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第十一話 バシャバシャ
インターネットで知り合った北村さんから聞いた話
営業で地方を回っている北村は東北地方のある古物商で掛け軸を二つ買った。
骨董品など興味は無いのだが昼食をとろうと歩いていて古物商の前を通った時に見つけた。
鯉が滝を登っている絵で一目で気に入り、付いていた値段も五千円と安かったので買おうと店に入ると店主が勧めてきたのでもう一つの掛け軸も買った。
落款が削り取られていて作者不明だが両方とも見事なものだ。一つは三匹の鯉が滝登りをしている掛け軸でもう一つが澄ました顔をした一匹の猿が木の枝に腰を掛けている掛け軸だ。
仕事で地方を回って家を空けることの多い北村は家賃を払うのは勿体ないと実家の親と同居している。
同居と言っても北村の部屋は無い、実家は兄の家族が住んでいて余分な部屋は無いのだ。月に三度ほど一回で二日ほど泊めて貰うだけなので着替えなど少ない荷物を親の部屋に置いて貰い北村は客間で寝ていた。有り体に言えば住所だけ置いている状態だ。
掛け軸を買って帰った日は久し振りに五日間という長期休暇が取れたのでゆっくりと休むことにした。北村は普段旅行をしているようなものなので休みは専ら家でゴロゴロしている。兄には家賃代わりに毎月三万円渡しているし両親や甥っ子と姪っ子にも小遣いをあげていた。毎回、地方の名産を土産に買ってくる。家でゴロゴロしても北村を咎める者はいない。
季節は初夏、涼しげだということで鯉の滝登りの掛け軸を客間の床の間に飾り、猿の掛け軸は冬にでも飾ろうと床の間の左横、押し入れの天袋に仕舞った。
「うん、なかなかの物だ。五千円で買ったとは思えないな」
昼食後、掛け軸を見て満足そうに頷くと畳の上にゴロッと横になった。
生まれ育った家は落ち着くものだ。すぐにウトウトと瞼が落ちてくる。
〝バシャバシャバシャ〟
水音が聞こえてくる。義姉が風呂でも洗っているのだろうと寝返りを打った。
〝バシャバシャバシャ〟
水音は頭の上から聞こえてくる。風呂場は足を向けている方向にある。
「んん? なんだ。雨じゃないよな」
首を回して窓を見る。風を通そうと網戸だけにしてあるので雨が降ると大変だ。
「降ってないぞ」
雨など降ってはいない、窓からは心地よい風が入ってきている。
「気の所為か……寝惚けてたかな」
水音もいつの間にか止んでいた。
その日の夜、仕事から帰宅した兄と義姉、両親たちと北村が買ってきた土産を肴にちょっとした宴会をしてほろ酔い気分で床についた。
〝バシャバシャバシャ〟
水音が聞こえて目を覚ます。
「んん? なんだ……」
眠そうに枕元の目覚まし時計を見る。午前零時を少し回っていた。
「音が聞こえたような気がするが……あぁ小便か」
尿意を感じて上半身を起した。水音が聞こえたような気がしたのは尿意を感じて夢でも見たのだろうと思った。
トイレに行こうと歩き出した足に違和感を感じる。
「うわっ、濡れてる」
明かりを点けて辺りを見回した。床の間の前の畳がしっとりと濡れていた。
「雨漏り……じゃないよな」
天井を見るが濡れたような染みなど無い。
「何で濡れてんだ? 」
汗を拭うように置いていたタオルで畳を拭いた。
ふと顔を上げると飾ってある掛け軸が目に付いた。
「まさかな……」
涼しげに滝登りしている三匹の鯉を見て一瞬疑った頭を軽く振る。
「クーラー付けてたから気温の変化か何かで濡れたんだろう」
タオルをテーブルの上に置くと北村はトイレへと向かった。
用を済ませて寝床に付いた。
〝バシャバシャバシャ〟
眠りに落ちそうな耳に水音が聞こえた。
「水……」
眠そうに顔を顰め、重い瞼を上げて音の出所を探した。
(えぇっ!?)
