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1
馬駆ける
時は中世、鎌倉時代。源頼朝の死後、五年が経ったある日。
夜明け前の闇を突き抜けるごとく、白砂に夥しい足跡を残し、海辺を疾走する。
馬首の影は幾重にも重なり、霞みに映えた白いたてがみだけが行く先を暗示するかのように、分厚く沈んだ海面の雲を飛ばして行く。
「見よ、、もう朝焼けは近いぞ」
馬上から声を掛けられた牝馬は、首を上げることもなく、ただひたすら前へと進む。
女は自分の声の微動に反応しながらも、外気の寒さと馬の背の温もりを感じつつ、瞬時に前方の海原に目を移した。
夜明け前の群青色に染まった海面は、満々として、地平線は一筋の線で結ばれていた。
女の白い肩は、朝の白露と波の飛沫が重なり、およそ皮膚の表面は冷たいが、なんと内側は汗ばむほどだった。
片袖を下ろし、胸にはみ出た膨らみをさらしに仕舞い込み、袴姿で馬上の手綱を握った女は、小夜という名の、御歳二十一になる、島一番のおはね娘であった。
小夜は早朝、一刻(三十分)ほどある海岸線を、愛馬の白美と島の外れの洞窟まで駆け抜けるのが日課であった。
父から譲り受けた愛馬の足慣らしの為であるのはもちろんだが、自分の精神的な解放感を得る為のものに相違なかった。
そのことは、今では人馬一体を互いに認めざるを得ない。
島の洞窟というのは、潮が上がる岩陰にあり、島の村落からでははたして見えにくい。小夜も近くまでは行くが、中へ入ったことは一度もない。
その昔、偉い坊さんが海の時化で遭難し、その洞窟に瀕死の態で辿り着き助かったという村人の噂はあるが、あまり確かではなさそうだ。
ふと見ると、彼方の地平線が膨らみ掛けて来た。薄い光を水面に映して、中天の雲の端が、朱に色取られている。
しかも西の空は、分厚く思われた雲間から、こちらも茜色に染められた光の影が透かしを見せている。
だが、月は申し訳なさそうに、淡黄色に浮かんでいるだけだ。
と、海上に鳶が一羽、声を上げて鳴いた。
穏やかな夜明けの風景の中、小夜は、一点の波間に目をやった。
「あれは、何かしら」
と、波間に浮沈した一点を見つめた。
白美も歩を緩めながら、馬上の手綱に身を任せている。
鳶が空中を低く飛んだ。
浮遊物は、海の藻のようでもあるし、流木にも見える。はたして海の藻に木の根を取られて浮沈を余儀なくされているのか。
いやいや、どうやら違うようだ、木の枝とは感触がまるで違う。
「ややっ、人ではないか」
馬上の小夜は、思わず手綱を強く握ってしまった。
白美は驚いたように前足を上げると、足をばたばたさせた。
「どうどう」
小夜は、首を上下に振る馬のたてがみを撫で付けると、落ち着きを取り戻したのを見計らって、馬から降りた。
そして改めて薄闇の海面を見つめた。やはり、何かが浮いている。
波は、浮遊物を持ち上げると、砂浜に近付いて来た。うつ伏せになった布が、板に引っ掛かりつつ、波の後ろに戻ろうとしている。
小夜は訳も分からず、浅瀬まで足を踏み入れて、その布を引き戻した。
布は重く、また砂利や藻が絡み合っていて、何より潮の香が鼻につく。
…海から来た紛れ物…。
板ごと波打ち際まで引き寄せて、ずぶ濡れになったその布を両手で掴み仰向けにすると、なんと水干姿の若者の顔がそこにあった。
襟首は上がり、烏帽子は顔の半分を占め、口は真一文字に襟の下にある。顔全体は蒼白にして、唇は血の気なく、まるで長い眠りを強いられているかのようであった。
小夜は、ただならぬ悪寒を感じた。
さても、息はあるようだった。唇に手を当てると、冷たいが微かな息が伝わった。
舟で遭難してここまで、辿り着いたのだろうか。海に落ちて、偶然流れて来た板に掴まり難を逃れたのだろうか。
だが、ここ数日、海が荒れた様子はない。
地平線が徐々に盛り上がって来た。まるで生き物のように、水面に朱の帯を垂らして、今、陽を迎えようとしている。
白美が足で、砂浜をしきりと掻いている。 何かを、感じているのか。
助けを求めに行けとでも言っているのか。
小夜は、白美の後ろ脚を折らせ、若者の腕を逆さ手に取って、自分の背中に背負うと同時に白美の背に下ろした。ちょうど、寝ている身体ごとまたがらせる格好で乗せたのだ。そして若者が落ちないようにそっと白美を立たせると、横から庇うようにして手綱を取り、洞窟の方へと歩き出した。
2
村の外れの洞窟は、ちょうど小島の北西にあり、近海の潮が上がる岩場にぽっかり口を開けて待っているかのようだった。意外と中は広く、奥行きもありそうだ。岩畳みを何とか白美と歩いて渡ると、時より紫色をした波が押し寄せた。
ちょうど、海面は日の出を見ている頃なのであろう。
洞内は陽の光で、却って暗く感じたが、眼を凝らすと、神気さえ感じた。
またもや白美の腰を低くして、若者の身体を下ろすと、若者は、布が零れ落ちるかのように、洞内の底に横たわった。
ひひん、
突然、白美はそれを見て、洞内を一巡し始めた。
初めて洞窟に入ったので興奮したのか、やがて奥の窪みで溜まった岩清水を飲み始めた。
と、目を凝らして奥洞内をよく見ると、釣り針らしき物やヤス先が、そこここと石畳に散らばっていた。
やはり、ここで遭難したという例の坊さんが過ごしていたのは、本当だったのだろうか。
小夜は、枯れ草や流木を拾い集めて、馬の鞍にあった火うち石でそれを燃やした。
そして、若者と一緒に辿り着いた板を乾かしながら、若者の身体に掛けた。
若者は小夜の腕で眠っていた。
烏帽子を取ると顔がむき出しになった。
瞼は閉じているが、眼鼻立ちが整っていて、目じりが精悍である。
[ややっ、誰かに似ている」
小夜はまばたきをしてからもう一度見つめた。
ちょうど朧月が入口に掛っている。
……ややっ、坊に似ておるではないか ……。
小夜は抱いている腕を一瞬緩めると、また覗き込んだ。
ゆらり、ゆらり、焚火の火と重なって坊やの面影が走馬灯のように浮かんだ。
おちょぼ口で眠っていた乳飲み子、手のひらを遠くかざしながら眠っていた子…。
小夜は、呆然とした。
白美は奥でうずくまり、身体を休めている。
突然、
「白美!」 愛馬を呼んだ。
白美は悠然と身体を起こすと、小夜の側に来て、若者の顔に鼻先を近付けた。
「白美、よく聞いてくれ、家に帰って爺やを連れて来ておくれ、荷台を付けてな」
小夜は、荷馬車の格好をして白美のたてがみを撫ぜた。
「よし行け、頼んだぞ」
白美はしどろもどろに歩いたが、やがて砂浜に出ると、勢い走り出した。白美の白いたてがみは、昇り切った太陽の元、紫の有体となって砂浜を駆け抜けた。
「白美、頼んだぞ」
小夜は、心の中で叫んだ。
島は、相模湾にぽつんと浮かんだひようたん型をした島だった。 島民は自給自足で生活しており、島内を歩いても一時(二時間)ほどで辿り着く小さな島だった。
家はまだ眠りから覚めたばかりに静かだった。鶏が白美の側に来て鳴いた。
「へえ、旦那様、驚いたことに白美だけが帰って来やした。何かあったんですかね」
爺やがそう言うと、白美が突然後ろを向いて、首を垂らし、一歩一歩、歩いて見せた。
「おや、何か言ってるんじゃぁないですかね」
「どうした白美、小夜が怪我でも」
家の主の一松は、口早に聞いた。
白美はもう一度同じ動作を繰り返した。
「何だ、一歩、一歩、歩いて見せてるな。ひょっとすると荷馬車ではないかのう」
爺やは、ぽつりと言った。
「うむ、確かに何かあったに違いない、一応荷車を用意して白美に付けてやれ」
一松は、板戸を一枚こじ開けると、庭まで降りて来て白美のたてがみを撫ぜた。
爺やは厩から荷車を出して来て、白美に装着すると、やがて白美にまたがった。
「おい、小夜様のところへ案内してくれ」
爺やは、家主の一松に乗馬を許されたので、少し偉くなった気分で、馬上の人となった。
小夜は若者を腕に抱いて、その深い眠りに添って、自分の呼吸を合わせた。
十か月前、ちょうど我が子をこの胸に抱いて乳を飲ませたことに気が付いた。
と、同時に子宮から込み上げる疼きを感じていた。
…ああ、未来から来た海の紛れ者…。
小夜 はさらしで締めた胸先に、若者の顔を近付けた。
若者は眼を半開きにすると、また閉じた。
乳はまだ出る。この生き身の乳を何で消されよう。
陽は既に高く、雲はゆうゆう形を変え、光の模様を作っている。と、見ている内に玉虫色の紋様から青紫に変わり、ついに雲の尾ひれから龍が現れた。 鼠色の胴体に黒い二つの眼。寝ているようでもあるが、また下界を睨んでいるようでもある。
小夜は不思議と思ったが、心は神々しさに満ちていた。
白美のひづめが聴こえた。
小夜は片袖を上げると、そっと若者を石畳に寝かし、馬上の助っ人を迎えた。
「小夜様、ここでしたか」
爺やは砂浜に降りると、白美のたてがみを撫ぜた。
「爺や、来てくれたのね。この中に人が倒れているの、見てやって下さい」
小夜は洞内を案内した。
「おや、これは何と…」
爺やは若者を見るなり、絶句した。
「早朝、砂浜に流れ着いていたのです。まだ、息はあるようです」
と、小夜が答えると、爺やは、
