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「ご馳走様でした」
食べ終わった後は、空虚が残りました。
世界中で私一人だけが、過去に留められてしまっているかのような、まるで時が止まってしまったかのような、不思議な感覚でした。
もう二度と買うことはできない。もう二度と食べることはできない。
まだ現実味を帯びませんが、私はやがてゆっくりと、その悲しい別れを実感していくのでしょう。
そうして私は、当たり前のように思っていたことが、実は大きな奇跡だったことに気付くのです。
「……自分から関係を断つって決めたのに、何でこんなに、悲しいのかな」
今は、泣いても構いません。私は大粒の涙を鉄板の上に落としました。
さっきまで彼がいた、鉄板の上に。
「ごめんね、ごめんね……今まで、ありがとう」
何度呟いても、その声は彼に届くことはありませんでした。彼はもう、私の声が届かないお腹の彼方へと、旅立ってしまったのですから。
また、耳を澄ませば聞こえてくるようです。
彼が、じっくりと焼かれる時の、あの美味しそうな音が。
静かな真夏の夜。聞こえていた三種類の音は、二種類に減り、食欲をそそる狭い五畳半の部屋の中には、私と、美味しく焼かれた彼の匂いだけが、儚く残っていました。
「……見ててね。お肉様」
焦げた鉄板に向かって、辛いながらも、必死に作った笑顔で、私は言いました。
「あなたの分まで、私、絶対にやり遂げてみせるから」
彼はもういません。ですが、私の思い出の中に、彼はずっといます。
これからも、私の人生でたくさんの辛いことがあることでしょう。その度に、私は彼のことを思い出すのです。
彼の、濃厚で芳醇な味のする、あの姿を。
〜la fine(おしまい)〜
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