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苦悩の日々
ある男がいた。
この男は、いくつかの小説でミリオンヒットを出した小説家だった。
だがここ数年、男は伸び悩んでいた。50もそこそこになり、四畳半風呂なしアパートで世間を見返してやるんだと、寝食を忘れ物書きとして没頭していたあの頃が懐かしい。
今や、食うも寝るも困らない。
金は掃いて捨てるほどある。世間はよいしょよいしょと男を持ち上げ、数々の賞を取らせた。
「書店員が薦める本、一位」
「泣ける本、一位」
「次に流行る作家、一位」
モチベーションのあげ方を忘れた男は、原稿用紙を前に唸り声をあげた。
「だめだ、だめだ、だめだ!」
男は頭を抱えた。次はどんな話だと世間が注目している。ヘタなものを出せば叩かれる世の中だ。プレッシャーばかりが男にのし掛かる。
「少し、休憩でもしたら?」
優しい声色の女が、見晴らしの良い高層階にある男の仕事部屋へと入ってきた。
元担当編集者で今は妻になったこの女は、そっとコーヒーを差し出した。
「そんな、感動作にばかり捕らわれないで 例えば日常のこととか 短いお話でもかいてみたら?」
女のアドバイスに男はなるほど、と顔をあげた。
「確かに、同じような話では またか と言われる。気晴らしにもなるし、短編小説でも書いてみるかな」
男は久しぶりに筆が進んだ。
(風呂で宇宙を見た)
(草原に馬が現れた)
(クリスマスが誕生日)
……男は思い付く限りの、日常を織り混ぜた短編小説を書いていった。
「だめだ、こんな話を誰が読むのだ」
男が納得出来る作品は出来なかった。
そんな、ある日。
「コーヒー 淹れたから一休みしてね」
妻が置いていったコーヒーを口に運ぶ。
とたんに男は目が回った。根を詰めて寝ていないからか、それとも……
「コーヒーを飲むといつも眠くなるな……むにゃむにゃ……」
男は机に突っ伏して、そのまま目覚めることはなかった。
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