「これはたまげた、さっ、小夜様何はともあれ家に連れて帰りましょうや、このままじゃ、本当に死んでしまう」
若者を二人で馬車の荷台に乗せた。
家の回りは、朝餉の匂いであふれていた。垣根の先に雀が止まり、近くの山間にある鐘が一つなった。山間の麓の畑には、大根や白菜が収穫されている。
家には垣根はあるが木戸はなく、そのまま入って行かれるが、敵が攻めて来た時に備えて、槍や弓矢などが、厩の倉に備えてある。
「旦那さん、たいへんです、人が、人が…」
爺やは、家の中にいる主を呼んだ。一松は、板戸を開けて待っていた。
「おう、帰って来たか」
「連れて来ました。侍のようです」
爺やの声が際立った。
「父さん、このお侍さん島に流れ着いていたの、何だか息はありそう」
小夜も、父親を見て安心したのか、爺やの口調に合わせて、ことの次第を父親に告げた。
一松は、庭に降りて来るなり、若者を見た。
「やや、これは何ということじゃ、いかんな、さっ、みなして家の中へ」
居間の隣の寝間に寝かせた。
小夜は、それを見届けてから、白美に餌を与えた。白美は、歯を剥き出しにしてその人参をムシャムシャと食べた。
「父さん、助かるわね、きっと、」
小 夜は、寝間に寝かされた若者がより小さく感じられたので、そう言った。
「ふむ、小夜、先ずは着物を脱がせて上げなさい、父さんのがあったじゃろ」
「ああ、そうだわね。随分と焚火で干したんだけど…」
小夜は、居間から父親の小袖を取って来て床に座った。
水干姿の若者は、分かっているのか分からないままなのか、判然としないが、その表情はどこか和らいで見えた。
と、小夜が着物を脱がせてみると、腹の辺りに傷のようなものがあった。
「父さん、これ、これを、見て」
「何じゃ、素っ頓狂な声を出しおって」
「この、お腹の辺り、これ傷?」
「ふむ、これは真に刺し傷じゃな。だが…、傷の位置が…ちと変じゃぞ、左から入っておる、…ふむ、それに何と」
一松は、若者の顔を改めて見た。
「まさか…、泰明様では…」
一松は絶句した。
と、見る見る一松の表情が険しくなった。
「家中の板戸を、全部閉めろ」
一松の声が、家中に響き渡った。
3
「おぉ―っ」「おぉ―っ」
怒号と共におおよそ二十年前、一一八十年、伊豆での頼朝の旗揚げの期を同じくして、衣笠城での死闘の一日が始まった。
一松は、戦いの模様を静かに語り始めた。
わしは、先代の祖根谷和正様にお仕え申しておったのじゃ、祖根谷様は三浦一族の家来でな。わしは主に馬の世話をしていたのじゃがな、だからあの白美よ。お暇申し上げる際に、つまり二十年後、義明様の子、義澄様の代に、母親の牝馬から白美を貰い受けたのよ。祖根谷様は、三浦様から館を頂戴して、普段は領地拡大の諸事で三浦介(義明)様のお世話をやられての。よう、可愛がられた。
……ところで戦いとな。もともとは、つまらんことで始まったのじゃて。
伊豆で大庭景親に率いられた平家側の武士と戦った所謂、石橋山の戦いでな、わしら三浦側も、総勢、そうじゃなあ、三百八十っていうところかな、詰めかけようと城を出発したのじゃ。すると、なんてこったあ、酒匂川が氾濫して渡れんのじゃ。折からの暴風雨でよう、そうしてる内に頼朝公の負けが決まったとな。
仕方がない、城(衣笠)へ帰ろうとしたのじゃよ、で、その帰りにだな。ちょうど由比ガ浜を通っていた際に、例の畠山(武蔵野国)とばったり出くわしてな。あ奴は当時、平家側に付いておったのじゃが、向こうも武蔵へ帰るところじゃったらしい。何でも三浦様とあ奴は親戚同士であるらしく、ここで別れようという話になってな、我ら三浦一族は勿論衣笠城へと帰ろうとしたのだが、だがな、奴らは本当に城へ帰るのかとわしらを追って見ていたのじゃと。それを杉本城で見ていた三浦義盛様の弟で、義茂様が、相手が一戦を構えようとして追いかけておると勘違えしおったらしく、ついに合戦となってしまったわ。何てこった。仕方なしに、我らは相手に一撃をくらわしたのじゃ、そして、即座に城に退散したのじゃが。したらじゃな、畠山が思いも掛けず我らの城に押し寄せて来おったのじゃ、たまげたな。とにもかくにも、はー、それは壮絶じゃった。
何と、何と、奴らは既に大手の坂道まで来ておる。城は小高い丘に面しているので傾斜もかなりある。
そこで義明様は、
「木戸を三重にしろ、大手口は、馬二頭通れるぐらいだぞ、大堀を掘れ、道は三重堀にして広い橋、細い橋、そして、最後の堀は逆茂木を構えよ」と、手早く命令を下されたのよ。
我らは死に物狂いで、堀をほったのじゃ。
おうよ、藪から矢を射たり、馬の腹を槍で突けば敵は落馬し、堀や沼の中に落ちるという仕掛けじゃ。……だが、どうにも腑に落ちんのじゃ、どうして、こうなってしまいおったか。我ら真に城に帰るつもりだったのじゃ。いや、その時は、もちろん考えておる暇などなかったけどな。いやはや「裏切り者じゃ」「そちとら」とか心の中でわしはそう言っておった…。したらじやぁよ、敵はみるみる逆茂木で倒れて行くのよ。
我らの矢が馬を射る、敵の矢は山肌を空振りする。幾度もそれを繰り返す内に次第にこちとらの勢いが切れて行くのが、残念ながら分かったのじゃ。
だんだん敵が真近に見えて来た。その瞬間、喚声と共に奴らの雄叫びが耳をつんざいた。
「やあ、やあ、やったあ、」
三重にした木戸の一番目が壊されたらしい。
敵は三千、我らは四百数十騎だからな、その日はどうにか持ち堪えられたがな、しかし敵の主力の他に、何と更に新手の奴が明日にでも襲いかっかって来るというのじゃ。
夕陽が迫っとった。風も強くなりおった。
明日は、いよいよ討死になるかも知れん。
我らは、一か所に集められ、義明様が語られたのだ。
「死ぬな、何も犬死を急ぐことはないぞ」
「早く逃げろ、ただ、俺はここに留まる」
と、そう仰せられた。
わしはその時の義明様の姿を、今もはっきりと覚えておる。毅然とされ、彼方の海を見つめられておられたのを…。
(三浦義明の最期は、籠城の末果てたとも、また腹切りの松で腹を切らされたとも言われている。享年八十九歳…)
それでも我ら山の雑木林に身をかがめ、敵の情勢を見ておった。城は案外狭いが急で瘤がいくつもある。そこで矢を構えればと山を這って登ろうとしたがどうにもならんかった。
土砂が、風と共に立ち上った。それでもわしは、何故か死ぬ気はしなかった。
ここで相討ちをして果てるのが武士かも知れんが、義明様の言葉が頭を過ったのだ。
既に、二番三番目の木戸も破されたらしい。
「逃げろ!」誰かが言った。
わしは猿のように、いや、そうではないな。とにかく腰をかがめ山道を降り下った。
どう下ったのか今でも覚えてはいない。多分間道を隠れ隠れ下りて、海に向かったと思うが…。のう、山の上では火のうねり、けたたましい人のうなり声、まるで地獄絵図のようじゃった。
まして百姓家や町家の屋根の上にその閃光と喚声が響いて、わしは呆然としてしまった。
(ああ、これで三浦が終わる)とな。
しばらく歩いて行くと、月の下に海が光っておった。ぽっかりと浮かんでいるかのように、海は待っていてくれた。 わしは物陰に隠れ、様子を窺った。
と、「おい」と腕を掴む奴がいる。
(あっ、やべえ)、わしは肝をつぶし、身構えた。
「一松、こっちだぞ」野太い声。
その声に聞き覚えがあった。
恐る恐る顔を上げると、旦那様だった。
祖根谷和正様。紅顔に瞼はきりりとし、口ひげがある。
「旦那様!」
思わずわしは口走ってしまった。
「静かにしろ、この先に舟を隠しておる、そこに行くのじゃ、俺はここで見張っておるからな」
和正様は口早にそう告げると、
「早く行け!」と、追い払うような真似をなされた。
「そ、そんなめっそうもない」 と、わしは言うたのだが、和正様は、
「俺も後から行く」とおっしゃられてな、また闇に戻られた。
無事和正様やわし、そして三浦の生き残りの精鋭達と舟に乗って、未明に安房へと漕ぎ出したのだ。そこに心強いことに義盛、義茂様兄弟もおられてな。
案外、海は静かだった。
船が遠く彼方に一艘、泊まっていたようだが定かではなかった。
月の下のさざ波。
わしは、あん時ほど「生きているぞ」と思ったことはない。自然と涙が溢れて来た。と、
「あの舟は三浦のだよ」と誰かが言った。
「追っ手かも知れないぞ」また誰かが言った。
「待てよ、待てよ、頼朝公ではないか、よく見てみろや」
「どこだ、どこだ、えっ、あの舟か。そんな筈はない」
「だが、帆影から頼朝公の赤糸縅の大鎧なるものが、見え隠れしているではないか」
「そうだ、頼朝公に違いない、そうだ」
やんややんやの喚声が上がった。
何と、石橋山の戦いに敗れた頼朝公が、真鶴から我らと同じく安房を目指していたのだ。
わしは、助かったと思った。
頼朝公も我ら三浦一族も、それぞれの戦いで負け戦さだったのに、ここでお逢いできたのは、「奇跡、幸運」そういう他はない。
それから頼朝公の活躍は目覚ましいものじゃった。関東の武士団に迎えられて、一気に鎌倉に入り、一の谷や壇ノ浦の戦いを経て平家を倒し、みなも知っての通り征夷大将軍(一一九二)になられたのだ。
