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場面八 君と見る夢のかたち(六)
有朋は、せめて軍服を脱いで和装に着替え、恋人と二人でしんと静かな秋の夜道に出た。
慎吾に「変装完了じゃ」とからかわれ、有朋は苦笑する。
まさかこの自分が、情事のために「身をやつす」とは思わなかった。
だが、並んで月の下を歩くのもいいものだ。ふとそんな事を考え、自分のおめでたさに呆れ果てる。こんな気持ちは、とても隣の男に話せたものではない。
そして、話せたものではないのはそれだけではない。
「じき、中秋の名月じゃ」
風流事には疎いほうの慎吾が、珍しくそんなことを言った。今夜は十日。月が満ちるまで、あと五日間だ。
ん、と有朋は生返事をし、澄んだ光を散らす月を見上げ、それから震える息をそっと吐き出す。
こんな風に並んで歩くのは新鮮で、普通の状態であれば、隅田川にでも足を伸ばして、ゆっくりと秋夜のそぞろ歩きを楽しみたいとも思う。
普通の状態であれば、だ。
厠へ行ってくる、と軽く言える慎吾が羨ましい。有朋とて男であるので、一旦高められた情欲は、そう都合よく鎮まりはしない。堰きとめられた欲望は解放を求め、身の内からじりじりと有朋を灼く。
先刻は家人の目、という絶対的なものがあった故に必死に自制したものの、それこそ今、草むらに連れ込まれて挑まれていたら―――多分、流されてしまっていただろう。
たかが抱きあって口付けを交わしただけで、こんな風になるとは。浅ましい、淫らな身体だと自嘲の笑みを刻むしかない。何故これほどまでに、有朋の身体はこの男に飢え、渇いてしまうのか。さして肉欲が強い方だと感じたことはなかったのに。
「一緒に月ば見れっじゃろか」
有朋の葛藤などまるで気づく様子もなく、呑気な口調で慎吾は言った。会話に集中しなければ、と有朋は小さく息を吐き出し、「そうじゃのう―――」と口を開く。
多分その日は、宴会好きの長州人たちが月見を口実に集まりそうな気がする。どうせ月見そっちのけのどんちゃん騒ぎになるだろう。その喧騒の中に身を置くよりは、恋人としっとり名月を眺める方がはるかに魅力的なのだが、長州人の宴会を断って逢引に赴くというのも何となく気が引けるし、後が怖い。ただでさえここ五日間は仕事が進まず山積みになっているから、仕事をするのが一番いいかもしれない。
「………仕事が溜まっちょるけ、無理じゃろう」
期待させても悪いので、有朋はそう答えた。慎吾は少しだけ物足りなそうな顔をしたが、すぐに気を取り直したらしく、「そいなら、おいもそん日は居残って仕事ばすっか」と笑った。
何じゃそれは。兵部省で月見をする気か。
「帰れるもんはきちんと帰れ。油代も馬鹿にならん」
「………またそげんこつ言う」
「兵部省の台所は火の車じゃ。把握しちょるか」
「おいがそげなこつ、把握ばしとっはずがないがじゃろ」
けろりと言われて脱力する。尋ねた有朋がバカだった。
「………今度、寝物語に兵部省の会計についてじっくり講義してやる」
低い声で言ってみれば、慎吾はとぼけた声で応じる。
「そや、ほんごつよう寝れそうじゃのう」
「………」
本気なのか、それともうまくかわされたのか。馬鹿馬鹿しくなって有朋も苦笑する。
秋の月光は案外に明るくて、足元に薄い影を落とす。影を踏みながらしばらく黙って歩いた。
「………おめえは、多分それでええんじゃろうの」
頭上に黒々と広がる無窮を見上げて、有朋は言った。
「きっと、おめえはわしとはまるで違うやり方で、兵部省と日本国を支えてくれる」
「山縣さあ―――」
「わしは、そう信じちょるけ」
遠く、近く、虫の音が響いてくる。
お前に飢える欲も、部下として信頼する思いも、そして、いずれは自分の手を離れ、日本国を支えて欲しいと思う気持ちも、全て有朋の中の偽りない真実の気持ちだ。
お前を信じる。お前を欲する。
お前を、愛する。
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