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古アパートの二階。茹だるような熱気が部屋に入るのも気にせず、彼女は商店街に面した窓から顔を出して、行き交う人々を熱心に数えていた。その顎から雫が滴り、夏の夕陽を浴びてキラキラと輝いている。僕はその足元に先程からせっせと氷を運んでいた。
「そんなに面白い?」
声をかけられ振り向いた彼女は、大量の氷が入った鍋を足元に見つけると、窓を閉めて床にペタンと座る。そうして、白いしなやかな指で一つずつ氷を摘まみ上げ、手の中に溶かし込んでいった。蒸気も雫も残さず氷が消えていく様は手品のようで、何度見ていても飽きずに見入ってしまう。
「下の通りに小さな露店がたくさん出ているの。昨日、大人達がしていたのは、お祭りの準備だったのね」
「この商店街で毎年やってる子供縁日だよ。射的とか、くじ引き、金魚すくい、子供騙しだけれど何でも五十円でできるから、盛況なんだ」
「金魚すくい…。薄紅、山吹、藤、ふわふわの帯を揺らした小さな子供たちがいっぱい、笑ったり回ったり走ったりして金魚みたいだった。山車が見たくてお父さんによじ登って怒られてる子もいたな。ふふふ。………見に行きたいな。私も、あの中に入りたい。真っ赤な金魚になりたい」
誰に向けるでもない諦めの混じった儚い笑顔に、思わず隣に座り込み、その白い冷たい身体を強く抱き締める。
「ダメだよ。まだ行かないで」
きっと、こうしているだけでも彼女は僕の体温で痩せてしまうのに、長い髪が指に絡んで離れない。
「私、溶けてしまいたいの」
僕の背中にひんやりとした手が添えられ、熱っぽい言葉と冷気を孕んだ唇が耳をくすぐる。本当はダメなのに、分かっているのに止められない。少しだけ、少しだけ、と自分に言い訳しながら唇を重ね、彼女を床に押し倒し、甘い舌を吸った。
これ以上は、と、理性を振り絞って、重たく抵抗する身体を彼女から引き剥がす。頬を上気させた彼女は、起きあがらず寝転んだまま床に頬ずって、その冷たさを堪能していた。
「気持ち良い」
やってしまった! 危うく彼女を溶かしてしまうところだった。雪女の彼女とは、いつもこうだ。溶かしてしまう不安がつきまとって、澱みなく愛し合えない。
「もう、山に戻って。夏は君とは居られない」
「戻ったら会えないもの」
「冬になったら街にも降りて来られるんでしょ? 会いに行くよ。秋田なんて近……くはないけど、地続きだよ」
「……会いに来て、春になったら東京に戻るのよね。そうして段々と足が遠のいて、いずれ会えなくなる」
彼女の冷たい瞳が、温んで雫を落とす。
「嫌なの。このままここで溶かして欲しい」
湿度を持って重たくなった睫毛が暗く輝いて、眩しいのに怖くて目が離せない。寝ころんだまま僕の手を取って先を促す彼女に、従いたくなるが、尻込みする。この感情を何と言えば良いのだろう。欲望の奴隷になりきれない自分に歯噛みしたい気分だった。
雪女は、泣いて泣いて、泣きすぎると溶けてなくなるのだと言う。
彼女に深入りしたい、束の間でも手に入れたいと思う。しかし、生きる場所が違う僕に深入りさせたくない、泣いてほしくない。例え傍に居られなくても、例え僕が触れられなくても、この美しい淋しい生き物に消えてほしくないのだ。
………傍に居られない? 本当に?
「帰ろう。一緒に」
「?」
事態を飲み込めない彼女が上体を起こして、真意を推し量ろうと僕の目を真っ直ぐに見つめてくる。
「僕も君の故郷に住みたい」
「! でも、仕事は? 家族は?」
「仕事なんか、どこでだって、なんだってできるよ。転勤になったとでも思えば親は納得するだろ。兄ちゃんはもう結婚して実家の近くに住んでるし、子供らもジジババに懐いてるし。そうだよ。なんだ、全然問題無いじゃん」
「そんな……
そんな……こともあろうかと、男鹿のハロワから求人を取り寄せておいたの!」
「お、おう。準備良いね。男鹿なんだ」
「うん、男鹿水族館の近く。あ! 水族館で求人出てるよ。ピラルクがね、凄いの。小さいころに薄暗がりの中で初めて見た巨大魚に大泣きしちゃったんだあ」
「水族館とか行くんだ。しかも普通に大泣きするんだね。溶けないんだね」
「そうだ、東京駅のねんりん家でバウムクーヘン買って行こうね! お父さんが好きなの」
「お父さん普通にいるのか」
「うん、ちょっとナマハゲだけど」
「え、あ? ナマハゲ!?」
「生肌っぽいつるっ禿げって意味ね。秋田ジョーク。ぷふっ」
「雪女が言うと冗談に聞こえないよ。信じるからね。普通に」
「生禿げのナマハゲ」
「やっぱりナマハゲなんだね。ねんりん家を知ってるとか、案外東京詳しいな。ナマハゲ」
「観光大使とかしてるから。ちなみに肩書きは県職員」
「本物を採用してるんだ。凄いな秋田」
「住民票もあるよ。雪女も。秋田県民なら皆知ってる。でも、他県民には絶対に口外しちゃいけないの。トップシークレットだから、内緒にしてね」
「う、うん」
「あなたが知ったことは、もう諜報員が嗅ぎつけてる筈だから、うっかり口を滑らすと秋田県警に消されちゃうよ」
「消さ……抹殺!? 諜報能力凄いな! 怖っ! 秋田県警、こっわ!」
「大丈夫。身も心も秋田に捧げれば良いだけ。私と一緒に。ね?」
あまりの展開に少し怯んだけれど、無邪気に言う彼女には何の澱みも無いから、心の中で降参の白旗を上げた。そんな僕に微笑み、また氷を手の中で溶かし始めた彼女の邪魔をしないよう、背後に回って華奢な身体をそっと抱き締める。彼女の髪は、冬の朝のあの研ぎ澄まされたような透明で乾いた匂いがした。白い指に摘まみ上げられた氷を見て、羨ましい、自分も彼女に溶け込んでしまいたいと思う僕は、もうとっくに、身も心も雪女に捧げているんだ。
この夏、茹だるように暑い東京で最後の恋を、雪女とした。第二幕からは秋田に場所を移して続くらしい。
※ 作中の秋田県は架空の秋田県であり、作中の秋田ジョークは架空の秋田ジョークです。全てのなまはげを優しく黙認しないと、秋田県警に消され…(以下自粛)
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