わしらも勿論、頼朝公に信頼が厚かった、我ら義明様の二男で義澄様に従い、しかし、嫡男の義宗様は残念なことに早くお亡くなられて、で、そのお子義盛様に従軍した者もおり、大いに戦い抜いたのじゃ。何せ向こうは(平家)、海に精通しておるからな、だけどな、こちとて捨てたもんじゃない。さすが三浦水軍よ。義澄様は瀬戸内海の干潮、満潮を見極められて、我らの勝利を導いたのは嬉しい話よ。
わし達は胸を張って、三浦に帰って来たのじゃ。その時三十七歳になられていた和正様と館を立て直し、近くの寺に匿ってもらっていた奥様と当時七歳になられていたご長男の明正様と、三歳になられていた泰明様をお迎えしたのじゃ。
その七年後に和正様は、四十四歳の若さで亡くなられたのだが…。ちょうど不思議と、頼朝公がお亡くなられた年でもあるな(一一九九年)。その翌年三浦の宗家をお継ぎになっていた二男の義澄様も亡くなられてな、それでわしらは島に帰って来たのじゃ。
おうよ、正しくここに寝ておられるのが。当時三歳だった二男の泰明様、祖根谷泰明様。
今は、おそらく十五歳くらいになっておられる筈じゃが…。
一松は、ことの成り行きを一気に語り終えると、眼をつぶった。
「こんなお姿でお逢いするとは…」
武士の寝姿は、弱々しく、永久の眠りのようだった。
長い話を聞き終えた小夜は、居間から茶を持つと、
「そのような、お話でしたか」
嘘いつわりのない昔の出来事に、ただならぬ感慨とこれからの行き先を暗示ずにはいられなかった。
―海から来た紛れ者―
して、ここに眠っておられる方は、明正様の弟様…。
小夜は、虚ろになった。
明正様の…、
また同じ言葉を繰り返して、口をつぐんだ。
4
爺やは薬草を湯で浸し、若者の傷口に当ててやっている。薬草は山から採って来た物だ。
「だでなあ、誰にやられたんだか、全く恐ろしいことをする者がいるもんじゃなぁ」
爺やはぼそぼそと口ごもった。
「それが済んだら朝飯を食おう、このことは、決して他言などしてはならぬぞ。よいな。恐らく、三浦で何かあったに違いあるまい」
一松は、側にいる家の者の顔を神妙に見ながら話を続けた。
「全く、頼朝公がお亡くなりになって以来、鎌倉は物騒だという話を聞いとる。して、直ぐに長男の頼家様が跡をお継ぎになったとか、と、それを補佐する為に頼朝公の舅に当たる北条時政様を含む十三人の御家人に依る合議制とやらを定めたらしい。それもな、その中に我らの義澄、義盛様、お二方が入っておられて、だが何と、残念ながら義澄様は翌年にご病気にかかり、お亡くなりになられた。で、それからというもの、我らの三浦一族の統制がうまく行かなくなって、特にご長男系である和田義盛様への力が、損なわれて行ったというのじゃぁ、全くのところ、これから何が起きてもおかしくないよなぁ」
一松は、誰に言うともなしに腕組みをして、首を捻った。
爺やもまた、湯で薬草を浸しあと、手拭いで傷口を軽く拭きながら頷いている。
爺やはもともとは半島近くに住む漁師で、合戦の舞台では、お互いに同じ釜の飯を食った仲で、退任後、島に魚を売りに来た換わりに島の野菜を貰って帰るのが常となり、二人は増して親しくなった。爺やは御歳六十一になる。
一松より四歳年上で、勿論、爺やも頼朝の旗揚げから全国平定まで、三浦一族の従軍として老兵でありながら勇敢に戦った。
尚一松は、妻をやはり四年前に亡くしている為、口は達者だが働き者の爺やを好ましく思い、また爺やの方も、一松のことを人間味のある主として信頼を寄せている。
「ほう、わしにはよう分かりませんが、確かに頼朝公様はご生前にも『義澄の下知に従うように』と我ら一族に言うておりました。わしら、お暇申し上げるのも、気が引けておりましたが、もう何せ歳ですからね。退任させて頂いた訳で、さてはてこれから、どうなることやら、いやはや…」
爺やは、分かった風な口を利いた。
すると突然、土間の方で女の声がした。
「あら、どうしたの、戸を閉めたりして、いないかと思ったわ」
見ると、小夜の妹のかよが土間の真中に立っていた。
「しいっ、そこを閉めてよ早く、かよ、いいから」
「閉めるわよ、だけど、何で、何かあったの」
かよは、島模様の小袖を着て、腰にはしびらを巻いている。髪は頭の上でまるめ、まるで南国風の格好である。島模様とは、波や草木を現わして、糸を紺や黄で染めて織る島独特の織物である。かよは、実家の裏でそれを生業にする機織り娘なのである。
その時、朝食を摂っていた小夜達は、
「そのお侍さんは、二代目祖根谷様の弟様の、泰明様ですよ」
「えっ、そうなの、またどうしてここに?」
かよは、聞いてはいけないことなのかと、口を手で塞ぎながら聞いた。
小夜は、ことの成り行きを話し始めた。
と、話を聞き終えたかよは、
「まあ、そんなことが今朝あったの、へぇー、でもどうして海で遭難だなんて」
と、考え込んだかと思うと、突然、
「ねえさん、私にいい考えがあるの、あのね、実はね、若奥様に坊やの一歳の誕生日に着る着物を頼まれていてね、三日後にその着物を届けるの、その時に、様子を…」
と、言ったなり、かよは「あっ」と言った。
「坊やの…」
小夜は、かよの戸惑いを受け止めてから、
「坊やの…、そう」
寝ている泰明の方に眼をやった。
「そっ、そうなの、もう十カ月になるらしいわ、だから、だから、お館様の様子をそれとなく探って来るから、ねっ、父さん、何か分かるかも知れないじゃない」
娘から早急な答えを求められた一松は、少々気をもんだものの、
「う―ん、それも一案だがな、くれぐれも気付かれぬようにな。尤も、あちら方では、弟様がいなくなったのをただ単に心配なされておられるかも知れんしな」
と、静かに言った。
「そうね、ここにいるとは、おそらくご存じないでしょうね。いなくなったこと自体も、ひょっとして気が付いておられないかも知れないしぃ…」
かよは、そう言いながら、隣の寝間で寝ている若者をそっと覗き込み、傷の具合を確認しようと掛けていた蓆に手を伸ばしたが、居間にいた小夜が、首を横に振っていたので、
「それにやっぱりお腹の傷が曲者よね、でも任せておいて、わたし、うまくやるわ」
そう言ってみなのいる居間に戻るなり、白湯をすすった。
果たしてその三日後、かよは、縫い上がった子供着を届ける為、祖根谷の館に向かった。
館は、衣笠山から少し下がった山伝いの村落にあった。
敷地内に入ると、真っ先に眼に止まったのが、厩だった。その天井の棚には、槍や弓矢が隠されているらしい。
なるほど、地方豪族の家来らしく閑散とはしているが、なかなかの構えである。
寒椿が実を重そうに、竹垣の隙間を埋めている。竹林に吹く風が涼やかで、熊笹が、音を出して小鳥を誘っている。 小鳥は、梢から梢を自由に飛び回り、館の平たい板葺き屋根に止まった。
庭の真中にある空堀の池には、木橋も掛っている。
見ると、若奥様の早苗と明正が板座敷でだんらんをしていた。
奥方の腕には、小さな男の子が健やかに眠っていた。
かよはその眺めを、木橋の袂で、見つめていた。
男の子は母の眼差しを受けながら、しきりに手を振り、眠っていた。
(姉上、お子ですよ)
かよは、口に手を当て、そっと小夜に届けとばかりに呟いた。
「…ありがとう…」
小夜の声が、庭の梢から聴こえたような気がした。
「ごめん下さいませ、島のかよが参りました。お着物を届けに参りました」
かよは、二人に聞こえるように言った。
二人は辺りを見渡すと、笑顔でこくりと頷いた。
「さあ、こちへ来なさい」
明正は手招きをした。
「お久しゅうございます。まぁ、お子様は大きくなられて」
かよの手は、陽ざしの中で、小さな手の行き先を誘った。
「もうそろそろ歩く頃かしらね」
早苗が、明正を見てから言った。
「十か月とはまだお早いでしょうが、もうひと月もしたらどうでしょうかね」
かよは未婚だが、島の子供達と遊んでいるので、子供の成長ぶりがよく分かるのである。
「ところで、かよ殿、一松と爺やは元気かの」
明正は、目線を少しずらしながら、かよに聞いた。
かよは、一瞬戸惑った。お陰様と言おうか、と逡巡した挙句、
「家の者は、みな元気にしております」
と、ただ言葉を返えした。
「…あのぉ、泰明様はお留守で…」
かよは、居住まいを正しながら、用件である秘め事を訊ねた。
「はて、泰明に、何か用か」
明正は、穏やかに聞き返した。
「いいえ、ただ、お見掛けしないようですので…」
かよは、明正の表情をそれとなく見た。
「あ奴は港へ釣りにでも行っておるのであろう。朝釣りとか、よう叔父上とやっておるからのう」
「叔父上様とですか、又造様と」
「おうよ、行けばなかなか帰っては来ぬのだ、全く呑気なものじゃ」
と、俯いて言った。そして、再び、
「おうか、元気にしておるか、白美もか」
何と白美のことを聞くとは、全く意を返す言葉も出ない。
それも、わざと姉のことを避けているとしか思えない…。
「はい…」
と、一応に返事をしてから、言葉が震えている自分に気が付いた。
庭でほととぎすが鳴いた。衣笠山から渡って来て沢を渡り、よく館に遊びに来るらしい。
二人に別れを告げると、かよは徐ろに館を振り向いた。
