場面七 虫の音響く秋の夜(三)

1/1
前へ
/44ページ
次へ

場面七 虫の音響く秋の夜(三)

 大久保は弟分の問いにわずかに眉を上げた。 「そん問いはおかしかのう」  答えは、少し間をおいて、普段と変わらぬ静かさで返された。慎吾は目をパチパチさせる。 「吉さあは日本国んために生きとっ男じゃ。政府は日本国のためにあるもんじゃっで、政府を大事にするんも吉さあを大事にするんも同じこつじゃ」  理路整然と反論されて慎吾は言葉に詰まったが、それだけでは納得できず、慎吾は更に尋ねた。 「もし、日本国んために兄さば切らんばならんとしたら」 「………」  大久保は黙った。煙管をくわえ、それから、ふうっと闇の中に煙を吐きだす。  普段なら、大久保はこんな「もしも」の話を嫌う。大久保の長所も短所も、その「現実感覚」にある。現状を見極め、妥協を厭わず「漸進」していくのが大久保のやり方だ。そのために、「理想」や「理念」を欠いていると批判されることもある。  尋ねはしたものの、これは答えてはくれないだろうな、と慎吾は半ば諦めていた。  だが―――相手が慎吾ゆえの気安さか。それとも、これが慎吾にとって重要な問いだと、「兄代わり」の勘で察してくれたのだろうか。大久保は長い沈黙の末、口を開いた。 「そいは、おいが思う日本国の形と、吉さあが思う日本国の形ば違うた時か」 「………」 「吉さあが、こん日本国と相容れんこつばなった時か―――」  鈴虫の声。松虫の声。コオロギの声。  秋の長い夜の中に、様々な声が響いている。まるで、今の日本国の姿のようだ、と慎吾はちょっと思った。  コン、と、大久保は煙管で煙管盆を叩いた。 「そん時は、おいは日本国んために吉さあを切っじゃろう」  静かな口調で、大久保は言った。 「よか日本国ば作っこつが吉さあん最大の望みじゃち、おいは信じとっでの」  再び煙管をくわえ、大久保は輪郭だけが浮かび上がる木々を遠く眺める。 「もしもおいが間違うて、吉さあを犬死にさせたち判ったら………そん時は、こん腹ばかっ切って地獄で詫びば入れっで。そいが、男子が同じ夢ば見るちうこつじゃち、おいは思うとる」  あの「御一新」以来、断固として政府に身を置き続けた大久保。その大久保の「覚悟」に、慎吾は圧倒されるしかない。  兄吉之助が、この大久保に絶大の信頼を寄せていることを、慎吾はよく知っている。そして、大久保が三歳年長の吉之助を心から尊敬し、慕い、共に闘ってきたことを。  二人の男が、互いを選び、選ばれて、そうして同じ夢を見た。  その―――奇跡のような出会いと絆。  慎吾は大久保の横顔を見つめ、その眼差しの先に確かに存在する、兄吉之助を思った。  そして、有朋を思った。  この国のためなら、自分の名でも体でも好きに使っていいと有朋は言った。悪口も憎悪も、殺されることさえ恐れない。それだけの覚悟で、慎吾に鹿児島藩兵の統率を任せた。  いつもいつも、一旦決意すればとことん肚を括って、そして捨て身で人を信じる。自分の全てを任せてくれる。  あの愛しい細い身体を、初めて抱いた春の夜も。  男と情交の経験などなかった有朋のほうが、慎吾よりも遥かに肚が座っていた。 『この身体、今夜はおめえにくれてやる。どうにでも、勝手にせえ』  そんな男の信頼を、慎吾は『無理だ』の一言で裏切ったのだ。誰よりも幸せでいて欲しいあの愛しい人を、失望させ、悲しませ、苦しませた。 『わしとのことは………おめえにとって(かせ)にしかならんのか』  きっと誰よりも慎吾を評価し、手をかけ、目をかけて、辛抱強く慎吾が育つのを待ってくれた人に、何と酷い言葉を口にさせたのか。  吉之助の最大の望みは、よき日本国を作ること―――そう断言した大久保のようには、慎吾はあの上官の夢も、そしてあの男自身のことも、多分、理解できてはいないけれど。そして、傷つけたくないという思いと、共に戦いたいという願いは、今もなお、慎吾をためらわせもするけれど。  それでも、絶対に手を離してはいけなかった。  有朋が相棒に自分を選んでくれたのなら、自分でいいのだと信じたい。互いに、選びあった絆だと。  慎吾は、大久保の横顔に呼びかけた。 「一蔵さあ」  大久保は、変わらぬ穏やかな眸を慎吾に向ける。  今や大西郷と並ぶ鹿児島の領袖で、政府の大黒柱と囁かれる大久保を、この名で呼ぶ者が何人いるのだろう。そんな事を頭の片隅で思いながら、慎吾は大久保にきっちりと向き直り、床に手をついて頭を下げた。 「あいがと」  兄たちに叱られては大久保の邸に逃げ込んだ、あの幼い日々から、ずっと。  背に負ったり、手を引いたりしてくれることこそなくなったけれど、今もこの兄の親友は、その存在そのもので、慎吾を力強く導いてくれる。 「ちっと、行かんばならんところば出来たで、失礼しもす」  大久保は頷き、「手ば洗うて帰いやんせ」と頬笑んだ。
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加