瞬時に目が覚めた。
床の間に飾ってある掛け軸の中、三匹の鯉がバシャバシャと水しぶきを上げて泳いでいた。
「マジか!」
思わず声を出して上半身を起すと泳いでいた鯉たちがピタッと止まった。
「夢じゃないよな」
確かめに行くと床の間の前の畳がじっとりと濡れていた。
「この掛け軸……マジかよ」
怖いと言うより珍しいものが手に入ったという喜びが湧いてきた。
「掛け軸は濡れてないんだな」
描かれている滝や鯉を触るが一切濡れていない。
「鯉が泳ぐ掛け軸か」
これは自慢できる。畳を拭くと掛け軸を見ながら布団に横になった。
泳ぐところを確認しようと見ていたがいつの間にか眠っていた。
翌日、兄や両親に掛け軸のことを話すが夢でも見たのだと相手にしてもらえない、北村自身も当然だと思った。
「帰ってきて疲れてたからな……今日も起きたら本物だ」
その夜、期待しながら寝床に付いた。
〝バシャバシャバシャ〟
どれくらい眠っただろうか、水音に目が覚める。
その夜は掛け軸の方を向いて寝ていたので直ぐに目に付いた。
(ああ……やっぱり本物だ)
床の間に飾ってある掛け軸の中、三匹の鯉が水音を立てて泳いでいた。
確認しようと上半身を起すと鯉たちはピタッと止まった。北村は起きて掛け軸を触って調べた。
「起きてるとダメなのかな」
掛け軸には濡れた形跡は一切無いが床の間の前の畳がしっとりと濡れている。
「寝てる時だけ泳がれてもなぁ……昼間にでも泳いでくれればいいのに」
愚痴るように呟いてまた寝床に付いた。
〝バシャッ!〟
いつの間にか寝入っていた北村が水音で目を覚ます。
〝バシャッ! バシャバシャ、バシャバシャバシャ〟
今まで聞いていたより大きな水音に北村が掛け軸を見つめた。
「うわっ!」
思わず声が出た。黒い手がクネクネと動いている。
(なっ、なにが……)
北村は悲鳴を飲み込んで目を見開いた。
黒い手は掛け軸の中の鯉を捕まえようとしているように見えた。
(あれは?)
黒い手を目で追うと床の間の左、押し入れの天袋から伸びていた。
天袋の引き戸が十センチほど開いていてそこから細くて黒い手がにゅっと伸びて掛け軸の鯉を捕まえようとウネウネと動いている。
「猿か?」
天袋に仕舞ってあるもう一つの掛け軸が頭に浮んだ。
生まれ育った家だ。今まで変なものは見たことがない、今まで無くて新しく家に入れたものといえば二つの掛け軸だけだ。
北村の呟きが聞こえたのか黒い手が動きを止めた。
次の瞬間、黒い手が北村の元へと伸びてきた。
「うわぁっ!」
黒い手が北村の頬に触れた。そこから先の記憶は無い。
翌朝、目を覚ました北村は真っ先に掛け軸を確かめた。
「こっ、鯉が……」
声が震えていた。三匹いた鯉が二匹になっている。
二匹の鯉が滝登りをする絵に変わっていた。
「さっ、猿は?」
怖々と天袋からもう一つの掛け軸を取り出す。
「うわっ! 猿が……」
掛け軸を広げると同時に北村が悲鳴を上げた。
木の枝に腰掛けて澄ました顔をしていた猿、その顔が変わっていた。
天袋に仕舞う前は確かに澄ました顔をしていた猿が歯茎を見せてにぃーっと笑っている。
鯉は何処にもいなかったがその猿の顔から此奴が食ったんだと北村は思った。
不吉なものを感じた北村は猿の掛け軸と鯉の掛け軸を檀家である寺へと持っていった。
北村が話しをする前に住職は一目見るなり猿の掛け軸は善くないものだと言い放った。鯉の掛け軸からは別段何も感じないとも言った。
北村が件の話しをすると住職は悪さをする猿から助けて貰おうと鯉が怪異を成したのだと言った。二つとも描かれたものの魂が籠もっている掛け軸だとも教えてくれた。
長い年月を経て猿の掛け軸に何か不穏なものが憑いたのだろうと言うことだ。
北村は猿の掛け軸を供養して貰い鯉の方は家に持って帰ったという。
話を終えた北村さんが最後に付け足すように教えてくれた。
「猿の掛け軸を供養して燃やしてもらったときに何とも言えない肉が腐ったような匂いがしたんだよ、紙や絵の具が燃えるときの匂いじゃなかった。あのまま置いてたらって思うとゾッとするよ、三匹の鯉の後に猿は何を食おうとしたかって考えるとな」
二匹の鯉が泳ぐ掛け軸は今でも北村さんの家にあるということだ。
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