梢がささやき始めた。木漏れ日が揺らめき始めている。
「…何をなさるのです、お戯れは止めて下さい」
押し殺した女の声が、部屋の片隅にあった。
「止めて下さいまし、そのようなことは…断じて」
両腕を取られ、後ろから片袖を脱がされた。 小夜の身体は、怒りというよりも憐れであった。女として守りたい身体の芯へのこだわり。
…いいえ、誇り。
一松の顔が、ふと、部屋の隅に浮かんだ。 そして亡き母の横顔も…。
肩ははだけ、手で押さえ、抗っても必要に迫り来る…男の手。
よろめきながら瞼に溜まった涙を、天井の桟に滲ませながら、小夜は精一杯の力を振り絞り、男の吐息から逃げる。いや、自分の身体から逃げようとした。
私が悪いのでは…ない。
しかも、奥様もいない、そして大奥様までも…。
…………
小夜は、天井の桟が歪んで見えた。
初めての疼き、感覚、恥辱。
花芯まで届いてしまった失望感。
次に絶え間ない気だるさが、心をむしばんだ。
明正が何か言ったようだったが、何を言ったか分からなかった。
「こらえろ」
ぽつり、微かにそう聞こえた…。
廊下がきしむ。小夜は自分の部屋にどうやって戻ったか覚えてはいない。
奥の部屋は、暖かい陽射しに守られていた。
鳥の影が、蔀戸の隙間に映っていた。
涙が出て来た。自分の胸を数回、叩いた。
ここに来て四年、母が死んで父の退任と同時に若奥様の話し相手兼、お世話役として奉公に上がった。
若奥様は、お子様に恵まれなかった。
爺やの小舟が向こう岸に見えた。
懐かしい爺やの顔。
我が子が生まれて、八か月の間…、この胸に抱いて乳を飲ませ続けた。
陽だまりのような、暖かい肌。腕のくびれ、花弁のような手。
何と愛らしいお顔。 これからどんな夢を見て、何を思い、何に悩むのか。
小夜は、何度も何度も頬ずりし、涙を拭った。
日が暮れかけている。
島まではほんのわずかな距離。
だけど、何と、遠いのだろう、地獄の果てまでも遠い…。
「爺や―」
半島の岸まで迎えに来てくれている。爺やの顔はぼろぼろの涙の中だった。
「小夜様…お達者で、何よりだで」
爺やの手は大きくてごつかった。
やがて、島の灯りが見えて来た。
山間にぽつん、ぽつんと、生活の灯を灯して、海のしじまに落ちてゆく。
二か月の月日は、あっという間に過ぎて行った。
それから小夜にとって潮騒の音と、愛馬の白美が唯一の慰めとなった。
海から来た紛れ者。
瞼の裏がびくりと動いた。
白い雲が上へ上へと登る。
暗い世界で瞼の裏に映った白い雲は、水の流れのように上へ上へと登る。
と、突然、黄がかった瞳の中に、黒い点が数個現れた。かと思うと、その数個の黒点が一つの塊りとなり、今度は何とそれがみるみる崩れて行き、怖い顔の男の人相となった。 襟元がはだけ、頬に傷のある怪しげな男の顔。はたまた崩れたかと思うと、今度は不気味に笑った男の面となった。
寝ている若者は一瞬眼を半開きにしたが、また閉じ、足をつっぱらせた。
小夜達は、息が早くなった若者を見守るしかなかった。
そして徐々に若者は眠りから覚めた。
天井を見、そしてぼんやりすると、自分の顔の上で声を掛けている小夜の顔をじっと見つめた。
遠く虚ろな眼、
まるで近くに誰もいないかのように、ぼんやりとしている。
「ここが分かりますか」
小夜は、若者の瞳の中に呼び掛けた。
返事はない。
「だれか、水を」
かよが、持って来た水を受け取り、唇伝いに滴らせると、
「こ、ここは、どこですか」
若者は、か細い声で聞いた。
「島に流されて来ていたのです。分かりますか」
そう小夜が言うと、また半開きの眼で、首を横に振った。
「覚えてないのですか、何も」
そう言って小夜は、ジッと若者を覗き込んでいる一松と爺やの顔をそれとなく見やった。
二人は、険しい顔をしていたが、
「何も覚えてないとな、これはどうしたものか」
一松は首を傾げ、考え深気に顎を撫ぜながら、先日かよが館で聞いて来た話と合わせるようにして、
「やはり何かあったのに、違いない…」
と、誰に言うともなしに呟いた。
5
入江の沖合で釣り糸を、垂らしている。
まだ月がぼんやり岩陰に掛っている夜明け前、二艘の小舟が、海のしじまに漂っていた。
糸を飲んだ海面は、静かな浮沈を繰り返し、その時を待っているかのようだった。
「おい米さん、この頃調子はどうだい」
舟の縁に腰を下ろし、爺やは薄闇の向こうの相手に話し掛けた。米こと米吉は裏山に住んでいる。
「まあ何だ、めしはその日、その日どうやらうちの奴と食えるがな、これからは物騒で、おいおい寝てもいられないやね。いやな、頼朝公の遺児、頼家様が、征夷大将軍っていうのかい、おなりになったのは知ってるよな」
「ああ、十三人の御家人に依る合議制とやらを定められたとかつーやつだよな」
米吉が、いつもと違う調子で、何やら難しいことを言うので、爺やは焦りながらも自分の口の端に任せた。
「それは、何だ。もう昔のことよ。時代はどんどん変わるのじゃて。もともと合議制というのも怪しいもんでな、その中心は頼家様の母、政子と北条がほしいままにしていたらしいわ。まっ、聞きな。そんでもってよ、頼家様の舅の比企能員っていうお方を北条がよく思っていなかったんだな、どうも舅の立場を利用して力を付けて来るのが気に入らなかったんじゃねぇかっていうことよ。つまり政敵っていうのかな。それでよ」
「それで、どうかしたのか」
爺やも次第に話の内容が、気になり出した。
「どうかしたっていうもんじゃないのよもう、頼家様が北条らによって何と伊豆で謀殺されたらしい、それに義盛様も一枚加わっていたとかつー話だで」
「えっ、嫡男系のあの義盛様が、か」
「おうよ、これは確かな話しだで。何でも頼家様が病に伏し、危篤状態になっていた時、比企一族は、一幡と若狭局様を擁して小御所に立て籠もったはいいがよ、案の定、北条政子の名でな、御家人に討伐せよとの命令が下されてよ。依って比企一族は儚くも滅ぼされてしまったという話だで。病が治った頼家公はそれは怒ってよ、義盛様らに逆に北条を倒せとの御教書とやらを、頼朝公亡き後も頼家様に仕えていた、さあ、確か堀親家って言ったかなぁ、そこに使いを出したが、義盛様は、何と北条時政に届けてしまった」
「えっ、そんじゃ裏切り」
「おうよ、裏切りも大裏切りじゃて。その上、その乱の後、弟君の実朝様が征夷大将軍になられたとか、全く、めまぐるしい変わりようで呆れるばかりよ」
「依って、北条時政が、堂々の執権をとられたというのか。やや、恐ろしや、恐ろしや、本当に物語のようなことが実際に起こるものよなぁ」
爺やは、自分にはもう遠い存在の出来事だと思っていたが、このご時世では何が起きようが不思議ではないと納得しながらも、そっと、手先の糸を手繰り寄せてみた。
「おーっと、来たかな」
釣り糸は、青い藻を付けただけで、しぶしぶ海面へと沈んだ。
「ていしたもんだわ、お偉い人は、正にここが違うのか、のう、おいらと」
爺やは、呆れるばかりで、自分の頭を指で突いて見せた。
「おおよ、忘れとったわ、たいへんな話を昨日聞いたばかりよ」
「何んだ、これ以上脅かすなよ、手元がびっくりするがな」
「いや、いやまだある。驚くなよ、何でもよ、島に謀叛の若者が逃げ込んだっつー噂だわ」
「謀叛?」
「そうよ、あの北条様にたて突いたらしいのよ」
「北条に」
爺やはぎくりとして釣り糸の先が震えた。
「今度な家来の者が検めに来るらしいんだわ、島に」
「い、いつだ、それは」
「この二、三日の内だろ」
相棒の米吉は、話の調子を落とすと、大きなあくびを二つした。
海島が羽をはばたかせて島陰に隠れた。
早速家に帰り着いた爺やは、主に告げた。
ことの次第を聞いた一松は、顔面蒼白となった。
「噂は、真か」
「へッ、たった今裏の米吉が、かように言っておりましたんで。米吉は作った草鞋を、鎌倉によく売りに行くので確かな話だと思います」
「うむ、そうか、ならば、それまでに何んとかしなければならぬな…、やはり、これは何かあったに違いない、妙なことが起きなければよいのだが…」
そう言って一松は、白美のいる厩に若者を匿おうと寸時考えたが、それは余り良策ではないと算段した。爺やは爺やで、鎌倉で起きたことは対岸の火事であると、今までは軽く考えていたが、やはり自分のところにもこのような事態が及ぶのかと、大きな不安を持ってその日を迎えた。
そして二日後の早朝、島は静かに眠っていた。
島の入り口に舟が横付けされた。
漂っている四方八方の家の灯りがぽつんぽつんと点いては消え、三つの黒影は島の砂浜を踏み締めて一松の家へと近付いた。
鶏がけたたましい声で泣き始めた。
庭の外で、ざくざくと数人の足音が鶏の鳴き声と共に聴こえ、そして止まった。
「検めであるぞ」
痩身の男一人、そして、お付きの小男二人、北条からの仕えの者らしい。
一人の小男が垣根越しに言った。北条の仕えの者にしては案外、頼りない声である。
「おらぬのか、早くせい」
もう一度、庭に入るなり違う男の声が、飛んだ。
「へっ、ただ今」
一松達は庭へ出て膝間突いた。
鶏が驚いて羽を大きく広げて鳴いた。
「わしは、名越の北条邸に仕える笹尾十郎兼時という者だ。島に怪しい者が入り込んだという噂を耳にしてな、すまんが、検めさせてもらうぞ、よいな」
