5人が本棚に入れています
本棚に追加
場面七 虫の音響く秋の夜(二)
何となく、先日からの悩みも辛さも少し忘れて、ただスイカをかじり、種を吹いて寛いでいると、不意に大久保が「慎吾どん」と呼びかけた。
「わい、山縣さんに迷惑ばかけよらんか」
「………!」
突然に核心を衝かれて、慎吾はスイカをボトッと膝に落とした。大久保はわずかに眉を上げ、胸元から懐紙を取り出し、慎吾の膝を拭いてくれた。
「す、すんもはんっ」
落としたスイカを皿に置き、慎吾は大久保の手から懐紙をひったくる。ゴシゴシと膝を擦りながら、大久保は何をどこまで知っているのか、と慎吾は狼狽する。
慎吾が兄吉之助ら薩摩人たちの下を離れ、長州人たる有朋の補佐というか、いやむしろ「指導下」について、約一年になる。「兄代わり」の大久保としては、あの面倒見のよい上官が、手のかかる慎吾を根気よく指導してくれていることに感謝しているらしく、また「不行き届き」がないかと何かと気にかけている。それ故に、そういう質問が出ても不自然ではないのだが、何せ時機が時機である。
ひょっとすると大久保は、どこかから話を聞いて、ゆうを使って慎吾を呼び出したのか。遅ればせながらそう気付き、慎吾はひえっと思った。そもそも、ゆうは京での政治活動でも何かと大久保のために働いた女性なのだ。
大久保には、辞表が受理されてからきちんと報告するつもりだった。こんな風に突然問われては―――それも、今のような宙ぶらりんの状態で質されては、どう応えていいか判らない。
迷惑、って。
迷惑など、それこそ浜の真砂並みに、数えようとしてもどうにもならないぐらいにかけ倒している。身の置き場もなくあたふたする慎吾に、大久保は微苦笑を浮かべていった。
「もうおいは、わいが手を引いて、一緒に謝りに行ってやっこつば出来んでの」
「………」
慎吾は懐紙を握り締め、俯く。
リーン、リーン、と、鈴虫が鳴く。
「………一蔵さあ」
呼びかけると、大久保は慎吾を見る。
「一蔵さあは、何いごて政府におっが」
沈着な兄代わりは、その問いには答えなかった。ただ弟分の意図を見定めようとするかのように、静かな眸が真っ直ぐに慎吾に向けられる。
「山縣さあは、己が身ば捨てっ覚悟で、兵部省ば預かっち」
『薩摩人が何十人列を成して斬りにこようと、それが何じゃっちゅうんじゃ』
突き刺すような眸で慎吾を睨みつけて、有朋は怒鳴った。
『おめえはこのわしが、そねえなもんで怯むような半端な覚悟で、一省を預かっちょると思うちょったんか。上官を侮辱するんも大概にせえっ!』
山縣さあ。
おいは、ただ。
山縣さあが大事で。
一緒にいたくて。傷つけたくなくて。傷ついて欲しくなくて。
多分―――兵部省よりも日本国よりも、有朋のことが大事で。
誰よりも何よりも、あの人が愛しくて。
でも、きっとあの上官には、自身よりも慎吾よりも、兵部省と日本国が大事で。
もう、やめよう―――と。
胸が痛くなるような縋る眸をしながら、それでも慎吾の手を振り払った。
でも、そんな男だからこそ―――慎吾には、どうしようもなく愛しくて愛しくてたまらなくて。
あの男が好きだ。やめようと言われても、たまらなくあの男が好きだ。
「一蔵さあ」
兄代わりの静かな眸を見つめて、慎吾は尋ねた。
「一蔵さあは、政府と兄さとどっちが大事じゃ」
大久保は、御一新前には吉之助の盟友として政治工作に明け暮れていた。盟友である吉之助が、二度自殺を図り、二度島流しにあった激情家で、時に突発的ともいえる行動を取るのに対し、大久保の行動はいつも慎重で冷徹で粘り強い。権力者を見極め、情勢に応じて注意深く身を処す。慎吾はこの兄代わりの暖かく誠実な人柄をよく知っているが、無口で沈着な大久保は周囲から誤解を受けやすく、血の通わぬ冷酷な策謀家だと非難されることも多い。
大西郷吉之助の存在なくして、大政奉還も王政復古もならなかっただろう。その存在はそれほどに大きい。だが、この冷徹な大久保の存在なしに、西郷吉之助という男は、ひょっとすると存在し得なかったのではないか。
最初のコメントを投稿しよう!