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場面八 君と見る夢のかたち(一)
馬車を使うような距離ではなかったので、月明かりを頼りに、有朋は夜道を徒歩で戻った。九段坂の自邸が見えるところまで来ると、門の前に何か黒い塊が無造作に捨ててある。
―――と思ったら、近づいてみると、そこにうずくまっているのは、間違いなく兵部省の年少の部下だった。
「西郷君?」
有朋は唖然として相手の名を呼ぶ。
「何しちょる、こねえな所で」
明朝、自分から慎吾を訪ねようと思っていた有朋は、奇襲を受けたような気分で、内心狼狽しつつ尋ねた。
和服姿の慎吾は顔を上げ、へらっと笑う。
「やっと見つけたがあ」
「………」
人の邸の前でうずくまっていて、その言葉の使い方はおかしかろう。
「山縣さあと話ばしとうて、兵部省ば行ったら帰ったち言われて、ここまでやってきたどん、ここにも帰っとらんち。いけんすっかち思いよったがじゃ」
どうしようかと思って―――一体いつからここで待っていたのか。時刻は既に十時近い。
「何の用じゃ」
うずくまっていた慎吾が片膝を立てたので、立ち上がるのかと思いきや、そのままきっちり正座した。立ち尽くしたままの有朋の顔を、くるくるした大きな目でじっと見上げてから、慎吾は両手を地面について平伏した。
「どげんも、もっさけなかこつでごあしたっ」
顔を伏せたまま、太い声で慎吾は言った。
いくら人通りがない夜中とはいえ、門の前で突然土下座され、とっさに有朋はどう反応していいのか判らない。慎吾は謝罪の言葉を言ったきり、後は刑の宣告でも待つかのように神妙に手を突き、ぴくりとも動かずにいる。
もう少し、説明とか釈明とか、続ける言葉はないものなのだろうか。
慎吾の大柄な背を見下ろしながら、有朋は頭の片隅でそんなことを思い、ついでじわじわと安堵がこみ上げてきて、それから次第におかしくなってきた。
西郷君。
この男は、本当に―――
有朋は慎吾の前に片膝をついた。
「西郷君」
肩に手を置こうとして、じく、と胸が疼き、有朋はギョッとして空中で拳を握った。
まずい。
今、手を触れたら―――多分、歯止めが利かなくなる。
この男の身体を強く抱いて、首筋に顔を埋めて、その熱を感じて、その存在を味わいたい。心の底から安堵して、全身で深呼吸したい。
お前に焦がれるこの心と身体の悲鳴を、なりふり構わず叩きつけてしまいたい。
その切望を、どうにも抑えられなくなりそうで。
我ながら、この身はどれだけ浅ましいのかと、有朋は自嘲の笑みを口元に刻んだ。
『おまえさんに、そんな器用なことは出来やせんよ』
井上の言葉が、不意に耳元に蘇る。
『取るか、捨てるかじゃ。中間はねえ』
認めたくはないが、井上の言葉は正しい。
兵部大輔として、必ずこの男を兵部省に引き戻す。そう決意して戻ってきたけれど。そんな立場などかなぐり捨てたくなるほど、有朋は、ただこの男が欲しい。
有朋は拳を握ったまま、もう一度「西郷君」と呼んだ。
「ここじゃ何じゃけ、中へ入れ」
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