庭先で、笹尾十郎兼時は、眼をギロリと光らせて、膝間突いている一松をにらんだ。
黒目が妙にはっきりとしている。痩身だが肉付きはよい。剣も立ちそうだ。黒い小袖に黒い袴、帯刀はきりりと腰下に締められている。
「へぇ、どのような、お話か、とんと分かりませぬが何なりとお検め下さいまし」
一松は庭に手を突いて丁寧に辞儀をした。
「では、菊池、厩から徹底的に調べるのだぞ、よいな」
菊池と呼ばれた家来は帯刀は備えていないものの、棒のような物を手に持っている。
急かされるように爺やが案内し、厩の戸を開けた。
すると白美が人の足音に驚いて足をばたつかせた。小夜が宥めると、尚も耳を立て首を大きく揺らした。
「そっそこだ、藁の中だ」
捜索を任された菊池と呼ばれた男は棒を吉川に預けると、早速命令した。
「そうですね、藁の中が怪しいやねぇ」
厩の隅に積んであった藁の中をその棒で突き始めた。
「誰もいませんで」
「じゃあ鋤や鎌がある倉はどうだ」
「倉ですかい、ほれ、おまえら、道具はどこに仕舞ってあるんでぇ」
小夜に開いた口で、吉川は、
「これ、白美という名か、何かたいそうな名じゃなぁー百姓にしては、立派じゃないか」
と白美を蹴散らかすようにして棒の先を振り回した。しかし、道具の備えてある倉も、その怪しい気配がないと分かった二人は、
「裏だ」
急に菊池が叫んだ。
「そうすねぇ、裏の井戸か、または、さっきの厩の天井に潜んでいるんですかね」
吉川は、眼をギョロつかせて、再び厩の方を睨んだ。
そして、倉にあった槍を持って来てから、厩の天井を構えいなしに突いた。
その間に菊池は、裏の井戸に向かった。
井戸は、裏庭の真中にあり、井戸の側に桶のような物が置いてあった。
「おーい、誰かいるのかぁ」
菊池は、井戸の中に向かって声を張り上げた。井戸の中は薄暗く、ただ放った声音だけが不気味に返って来るばかりだった。
「やい、この水はどうした、誰かここを使ったのではないのか」
菊池は、小夜にしたり顔で聞いた。確かに井戸の周りが濡れていた。
「はい、今朝早く私が水を汲んだのでございます、それが、どうかしましたか」
「こんなに早くにか」
「はい、馬にやろうと思いまして」
小夜は、毅然として答えた。
菊池と吉川は、「ちぇっ」と舌打ちをしてから、顔を見合わせた。
「ひょっとすると裏山に逃げたんじゃあねぇか、どうだ、雑木林に隠れれば案外あいつは小ぶりだからな、隠れやすいかもな」
「ああ、行ってみるか」
二人は申し合わせるようにして、草を掻き分けるようにして進んだ。
草の根をしばらく進むと、野ねずみが猛凄い速さで草陰に隠れた。
「ねずみか、すると、もしかすると、ここかもしれねぇや」
鼻がきく菊池は指を下に向けた。
「そうすねぇ、やってみやしょうや」
菊地と吉川は庭に戻ると一斉に床下に潜った。が、潜るやいなや蜘蛛の巣に覆われた。
「おい、そこにさっきから寝ている者はだれだ」
庭で捜索の様子を眼で追っていた、笹尾十郎兼時が怒鳴った。
「はっ、あれですか、爺さんお偉い方じゃてな、ちょっと顔を上げんか」
一松は寝間に向かって、わざと声を膨らませるようにして、蓆に包まれて寝ている者に叫んだ。
「爺ぃちゃん今日は起きられんかい」
小夜もこっそり耳打ちをしている。
「何だで、今度は何所いくだ?」
老人は、しゃがれ声で頷くと、
「みよか、みよが来たんか。わしはもう何所にも行かせんぞ、こっちだで」
と言って捜索人の方を向いた。
白髪頭の総髪で、眼は窪み、おまけに片一方の眼はまゆげにくっつく程貧相で、しかも歯はところどころ欠けている。
「何じゃ、えっ、何所ゆくだ、みよか、上がれや、それ上がれや」
老人は手を宙に浮かせ、娘のみよを呼んでいるような真似をした。
「そうじゃないだで、爺ちゃん、お偉い方だで」
一松が老父に変装した若者を、宥めすかすように言うと、
「うむ、何んだ、爺ぃ様か、おまえんとこ、爺ぃ様がおったか」
兼時は、煩わしそうに言いながらも、案外納得したかに膝間突いている主に聞いた。
「へぇ、すみません。うちの奴が死にましてから、実家の爺ぃ様を引き取ったんですわ」
一松は、落ち着いた態度で言った。
「うむ、そうじゃったか」
「仕方ない、引き上げろ、怪しい者を見掛けたら知らせるのじゃよ、隠しだては無用だからな。これで、捜索は一先ず終わりぃ」
笹尾十郎兼時は、大きな声を張り上げると、二人の家来に付いて来いとばかりに、下草を押し退けながら山間の方へ歩いて行った。いずれ洞窟の方へも、捜索に行くのであろう。
一松は、朝の匂いがする潮風を背に、三人の後ろ姿をいつまでも見つめていた。
それから数日経って、小夜は祖根谷の館に呼ばれていた。
およそみ月半ぶりの館を眼の前にして、小夜は自ずと足が前へと進まなかった。
いっそのこと島模様の小袖に袴姿という普段のおてんば娘の格好で、この場を凌ごうと思ったが、それも叶わず薄い山吹色の小袖を着て出掛けた。
裏木戸を開けると、島に帰されたあの時の静かさと変わりなく、木橋が掛けられた池は遅咲きの花弁が池の淵に散っていた。
坊やは昼寝でもしているのだろうか。
熊笹や下草が生えた奥の部屋は陽はあるものの、つる草が、閉められた蔀戸にはびこっている。奥の離れからは、線香の匂いがして来る。
昼下がりの穏やかな調べの中に小夜だけ、一人残されてしまった、その失望感を感じ、閉ざされた部屋に向かって声を掛けるのを躊躇していた。すると、
「来ましたね」
後ろから、明正の声がした。
庭を散策していたのだろうか、蘇芳色の直垂に括袴の足元に、落ち葉が散っていた。
「はい、お寄びと聞きましたもので」
「あっそうであったな、ここでは何んだ、座敷で話そう」
明正は笑みとも怪訝ともとれない、顔付きで、先に立って歩いて行った。
奥の離れの蔀戸は、先程見た時とは違って、閉められていた。座敷には誰もいないようだった。と、隣の部屋は明り障子になってはいるが、やはり閉められていた。小夜は、ただならぬ不安を感じた。
縁石から座敷に上がると、明正は円座を小夜に差し向けた。小夜はそれを辞退した。
「話は、泰明のことだがな」
明正は決心したかのように言った。
「泰明の行方が分からんのだ。北条の家来が島にも捜索に入ったと聞いたが、そうなのか」
小夜は、強張りながらも、変なことを考えていた自分を、そっと胸奥に仕舞い込んだ。
「はい、先日北条様に仕えているという者が参りまして、家の中を見て行きました」
小夜は想像だにしなかった諸々の内容をかみしめるように受け止めてから、さり気なく答えた。
「やはりそうか…」
「では、泰明様に何かあったのですか」
小夜はことの起こりを唇で呑み込みながら、明正と面と向かった。
「詳しいことは分からんのだがな、あいつが逃げることがあっては、重大なことかも知らん。この館にも来てだな、色々捜し回っておったわい。今は北条が執権を握っているのでな、…ところで小夜殿は真に泰明を知らぬのだな」
明正は眉間に皺を寄せ疑いの眼を向けた。小夜は微動だにせず、
「はい、そのようなことは、決してございませぬ」
明正の眼がギラリと光った。しかも、相手を射ぬくような眼で…。
「うむ、ことの次第では差し出さねばならぬ。謀叛という難儀を掛けられてはな、言い返す言葉が見つからん」
明正はもう、小夜の眼を見ることはしなかった。
「……」
「ところで坊主に逢って行くか」
明正は急に穏やかな顔になった。
「お館様」
小夜は心の迸るのを止めることが出来ずに、だが、静かに話し始めた。
「私は、たとえ、泰明様をお見掛けしたとしても、お渡しするつもりはございませぬ。私は子を一人産みました。たとえ、その子がどのような境遇におかれようともその子を信じ続けるのが、私の切なる望みでございます。それを一心に胸に秘めてここまでやって参りました。……お言葉ではございますが、どこまでも信じて上げるのが、兄弟の、いや、親の、務めではないでしょうか」
小夜の声はおそらく隣室にいるであろう、奥方にも聞こえている筈だと思った。
「ふむ…」
明正はただ一言頷いただけで、今度は天井を睨んでいた。
「これでお暇を」
小夜は隣室の我が子の顔を一目見ようとして腰を浮かばせてみたものの、口に出た言葉は違っていた。
きしむ廊下を後にして、縁側の緑石から外へ出ようと、隣の、部屋の前を通り過ぎた。
ふとたんぽぽの綿毛が廊下の上に飛んで来た。
ふわ、ふわ
「あれをごらん、小太郎」
そう、開け放たれた明り障子戸の奥で、母親から見るように言われた子供は、よちよち四、五歩、歩いたあと、
「ふん、ふん」
綿毛を追って部屋の敷居に尻餅を搗いてしまった。
小夜は駆け寄って抱きしめようと腕を差し伸べたが、直ぐに引っ込めた。
「小太郎です…小夜様」
若い奥方はしばし、二人の様子を見入っていたが、思い余って話し掛けた。
「小太郎…様」
小夜は一言そう言って頷いた。
「どうぞお達者で…」
一礼すると廊下に膝間突いた。そして草履をそろえた。
それに何の意味もない。
庭へ下りると片隅で手招きする者があった。
