場面七 虫の音響く秋の夜(一)

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場面七 虫の音響く秋の夜(一)

「おやっとさあ、一蔵さあ」  (※おやっとさあ:お疲れ様)  慎吾は酒がなみなみと入った湯飲みを床に置き、帰宅した大久保に頭を下げた。  秋の日はとっぷりと暮れ、庭からは澄んだ虫の音が涼風とともに流れてくる。  大久保一蔵は慎吾より十三歳年長で、実の兄同然の存在だ。相変わらず和服を端然と身につけ、重々しいながらも穏やかな笑みで「ただいま」と応じた。 「旦那さまが、この頃慎吾さまのお顔をお見かけしてへんなあ、と言うてはったんで、夕食にお招きしたんどす」  大久保の愛妾、ゆうが柔らかな京言葉で言った。すぐに大久保のために、食事と濃いお茶が用意される。もっとも、大久保は食が細く酒も呑まない。米飯に汁に少しの煮物、それに漬物程度ですませてしまう。  ゆうは御一新前、大久保が京で朝廷工作に明け暮れていた頃に妾にした女で、元は芸妓だ。大久保との間に男の子が一人いる。正妻はまだ鹿児島にいるので、奥向きのことはこのゆうが取り仕切っている。  休み前に辞表を出し、もうこのまま郷里に帰ろうか、などと思いつつ引きこもっていた慎吾の許に、夕刻、ゆうが下男を連れて訪ねてきた。大久保の邸は慎吾の邸のすぐ近くだ。  大久保が、最近慎吾が顔を出さないと気にしていた、という。たまたま今日は帰宅も早いそうなので、夕食のついでにでも来てもらえないか、とのことだった。 「明日はお休みですやろ? どうぞゆるりとしておくれやす」  兵部省でのことは、辞表の提出も含めて、誰にも一切話をしていない。毎日足繁く通ってくる大山によれば、慎吾の辞表はまだ「保留」となっているらしい。  もう、やめよう―――と。  縋りつくような眼差しも、震える声も、まだ慎吾を揺さぶり続けている。  自分は、上官の信頼を裏切った。恋人の心も傷つけた。だから自分なりのけじめで辞表を出したのに、それを「保留」とされては身動きが取れない。  普段なら三日とおかず顔を出す大久保邸なのだが、今は顔を出しづらい、というのが正直なところだ。  だが、ゆうが直接訪ねてきて、「大久保が気にしていた」と言われては、可愛がってもらっている弟分としては顔を出さないわけにはいかない。  大久保は口数が少ない。慎吾も口下手な方なので、二人でいても会話が弾むというわけではない。ぽつりぽつりと話をして、時々給仕するゆうが言葉を挟むぐらいだ。慎吾は酒豪で食べることが好きだが、大久保は下戸で小食、漬物と茶があればいいという。大久保の唯一の趣味は囲碁なのだが、慎吾は習いはしたが全くモノにならず、「棋士」と言ってもいい人物ともそれなりに対局できる大久保の相手などとても務まらない。  それでも大久保は、慎吾を幼いときから変わらずに「大切な弟分」として傍らに置いてくれる。慎吾のほうも、大久保の傍にいると不思議と心が落ち着く。もっとも大久保は威厳がありすぎるので、多少は緊張もするのだが。  大久保は食事を終えると、煙管と煙草盆を手に縁へ出た。慎吾は酒盃と徳利を持ってその後に続く。 「スイカを切りましょうか」  ゆうがお茶を置きながら大久保に尋ねる。 「おいはよか。慎吾どんに切ってやってくれ」  ゆうは微笑して奥へ戻った。 「一蔵さあ、また痩せたんやないが。東京ん夏ば、何ごつ変に暑いで」  大久保は自分の体調には無頓着なので、慎吾はついつい心配してしまう。 大久保はわずかに笑みを浮かべた。庭を眺めながら煙草に火をつける。 「もう、夏も終わりじゃの」  そこへゆうが戻ってきて、スイカを二切れ慎吾の傍らに置いて下がった。  しゃく、と音を立てて、慎吾は瑞々しいスイカをかじった。  スイカの甘い香りと、闇に沈む庭。その中に響く、澄んだ鈴虫の声。それは鹿児島も東京も変わらぬ秋の風情だ。兄代わりの大久保の傍らで、慎吾は故郷に帰ったようで少しホッとする。  頬を膨らませてぷっと種を吹くと、大久保が微笑したのが判った。 「そげんしよっと、稚児ん時と変わらん」 「図体ばっかい大きゅうなってち言いたいがじゃろ」  大久保は穏やかに頬笑んで、長い息で煙を吐き出す。 「確かに、もう背負うてはやれんの」  いたずら者だった慎吾は、よく兄たちに叱られては邸を飛び出した。ほとぼりを冷ます程度で済むときは大山の邸に飛び込み、いよいよまずいとなると大久保の邸に逃げ込んだ。毎度のことに大久保は呆れた顔をしながらも、結局毎回慎吾の手を引き、吉之助や、慎吾が迷惑をかけた人の所へ行って、一緒に頭を下げてくれた。  大久保は、慎吾にとっては最後の最後に頼る「駆け込み寺」だ。
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