第十二話 おはよう

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第十二話 おはよう

 久しぶりに会った友人から聞いた話  友人の知り合いの西垣さんは高校一年生と二年生の二年間、新聞配達のアルバイトをしていた。サッカー部に入っていたので朝刊だけの配達だ。  早朝二時に家を出て近所の新聞配達所に行き、広告の挟まれた新聞の束を受け取って自転車で百五十軒ほどに配って回る。配り終って家に帰るのが五時前頃になる。  雨や雪の日は大変だが足を鍛える運動の序でにバイト代が貰える自分にピッタリなバイトだと言っていた。  西垣が住んでいるのは大阪の堺の外れ、だんじり祭で有名な岸和田の近くだ。町中に田畑が残る地方都市である。  毎朝新聞配達していると顔見知りが出来るものだ。  田畑が多いので早朝から農作業をしている人も多くいて西垣が高校生だと知ると朝早くから頑張っているねと挨拶をしてもらえる。何でもないことだが西垣は嬉しかったという。  新聞配達の終盤、町の外れの田んぼが並んでいる道を通ると「おはよう」と毎日のように声を掛けてくれるお爺さんがいた。並んでいる田の持ち主でこの辺りで一番大きな地主さんだ。  お爺さんは黄色の帽子を被り、首に白いタオルを巻いて灰色の作業着を着ていた。毎日同じ格好だ。  早朝から散歩がてら田を見回っているのだという、晴れている日は毎朝のように会うので西垣もすっかり馴染みになり缶コーヒーやお菓子に畑で取れた野菜などを毎日のようにもらっていた。  高校二年生の夏、晴れているのにお爺さんの姿を見ない日が十日ばかり続いた。 「お爺さん、今日も居ないな」  自転車のスピードを緩めて並んだ田を見回すがお爺さんの姿は何処にも無かった。並ぶ田の所々に案山子が立っているだけだ。 「暑さで病気になってなければいいんだけど」  姿を見せないお爺さんのことは心配だが連絡先はもちろん名前さえ知らなかった。一年半も毎朝のように挨拶をしていたがお爺さんと呼ぶだけで名前など聞いたこともなかった。お爺さんも西垣の名前を知らない、いつも「あんちゃん」と呼んで野菜などを手渡してくれた。  翌朝、新聞配達を終えての帰り道、声を掛けられた。 『おはよう』 「おはようございます」  お爺さんの声を聞いて西垣は自転車のスピードを緩めた。  普段は配達をしに行くときに声を掛けてくる。帰りはお爺さんも帰ったのか会うことは滅多に無かった。 「暫く見ないので心配でしたよ」  冗談っぽく言う西垣にお爺さんが抑揚の無い声で返す。 『おはよう』  いつもは西垣の元へとやってくるお爺さんは田んぼの真ん中当たりで動かない。 (聞こえてないのかな?)  自転車を止めると西垣はお爺さんに向かって少し大きな声で挨拶を返した。 「おはようございます。じゃあ帰ります」  何か作業していて手が離せないのだろうと西垣はペコッと頭を下げて自転車を漕ぎ出した。  それからお爺さんは毎朝、田んぼの真ん中当たりから『おはよう』と挨拶してくるようになった。以前は自転車を止めて二三会話をしていた。缶コーヒーや野菜なども貰っていたのが一切無くなった。西垣はお爺さんの機嫌を損ねることをしたのかと思い起こすが心当たりは何もない。  もともと名前も知らない他人だ。西垣も自転車を止めることもなく挨拶を返すだけになっていった。  雨が続いたある日、その朝は土砂降りだった。 「参ったなぁ……今日は寝る時間無いな」  普段は五時過ぎに帰って七時までの二時間くらい眠ってから学校へ行っていた。夜の九時に寝て二時前に起きて新聞配達をして帰ってからまた二時間ほど眠る。これで毎日、計七時間ほど眠ることになる。若い西垣にとって苦でも何でもない日常だ。 「二時間寝ないと午後から眠くなるんだよなぁ」  愚痴を言いながら合羽を着込んで家を出る、  その日、最後の家に配り終えたのは五時半過ぎだ。ここから新聞配達所まで戻るのに二十分ほど、報告して家に帰ると六時を回る。三十分ほどなら眠ることは出来るが中途半端に寝て寝坊するのは嫌なので今日は寝ないと決めて帰路を急いだ。 『おはよう』  大雨の降る中、声が聞こえて思わず自転車を止めた。  並んだ田んぼの中に人影が見えた。黄色の帽子を被り、首に白いタオルを巻いて灰色の作業着を着ている。あのお爺さんだ。 「おはようございます」  西垣が挨拶を返す。お爺さんは土砂降りの中、田んぼの真ん中で動かない。 『おはよう』  また声が聞こえた。 (えっ?)  驚いた西垣が辺りを見回す。  耳がじーんと鳴るほどの土砂降りだ。それなのにお爺さんの声は耳元近くで発せられたかのようにハッキリと聞こえた。 「おはようございます」  大声で返しながら西垣はお爺さんを観察するように凝視した。小雨なら何度か会ったが土砂降りの中でお爺さんに会うのは初めてだ。 『おはよう』  お爺さんの声を聞きながら西垣は硬直した。 (お爺さんじゃない……あれは、あれは案山子だ)  田んぼの真ん中、黄色い帽子を被った案山子が立っていた。 『おはよう』  黄色い帽子を被り、首に白いタオルを巻いて灰色の作業着を着た案山子が抑揚の無い声で言った。 『おはよう』  案山子が西垣の方へと歩いてきた。 「うわっ、うわあぁあぁ」  西垣は叫びを上げて自転車を漕いで逃げ出した。  青い顔をして戻ってきた西垣を見て心配した新聞配達所の責任者に案山子のことを話すとその人が神妙な顔をして教えてくれた。  あの田んぼの持ち主の地主の爺さんは二十日ほど前に亡くなっていた。田んぼのことが気になって案山子になって見に来てたんだよと言われて西垣も納得した。  話を終えた西垣が思い出すように付け加える。 「翌日、土曜日で部活も休みだったから案山子が気になって昼間見に行ったんだ。お爺さんと同じ格好をした案山子が立ってたよ、普通の一本足の案山子だったよ、でも雨の中見た案山子は二本足だったんだ。二本足で俺の方へ歩いて来たんだ」  一呼吸置いた西垣の顔から表情が消えた。 「案山子の顔が真っ赤だった。昼に見に行ったら普通の白色だったよ、でも俺に近付いて来たときは真っ赤だったんだ。あれに捕まってたらどうなってたんだろうって」  無表情で話す西垣の顔は案山子のように見えたと友人は言っていた。
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