小夜は咄嗟に身を隠し大奥のたえの方へ、歩み寄った。
「明正様のところへ伺っておりました」
小夜の声は、たえにやっと届く小さな声だった。
「あぁかたじけのぉ、小太郎に逢うたか」
大奥様は小夜を思いやってくれた。
「はい、立派に成長なされて」
「それはよかったのう、さあ、私の部屋にも来て下され、聞きたいことがあるのです」
たえは一瞬虚ろな眼をした。
部屋は離れになっていて中庭は敷石が敷かれ、花瓶には水が張られてあった。
釣り蔀は開いていたが、蔀戸は閉まったままだった。
「さあ、ここへ座って下され」
たえは円座を持って来て小夜の前へ差し出した。
「ここで、お話しすることは、二人だけの秘密にして下され。よいな」
大奥様のたえは、前置きしてから、
「のう、泰明が島にいるのではないかのう。もしそうならば逢わせてくれまいか」
たえは、手を突いて小夜に頭を下げた。
小夜はたじろいだ。
「いいえ、あのー」
「どうか、お願いします。泰明も可愛いのじゃ。そして孫の小太郎も。どうか行方を知っているなら、あの子に逢わせて下さい」
母親であり、孫の祖母でもあるたえの懇願は止まるところを知らなかった。
誰に頼めばよいのかと、一人悩んでいたに違いない。仏壇の亡き夫の位牌がこちらを向いている。
「はい、分かりました。大奥様のお気持ちはよく分かります。でも何故、泰明様があのようなことになられたのでしょう。あれは確か、私共の妹のかよがこちらにお伺いした数日前でしたか、その早朝、泰明様が刺し傷を負われて島に流れ着いていたのです。何か訳でもあるのですか」
小夜は単刀直入に切り出した。
「刺し傷を負ったとな。それは、真のことか、知らなんだ。何も」
「はい、島の浜に打ち上げられようとしておられました。大分瀕死の状態で、爺やと白美とで、家まで連れて帰りました」
「おお、有難や、よう、見付けて下された。で、今はどんな様子でいるのであろう、何でも構わないから話してくれまいか」
「ええ、見付けた当初は寝てばかりおられたのですが、傷も少しずつ癒え、今は時々起きたりしては、考えごとなどをしてらっしゃるご様子です。が、ご本人は、どうしてこのようなことになったのか、全くご記憶にないと申しておられます。そもそも最初は泰明様とは分かりませんで、お顔を拝見している内に泰明様ではないかと、それに何かお館様の方であったのではと、父が申しますもので」
「そうだったのですか…、それを明正に?」
「いいえ、知らぬと申しました」
「よく、堪えて下された」
たえは、小夜の手を握りしめた。結った白髪が、匂うほどに切なかった。
「私もよく分かりませぬが、色々考えてみますと、泰明が叔父の娘子に恋心を抱いていたようなんです」
「叔父様というと、先代のお館様の弟様」
「そう、娘子は泰明と同じ年です。それが叔父の又造が名越にある北条の館の見張り役をしている男に、娘を逢わせてな。それが原因かは分かりませぬがそんな話を耳にしたでな」
「そ、その見張り役というのは、まさか笹尾十郎兼時では…」
小夜は唇が震えた。
「そうじゃ、そのような名であった」
たえは、その日の夜の帳が降りはじめた頃、館を抜け出し懐には草鞋を忍ばせて旅路の人となった。
家人に見つかる訳にはいかない。足音がすれば犬も吠えるであろう。
山中、草鞋に履き換えると、いきなり草が雑然と生えた峠道に出た。
目指すのは、島の山間にある寺である。
そこで、小夜が泰明を連れ出して逢わせてくれる手筈になっている。
草鞋の隙間から笹の葉が、からんで痛い。けれど歩みを止める訳には行かない。何度も何度も木の根っこに躓いてよろけたが、その都度身体を立て直し毅然として歩き続けた。
月は朧に雲の間にあった。これまで、夫と息子を頼りとして生きて来ただけに、今回の騒動は解しがたいものだった。しかし、どこかで話しの内容を聞かなければ、という気持ちだけが先に立っていた。
森の奥でふくろうが鳴いている。辺りは鬱蒼として気味が悪い。風が自分の背中に張り付くように吹いている。
小半時も歩いただろうか、やがて村落に出た。
後ろを振り返ることなく、一心に歩いた甲斐があったというものだ。
だが、村落に出たものの、村人と出逢えば一完の終わりだ。家人に告げ口をされかねない。と、衣笠城の戦いの折り、息子達と避難した寺の裏通りに出た。寺の裏門に思わず「お助け下さい」と一礼してから岬へと急いだ。
道端にはたんぽぽの花が踏まれまいと、気にして咲いているかのようだった。
遅咲きの桜の匂いも、山の方からして来る。
「あれは、はて、たぬき?」
たえは、思わず道端に立ち止まってしまった。たぬきが、丸まって死んでいるのではないかと、思うが早いか、たえの鼓動が早くなった。だが、ただの丸い木の根っこであると分かると胸を撫で下ろし、更に歩みを進めた。
村落の東側の尾根伝いを歩いて行くと潮の匂いがして来た。なだらかな海面が少しずつ開けて見えた。
戦禍の中、この道を夫、和正も辿ったに違いない。
朧月夜の海の中に泰明の顔が浮かんだ。
何も分からず眠っている息子は、どんな夢を見ているのだろうか。
「おお、早く息子に逢いたい…」
6
数か月前…。
「だっ、誰かいるぞ、屋敷の裏だ」
見張り役の一平卒である菊池は、侵入者を追って裏門に回った。
「逃すなよ」
頭を務める笹尾十郎兼時の鋭い声が響く。
提燈をぶら下げた吉川が眼をこすりこすり、二人を追い掛けて行く。
「なみ様、私です。泰明です」
明り障子に向かって泰明はささやいた。
名越にある北条の館内は、松の大木や杉の木が乱雑に植っている。
丈高い土塁が館を囲み、簡単には敷地内に入れない構造になっている。
「分かりますか、泰明です。ここを開けて顔を見せて下さい」
なみの声は聞こえない。
ほんのりと人の影はあるのだが、釣り蔀が下げられていて、余り定かではない。
ひょっとすると、この部屋ではないのだろうか。以前遠侍の詰め所で今は他の場所に移転していて、ここは空いていると、叔父上の又造から聞いていた筈なのだが…。
「泰明様」
と、考えていると、か細い声が中から聞こえた。
「なみ様ですね」
「なみです。来て下さったのですね。私はもう、逢えないと思っておりました」
「いいえ、あなたのことを一日も忘れたことは、ありません。契りを結んだことを思い出して下さい。叔父上が何を言おうと私はあきらめません」
「父は出世を願ってしたことと存じます。どうぞお許して下さいませ」
「でも、このようなみじめなところへあなたを匿うなんて許せません」
「ここは、笹尾をはじめ、数人の遠侍が目を光らせております。危のうございます。どうかお気を付け下さいまし」
なみの手が明り障子の格子に掛った。
「いたぞ、あそこだ」
男の声が、闇を切る。
「分かりました。でもきっと助けに参ります」
と、泰明は床下にもぐるやいないや、闇深い裏山へと逃げ込んだ。
島がぽつんと見えて来た。
たえは、草鞋の間に入った草切れを手で払うと、深い溜息を吐いた。
あそこに、息子が眠っているのだ。それとも悲しい眼をしているのだろうか。
闇の波間から爺やと名乗る者が現れて、島まで舟で渡してくれた。
「かたじけのぉ」
たえは、爺やのごつい手を握った。
「はあ、寺で待っておられるがのぉー、本当は家に来て頂きたいと旦那さんも言っておられるんだが…人目があるからなぁ」
「はい、よろしゅうございます」
「ここまでどうにか来られましたので、後は、大丈夫だと思います」
爺やが道案内をすると言っても聞かず、たえは山間に足を踏み入れた。
しばし登った先で後ろを振り返ると半島の灯りがこちらを見ていた。
海面に一列に並んだ対岸の灯はまばゆくもあり、淋し気でもあった。
山間の寺は無人の寺で島民が交互で供え物や花を上げている。
小高い丘の竹藪の中にその寺はあり、たえは、本当に待っていてくれているのかと、不安になったが、足は心とは裏腹に自然と急ぎ足になっていた。
木の枝に烏が鳴いている。枝をゆり動かしながら鳴いている。
と、お堂の側に白い影が見えた。人影ではなさそうだ。
たえは夢中で掛け出した。白美だ。
「大奥様、よくぞご無事で」
と、白美の横で手綱を持って待っていた小夜が進み寄り、たえを迎えた。
「有難う存じます。ここまでどうやら参ることができました。して、泰明はどこに」
「はい、お堂の中におられます」
たえは、その声を聞くか聞かない内にお堂の引き戸を開けていた。
がらんとした堂内は足の置き場所も分からないほどの暗さで、仏壇は黄金色の仏像が鎮座していた。
静かな光輪の中に月の陰りが射し込み、仏像の姿を更に浮き彫りにさせていた。
泰明は眠らされてはいなかったのだ。
仏像に向かって。祈りを捧げ、おもむろに母親の顔を見る為振り返った。
「泰明、おまえ、生きていたのですね」
たえは、歩みよるが早いか身体を息子にあずけ、抱きしめた。
「母上、私は、この通り元気に回復しております。みなさんに助けてもらい、命拾いを致しました。してよくぞここまで」
泰明は高ぶる気持ちを抑え、母親に武士らしく毅然として見せた。
