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場面十 未来に咲く花
休み明け、慎吾はおよそ十日ぶりに、恒例の「陸軍通達」を持って、大山と共に鹿児島藩の屯所へ赴いた。
「慎吾どん」
「おお、慎吾どんやないかあ」
門をくぐり、邸内へ入ると、通達などそっちのけで、わいわいと鹿児島兵たちが集まってくる。庭からも奥からも、喩えは悪いが砂糖にたかるアリのように黒い軍服の男たちがウジャウジャと寄ってきて、たちまち慎吾は囲まれてしまった。
「慎吾どんが体ば悪うしたち、一体何が起こったがか」
「桐野があんまい苛めっからじゃ」
「苛めっち何じゃあ」
口をへの字にしつつ、桐野にも普段の勢いはない。
慎吾はガリガリとザンギリ頭を掻きながら言った。
「布達やら規則やらあんまい難しゅうて、何や熱ば出てしもうた」
鹿児島兵たちはどっと笑う。
「そや、稚児がようなる「知恵熱」ちうやつじゃ」
「字が読めん慎吾どんにはちっと無理じゃったのう」
口々に言って慎吾の頭を叩く。
大山には昨夜、手土産の煎餅をぶら下げて謝りに行き、頭を一発殴られた。話を聞いていたらしい海軍担当の川村小輔は、今朝、兵部省で慎吾の顔を見ると、いかつい顔に苦笑を浮かべ、無言で慎吾の肩を叩いた。
有朋はいつものように衝立で仕切られた執務机に慎吾を呼び、辞表を返した。慎吾のワガママも、あれだけ乱れた甘い夜も、何事もなかったように、いつもの落ち着いた上官の顔で。それから大山も呼び、淡々と通達を渡し、今日の指示を出した。
慎吾は兄が好きだ。大山も、大久保も、血の熱い薩摩兵児たちも、みんなが好きだ。「郷中みんなの慎吾どん」と呼ばれ、愛され、許され、可愛がられた。
それでも、たった一つを選ぶとしたら、慎吾はあの上官を選ぶ。
その目が真っ直ぐに見つめる夢の形を、慎吾も迷いなく見つめてゆこう。十年先、五十年先の、遙か未来に花開くように。
死んでいった者と、生きている者と―――そして、生まれてくる者のために。
*
「大久保さん」
大蔵省に出仕した井上は、手に提げていた子供の頭ほどもある風呂敷包みを、大久保の机にポンと置いた。大久保はわずかに眉を顰める。
包みから漂ってくるのは、間違えようのない、濃厚なヌカの臭いである。形から、桶に入れてそのまま持ってきていることが判る。
目で意図を問う大久保に、井上はニッと笑う。
「わしの数多い得意料理の内でも、これは格別。この日の本でも五本の指には入ると囁かれる名品、井上馨特製タクアンじゃ」
大久保は包みをつくづくと眺め、「わたしにですか」と尋ねた。
「漬け物好きじゃと聞いた」
ヌカの臭いはゆっくりと確実に、大蔵省の仕事部屋に広がりつつある。
「おかげで兵部省も落ち着いたようじゃ。ご協力感謝する」
軽く手を上げ、井上は自席に戻った。当然、自席の周りにもヌカ特有のすえた香りが漂ってきている。
一体何の嫌がらせか、とでも思っているだろうか。相変わらずの無表情で包みを見つめる大久保をチラチラと眺めつつ、井上は一人ほくそ笑む。
半分はれっきとした感謝。そして半分はイタズラ心。
果たしてあの大久保が、ヌカの香りがプンプンするあの桶をどんな顔をして自宅へ持って帰るか。なかなかに見物だという気がする。
出仕してきた職員たちが、一体何の臭いかと室内を見回し、大久保の机に視線を向け、ついでギョッとした様子で一様に目を逸らす。井上は胸の中でケケケと笑いつつ、
「さあて、仕事じゃ仕事じゃあ」
とわざとらしく言って腕まくりをした。
(了)
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