、80回である。  たったそれだけしかない夏なのであるから、色々なことをしてそれを満喫し、ひとつひとつを大切な思い出とする。それこそが正しき夏の過ごし方というものだろう。ああ、是非もない。  それでは俺も『ひと夏の思い出』というものを語ろうと思い、こうして筆を執っているわけだが、そこでふと疑問が浮かび上がってきたのである。 「ひと夏の思い出の『ひと』とはなんだろう」と。  別に『夏の思い出』でも良いだろうに、わざわざ『ひと』という言葉を付与しているからには、そこになんらかのニュアンスを追加したいのではないだろうかと推察するのは、たとえ趣味であろうと文章を書く人間としては当然の結果と言えるだろう。  そして、言葉について分からなくなったとき、インターネットで調べるというのが今ではしばしば使われている方法であると思うのだが、俺はそこで辞書を引く。別になにか信条があるわけではなく、ただただ、『わざわざ辞書を引く俺カッケー』と悦に浸りたいだけである。  さて、では手元の辞書で引いてみよう。  ……………………。  ない……。  残念ながら、俺の持っている辞書には『ひと夏』という項目はなかった。まあ、せっかく『ひと』のページを開いたのだし、他の『ひと』がつく単語を見てみるとしよう。  一安心、一息、一口、ひところ、一通り、一眠り、ひとまず……。  こうしてみると、「ひと」という言葉には「少し」や「とりあえず」といったような意味合いで使われることが多いように思われる。  では、『ひと夏』にこれを当てはめてみると、『ちょっとした夏』といったところだろうか。  そう――つまり、俺の主張としては『ひと夏の思い出』とはそんなに大それた思い出ではなく、むしろ思い出の内容としては少量のニュアンスがあるということだ。  それは換言すれば〝大して語るほどでもない思い出〟とも言えるだろう。  さて、君たちにもう一度問おう。君たちの『ひと夏の思い出』とはなにか。  友人とバーベキュー? そんな青春みあふれるイベントのどこが『少し』だというのか。  幼なじみの女の子と再会? なんだその羨ましい展開は。  異世界へと飛ばされ大冒険? は? 舐めんな。  では、俺の今年の『ひと夏の思い出』とはなにか。  それは――  今年は夏風邪を引いて大変だったことだ!  え? ショボい?  なにを言うか。先ほども述べたとおり、『ひと夏の思い出』とは〝大して語るほどでもない思い出〟である。ならばそれはむしろショボくなければ『ひと夏の思い出』とは言えないだろう。  意味もなければ面白みもない。当人を知らない人からすればあくびが出るほどにどうでもいい。それぐらい中身のない思い出こそが『ひと夏の思い出』と呼べるだろう。  青春あふれるバーベキューも、感動沸き立つ再会も、八千文字じゃあ到底語りきれないようなスペクタクル異世界譚も、それは『夏の思い出』ではあるかもしれないが、『ひと夏の思い出』ではないのである。  ふっ、そう考えてみれば、俺がこうして、こんなしょうもない文章を書いているのも『ひと夏の思い出』と言えるのかもしれないな」  少年はニヒルな笑み(と本人は思っている)を浮かべながら文章の最後をそう締めくくると、小説投稿サイトへと彼の『ひと夏の思い出』を投じるのだった。  なお、彼の投稿した文章のPVが伸びなかったことは、言うまでもないだろう。  ※1 『ひと夏の思い出』の解釈は少年の独自のものです。これを自慢気に他人に話すと残念な人を見る目を向けられる可能性があるので注意しましょう。  ※2 少年と著者はまったくの別人ですので、著者自身は残念な人ではありません。残念な人ではないのです。が、夏風邪はマジで引きました。皆さんも気をつけましょう。    〈了〉
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加