「おまえが、どうしているか、心配で寝ても覚めてもおまえのことばかり心に止めておりました。みな様に本当によくしてもらったのですね。ことの真相は私には分かりませぬが、兄の明正も心配しております故、心にあることを話せば、きっと分かってくれると思います。兄弟二人で分からない筈はありますまい」
たえは、一気に心の中を吐き出した。泰明は、
「はい、母上の、おっしゃりたいことはよく分かります。でも、相手はおそらく北条方の者でしょう。私は誰にやられたかは暗くて分かりませんでしたが、叔父上と舟で夜釣りに出たのだけは覚えております」
「何と、又造と、やはりそうであったか」
小夜は口に手を当て唖然とした。
「叔父上は、いつも俺は半端物だと言っておられました。一族の会議でも兄の父上には茶が出て、俺には茶が出んかったなど、ことさらひがんでおられました。私にも少しは、その心持が分からないものではありません」
「又造がそんなことを…。いいえ、父上もあなたの兄上もおまえ様のことをどんなに可愛がり、心配していたか私は知っております。この戦乱の世に生まれながら、いえ、お家を守る為、慮る余り敵味方に別れて戦った同志もいるという話をよく聞きます。でも心は一つです。私はそう思います」
たえは、泰明の手を取り、いつまでも見つめ合っていた。
帰路、さざ波の音を前方で聞き、たえは、爺やが提燈を持って待っていてくれた山間の麓まで下り終えると、
「よかったですなあ、逢えましたかな、息子様に」
一松の顔がそこにあった。懐かしい昔馴染みの顔が提燈の灯りで鮮やかに蘇った。まるで、もうこの世にはいない筈の主人の顔が、一松のそれと重なりあって、やがて緩やかに消えた。
「ありがとう、存じます。この度はたいへんお世話になりました。何と申し上げてよいのやら。もうしばらくこちらにご厄介になれば、あの子もあの子なりに考えると思います」
たえは、息子に対して切なる期待と共にそう謝辞を述べた。
「奥様、何の心配はありませぬ。わしら、先代のお館様にお仕えしていた身、今でも変わりありませぬ。ご安心なさっていて下さい。さっ、それより陽が明けてしまいます、どうぞお気を付けて」
たえは言われるがまま深いお辞儀をすると、爺やの待つ舟に乗った。
島が、後ろに小さくなるに連れ、半島は巨大な暗闇となって眼前に迫って来た。
先程と違って、さざ波の音を後ろで聞き、急かされるようにして来た道をまた、ひたすら思い出すように歩いた。
ただ、一松の言ってくれた言葉が、息子と逢えたことと同様に、一筋の光のように思えた。祖根谷家に嫁いで来て半世紀余り、それは何だったのであろう。
幼い息子達を守り、これからも物騒な世の中が続くであろうこの事態に母親として何ができるのか。やはり不安は募るばかりではあるが、とにもかくにも前へと進まなければならない。
ふと後ろを振り返った。朧月の下で小さく海が広がって見えた。
7
由比ヶ浜が近くに見えて来た。
白波が鳥の羽根のように、朝の風の中で飛んでいた。
島を半時前に出て、逗子を抜けて海岸線沿いに、一松は徒歩で来たのだ。鎌倉へ行けば、何か真相が掴めるのではと、いてもたってもいられず、島から出て来たのだ。
はて、そうすると、この浜に立つのは何年ぶりだろう。一松はふと思った。
と、突然懐かしさが込み上げた。
―あれは石橋山の帰り、戦いには足止めを食って間に合わなかったが、畠山と鉢合わせをして、ちょっとした行き違いから惜しくも合戦となってしまったのだ。
あれから二十余年の歳月が流れた。勿論、平家追討の折には三浦一族の従軍として合戦の地に赴いたことはあるにせよ、我らの総師である義明様を皮切りに、頼朝公も亡くなられ、次いで義澄様、そして先代の祖根谷和正様に、私の妻のみよも亡くなってしまった。
娘たちの子供も見ずに、いや、子を産んだが、手元に抱けない遠い存在の子を生んでしまった切なさは、死んだ妻が生きていたら何と言うだろう。
幾年もの間、主である祖根谷様に仕えていた者としては…。
大奥のたえ様には、安心するように言ったのだが、やはり複雑な思いは計り知れない。どのような環境にいようと、娘、小夜の子、つまり老いたる自分の血を分けた孫であるには相違ない。
そして正に、今はときめく北条の侍とやらに、二代目祖根谷の弟である泰明様に対して謀叛の疑いを掛けられては。あの北条の家来ならば、どんな謀をするかは、正に想像するも容易いことである。
何でも北条の館は、二か所あり、小町大路の方と名越の方にあると聞いている。泰明様から聞いた話によると、名越の館の見張り役であるのは、確かな話らしい。位置からすると名越切通しは山の方へ向かわなければならないのは、一松も承知しているところであるが、直接その地に探りを入れるのは必ずやよいとは、どうしても思えないでいたのだ。
山の中腹にそれはあり、深い木立に囲まれた館は、警護が固い上、夜中ならいざ知らず、朝方ではどう考えても危険であろう。
と、海辺の潮の香りが、身体ごと懐かしく思えた。それは、島の土色の臭いとはまた違う、人間の行き交う騒音と共に波頭に集まる大衆的な匂いだ。
…それにしてもこの鎌倉で、どれだけの血が流れたか…。
頼朝公亡きあと、頼家様の舅である比企一族の乱が起き、次いで頼家様は、伊豆修善寺で誅殺されたという惨い出来事…。
尤も一松が退官した後のことで、おおよそ米吉に聞いた話が主だが。
今後も、執権である北条がどれほどの力を持ち、政敵を倒して行くか。
行き交う人は、それを知ってか知らぬのか、急ぎ足で若宮大路方面へと向かっている。
売りに行く者らしく、籠を背負って重そうに歩く者。はたまた、どこかの郎党がそれを邪魔にして、足早に砂浜を通り抜けて行く。
今では一介の島民になった一松が、侍に変な因縁を付けられては元も子もないので、浜の端で野菜を売っている、親父に声を掛けることにした。しても、何と小屋に棚を出しただけの店構えである。
「いやあ、親父さん、景気はどうかのう」
人のよさそうな爺さんは、野菜を並べながら一松の方へと顔を向けた。どこか島の爺やに似ている。
「あ、ありがたいことで、まあまあじゃて。で、お客さんはどこから来なすったで」
「ああ、すぐそこから来たんだが、しばらくぶりで、何だよ、余りな変わりようで魂げたさ、で、ちょいと休ませてもらえないかのぉ」
一松は、腰にぶら下げた竹筒に入った水の詮を抜こうとした。
「ああ、そこらで休むといい、あっ、ちょうど人参が入っていた袋が空いたから、この袋を尻に敷くがいい」
「そうかい、それはありがたいな。人参か、後で買って行くとしようかのう」
「ああ、それなら取っておいた方がいいな。今日は賑やかになりそうだからよー」
「何か、あるのかい」
一松は、頬に垂れた水を腕で拭きながら聞いた。
「いやな、あそこで流鏑馬をやっているらしいだで。あんたも土産がてらに見て来なさるといいよ」
店の親父は、先の海岸線を指差した。
「えっ、流鏑馬っていうのは、馬上から矢を射るあれかのう」
一松は間髪を入れずに聞いた。実は、我が三浦一族も、笠懸というお家芸を競い合う催しがあり、一松は歩兵でありながらも馬を所有しているので、聞くまでもなかったが、相手がどのような勘ぐりを入れるか分からないので、話の内容を聞くに留めた。
「そうよ、ていしたもんだで、的に矢が吸い込まれるようになんだ、当たるっていう話だで。わしは、ちゃんと見たことはねぇのだけれどな」
米吉は今日、市は立つが、流鏑馬が見られるのではと、そんなことは一言も言ってはいなかった。それに、流鏑馬の行事なら八幡宮で行われるのは聞いたことはあるのだが、たまさか、どこかの武者のほんの稽古に過ぎぬかも知れず、尤も米吉本人は腰が痛くて今日は行かれないと、作日、小夜から聞いたばかりだった。
「そうか、そこの由比ヶ浜でやっているんだな。それでは、冥途の土産にでも観て来ようかのう。して、親父さん、人参を四、五本頼むよ、帰り必ず寄るからな、宜しく頼んだぞ」
「あいよ」
親父さんは、気持ちよく返事をしてくれた。
しばらく歩くと、なるほど人ごみが出来ていた。
「わぁ、すげぇ」「おう、ていしたもんだで、なぁ」
観ている者から溜息と拍手が交互に湧き起っている。
一松は、人垣をすり抜けて前へと進んだ。
砂埃が上がり、馬上姿の武者がこちらに向かって疾走して来る。
一松の方から見て海を左にして、稲村ケ崎側より走り出して、浜の入江の真中に竹を立てその割れ目に板を挟んで、それを的にして当てるらしい。
烏帽子をかぶり、白の直垂に黒の袴、凛々しい所作は一分の隙もない。
やはり、稽古らしく、立てた板の数も一カ所のみである。仲間なのか、いや、恐らく家来なのであろう、砂浜に膝を突き、的である板の横で畏まっている。
徐に弓を引く。
真一文字に矢が走る。
風が切り裂かれ、かちんとした音と共に、板が割れた。
少しの沈黙のあと、堰を切ったように見物人から拍手が沸いた。
馬上の武者は、安堵したかに笑みこそないが、手綱を緩め、走り込んで来た。
(おや、どこかで、見覚えがあるぞ)
(あの顔、得意そうで人を蔑むような顔、そうだ、あいつだ。目をぎょろりとさせ、島に検めに来た、…あ奴)
(なーに、こんなところで偉そうに稽古を見せびらかせていたのだな、して後ろ姿は?)
