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翌日の待合室は女性ばかりで、年若い櫂の姿は本当に目立っていた。
緊張している私が膝の上に組んだ手を、櫂の大きな手が包んでくれている。少し落ち着く。
看護師さんに名を呼ばれ、櫂も付いてくる。
先生がご主人ですねと念を押して、検査の結果ですと前置きをして説明を始めた。
病名はやはり『右卵巣嚢腫』しかも手術が必要な状況だという。
「良性か悪性かは手術をして細胞診検査を見ないとなんとも。ただ、卵巣は通常うずらの卵大なのですが、奥様は鶏卵大以上まで腫脹が確認されています。こうなると腹腔鏡での手術は難しいと思われますから…」
ちゃんと聞いていたが、余りのショックで頭に入ってこない。ただ、腫瘍が大きくなり過ぎて破裂しないうちに手術を勧められているのは理解出来た。
その後の会話は、殆ど櫂と先生とで交わされている。
「ではご主人の仰る通りに、ご実家のある福島の病院の方に紹介状をお書きしますね」
え?
「はい、よろしくお願いします。洸、立って」
櫂に促され椅子から立ち上がる。
「大丈夫ですよ出雲さん、幸い左の卵巣はなんでもありません。将来的には充分お子さんを望めますよ。さあ元気を出して」
その先生の優しい笑顔と言葉を聞いた途端に涙が溢れた。
「あ、、ありがとうございました」
それだけを言って、ようやく診察室を出る事が出来た。櫂が私の手をギュッと握っている。
「櫂…」
「手術をすれば大丈夫だって、良かったな」
手術…怖い。けど、それでもちゃんと赤ちゃんは望めるって先生が言ってくれた。
泣いてちゃダメだ、泣いてても何の解決にもならない。涙をグイッと拭いた。
「櫂、紹介状は福島って…?」
「手術をどこでするか聞かれたから、地元の医療センターに紹介状を出してもらう事にした。昔の磐城共立総合病院」
それは福島の地元で一番大きな病院だ。私、福島に帰るの?櫂が大阪でひとりになっちゃう。
そんなのダメだ。
「櫂、手術は大阪でする」
「ダメだ、わがまま言うな」
速攻怒られた。
「母さんがいないと心細いだろうが、無理するな」
「櫂がいるもん」
「それでもだ」
全然相手にして貰えない。こういう時の櫂は取り付くシマがない。
「母さんがお前の傍にいれば俺が安心なんだ。頼むから帰って手術を受けてくれ」
頼まれてしまった…
「出雲 洸さーん」
受付に呼ばれ、櫂が紹介状を受け取りお会計を済ませた。
病院から出てひとりでとぼとぼ歩いていると、櫂に手を引かれる。
「一緒に居たいのに」
「……」
「櫂と一緒に居たいのに…!」
大阪の病院ならどこだって近い。呼べばすぐ近くにいてくれる距離だと思えば、寂しいのだって我慢できるかもしれない。
「家まで歩けるか?」
地下鉄でたった一駅、歩けない距離じゃない。
この街には賑やかな昔ながらの商店街があり、よく二人で来ている。
そして買い物帰りにはこんな風に手を繋いで、歩いて帰った道だ。
「うん…大丈夫」
「歩こう」
大阪に来たばかりの頃は櫂とあちこち冒険をした。自宅マンションから歩いて行ける範囲に何があるのかなって。
そんな子供じみた好奇心で歩く初めての大阪は、いつも櫂が一緒で、本当に楽しいばかりで何も怖くなかった。
櫂がいたからいつも楽しかった、櫂がいない自分はきっと自分じゃない。
「俺はこうして洸といつまでも手を繋いで歩いて行きたい」
歩きながら櫂が私の顔を見る。
「歳を重ねてじいちゃんとばあちゃんになっても、どちらかが歩けなくなっても、俺は洸と手を繋いでいる」
優しい眼…優しい声。子供の頃から、私を見る櫂の眼差しはずっと変わらない。
「もし俺が先に逝く事になっても、俺はずっと洸の傍にいる…俺の魂はいつだって洸と一緒にいる」
櫂…櫂…!
「洸は俺の片翼だ、俺たちは比翼連理…覚えているか?」
「うん…」
受験の頃に櫂が教えてくれた中国の古い言葉※
こんな風に二人で生きていこうと。
「二人でずっと生きるために、今は耐えて行こうな」
「うん…!」
泣きながら目を伏せ、櫂が私の肩を抱いたまま二人で歩いていく。
大好きだったこの風景を、ずっと胸に抱いて病気を治しに行こう。
(※男女の情愛の、深くむつまじいことのたとえ。相思相愛の仲。夫婦仲のむつまじいたとえ。「比翼」は比翼の鳥のことで、雌雄それぞれ目と翼が一つずつで、常に一体となって飛ぶという想像上の鳥。「連理」は連理の枝のことで、根元は別々の二本の木で幹や枝が途中でくっついて、木理が連なったもの。男女の離れがたく仲むつまじいことのたとえ)
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