一松は咄嗟に人影に身を隠そうと、その人だかりから顔だけを出して、様子を窺った。
笹尾なる武者は手綱を返すと同時に、馬の腹帯の少し後ろを圧迫して、手綱を張り、来た方向に馬を走らせた。
「なんと後ろ姿も…、申し分ないな。肩がやや撫ぜ肩で、首が幾分長い」
(確か、笹尾十郎兼時と言ったな、うむ、間違いない…)
その馬上の主は、真中まで行くと放った矢を受け取るべく、家来らしい男に手を伸ばした。畏まって待機していた家来は、矢を片手で掴んでから両手を添え直して差し出した。
一松は、人垣に添って横に移動しながら、その様子を目で追った。
「おっ、待てよ、ひだり?…、確かに今、左手で掴んで渡したが…」
(待て、待て、あのおどおどした態度は、菊池…、あの時も一緒だった、奴だ、家をかきまわして行った奴、間違えない)
「おどおどするな、鎌倉武士の北条というところを見せてやれ」
「へえ、すいません」
菊池と思われる家来は、左手で新しい板を竹棒に挟んだ。
一松は人影から、思わず吐くように言った。
「何んとやはり、左利き」
そうだ、泰明が運び込まれて来た時に確か腹の傷は左から入ったものだった。右利きなら、わざわざ左の方向から刺す筈はない。
一松は確信した。そして親父さんの店だなに寄ってから、砂浜を後にした。
島全体がぽかりと海に浮かび上がった。
夏の季節に入ると、穏やかな風が、相模湾から吹いて来る。とはいえ、半島では、いつ戦いが始まるか分からない状況の中、各々の家では、槍や鎌などの武器を持ち、その時に備えていた。
一松は動き出した。
だが勢力争いの戦いではない。
先代の弟である又造に頼んで、笹尾一味を呼び出したのだ。
「こちらの舟にどうぞ。」
又造は、笹尾と菊池を案内した。
「よう、気が利くのぉー、本当になみ殿は待っておるのかな」
小舟の中には酒席も用意されてある。
「ふん、うまいことやってやがる」
菊池が鼻で笑った。
「はぁー、先から娘が何です」
「ほー、そうか。やっとその気になったか」
酒を飲みながら、笹尾は満面の笑みを浮かべた。
笹尾十郎兼時、相模の国の二俣川の在で、医者を志すも途中で挫折し、その後、北条の見張り役として頭角を現し、今や自分より弱い者には容赦がない。
満月が東の空に高くある。星もそれに寄り添うように静かに潮騒の音に調和している。
舟は島の裏より入り、海上でなみの待つ舟と合流する手筈になっている。島の裏手に村落はなく自然の宝庫ともいえる場所であった。
潮の流れは緩やかで打ち寄せる波頭はごつごつとした岩を、なめるように流れて行く。
「菊池様はこちらで何んです、私と一献を」
又造は、舟の舳先を足場のある岩根に着け、
「笹尾様は、この先にもう一艘舟を用意してありますのでこちらでお待ち下さいませ」
又造は鷹のような鋭い眼をした笹尾を一瞥すると、沖から来る舟を指差した。
「おお、気か利くではないか」
笹尾は、腰差しを更に低く下げてから一応は、警戒する素振りを見せた。
舟が着岸すると、頭から衣被衣をかぶったの女人が確かに乗っていた。
「うむ、なみ殿だな」
笹尾は笑みを浮かべ爺やの漕ぐ櫂を眺めていた。
(やっ、やっ、どこかで逢ったような)
笹尾は、腰の刀に手を掛けた。
「やぁ、なみ様が、お待ちかねです。私はどうもここの船漕ぎの者です。こんなおつなことは滅多にないですなぁ」
いつもの爺やの調子に、笹尾の顔も徐々に緩んでいった。
やがて、島の突先にある洞窟の前へ舟は行き当った。
「なみ殿、何故こちらを向いてはくれんのか」
しびれを切らした笹尾は、鋭い声に変わった。
船尾に座った女人の姿形は、月の満ち欠けと同じほど変化して見えた。
「はい、このようなところでお逢いするのは、初めてです故、恥ずかしゅうて」
なみと称する女人は、か弱い声をやっと出してみせた。
「ほう、そうか、では酒を飲めば良いではないか、うん?」
笹尾は自分が飲んだ盃を渡そうとした。
ともすると、舟は島の半周を回ると、砂浜に出た。
よく小夜と白美が掛け抜けた、あの砂浜だ。
そして、泰明もこの場所で救われたのだ。
爺やは、辺りを見回した。
月は西に墨色に沈んだ富士の山を拝んでいる。
「笹尾十郎兼時、よく来たな、待っていたぞ」
砂浜のどこからともなく現れた明正が、脇差しに手をか掛けて立っていた。
「何を、おまえは三浦の家臣、祖根谷だな、して、俺に何用だ」
「何用だ、と、胸に手を当ててよく考えてみろ。そこにいるのは、我が弟の泰明だ」
そう言われて、笹尾は船尾に座っている女人を振り返った。
その途端、泰明は、紫色の衣被衣を頭から取ると海に投げ捨てた。
衣被衣は裾まで広がって、海面で鮮やかな模様となった。
「弟よ心に剣を持て!」
明正の鋭い声が海面に響き渡った。
笹尾は、舟を降り砂浜に足を踏み入れた。二人の剣士は、面を向かい合わせ、波が打ち寄せる度に、袴の裾が濡れた。
「泰明を誘い出し、菊池を使って船上で刺すよう命じたのはおまえだな」
明正は、腹の底から怒りを現わにし、相手を威嚇した。
「何を証拠におまえ達のような、身分の低き者を相手にする俺ではないわい」
「いや、泰明の腹の傷は左手で刺されたものだ、叔父上が先の場所で菊池に白状させたのだ。命は助けてやるからと、言ったら簡単に白状したわい」
「うむ、あ奴、腰抜け目が」
笹尾は観念したように鯉口を切った。
その隙に水干姿の泰明は舟を降り、砂浜に着地した。
三人の影が、笹尾を挟んで波の汀に並んだ。
「心に剣を!」明正が怒鳴った。
泰明は腰に差した剣を笹尾の喉元に目掛けて構えた。腕に覚えは全くなかったが、笹尾は例の笑みを浮かべると中段に構え、身体を引き付けて来た。
泰明はその気合に圧倒され後退りしながらも、必死に相手から眼を離さなかった。
「何を俺が相手だ」
明正は、笹尾を威嚇するが、早いか、上段から面を狙った。
笹尾は咄嗟に頭を左に右に交わし、相手の隙を待った。
だが、力加減は双方とも差異は無く、二人はもつれ合い砂浜をじりじり、ねじり寄りながら剣の矛先を相手に向けることを止めなかった。
その時だった。
「えい」
泰明が笹尾の腹に一撃を加えた。
笹尾は振り返り、眼を泰明の頭上に投げ付けると、たちまち腹を押さえながらも泰明を追いかけ刀を振り回した。
泰明は無茶ぶりをする笹尾の剣を軽やかに飛び交わし機を狙った。
「構わず、止めを!」
兄の声が空を飛ぶ。
波頭が砂浜に上がっては引き返し、いつもの情景を物語っている。
「はい、分かりました」
「笹尾十郎兼時、ご覚悟を!」
泰明が叫ぶと同時に肩から、血飛沫を上げて砂浜の波を赤で染めた。
笹尾の亡骸は 、うつ伏せになったまま群青の海の波間を彷徨い、やがて見えなくなった。、かつて、泰明がこの海に漂っていた時のように……。
明正は、、刀を鞘に納めると、弟の肩を優しく小突いた。泰明は血のりした刀を懐紙で拭くと、小さく頷いて見せた。
叔父の又造は泰明に舟上の酒席に誘っただけで、ことの次第はまるで知らなかったと後で二人に事情を話した。
執権の北条時政は、「そんな戯言には関わっていられないわい」
と、お咎めは祖根谷兄弟には何もなかった。
墨色に沈んだ富士の山際は、海を囲むかのように、いつも通りに朝日を待ち望んでいた。
白美の白い脚は、砂浜に打ち寄せる波に、飛沫を立てることなく、脚をならしていた。
その振動と体温が、上にまたがっている小夜の身体にも充分伝わってくる。
島の先で、まだ黒く霞んで見える二つの影を、目で追う人馬は、祈りの他は何もない。
小夜は、白美のたてがみを撫ぜ、満ちる月に向かって、手綱ごと手を合わせた。
「いつの世も兄弟、仲良くして下され。泰明様となみ様のお子が出来たとしても、どうぞ小太郎と仲良くして下され。私は何も見届けることが出来なくも、あの月の下、いつ何時、何が起ころうと、そう祈っておりますぞ。…どうぞいつまでも仲良く…」
戦いの一部始終を見届けた一松も、白美の鼻先をそっと撫ぜて安堵した。
そう、祈り終えた後には、島の灯りがようやく点き始めた頃だった。
了
参考資料
相模豪族三浦一族鎮魂譜 砕けて後は、もとの土くれ 中村 豊郎著
相模のもののふたち 永井 路子著
炎環 同 上
北条政子 同 上
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