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第二話 階段
今は都内のお洒落なマンションに住んでいる下山さんに聞いた話。
下山は大学生の頃、千葉県で一人暮らしをしていた。
お洒落とは程遠い二階建ての安アパートだ。屋根も壁もトタン張りで出来ている安普請という言葉そのものといった様子の昭和時代からあるアパートである。トタンの性質で夏は暑く冬は寒い、おまけに断熱材も薄いのか、冬は服を着込んだり、毛布を被ればいいが夏は暑くて大変だったという、家賃が管理費込みで二万円だったので我慢して住んでいた。
部屋は六畳間と四畳の台所がある。昔の作りなのでトイレと風呂が別にあるのは嬉しい、同じような部屋が四部屋並ぶ、上下合わせて八部屋だ。
アパートには鉄で出来た外階段が付いている。年季の入った階段だ。錆を剥がした後からペンキを塗り直して表面がボコボコになっていた。
下山の部屋は二階の階段横だ。誰かが上がり下りするとカンカンと音が鳴るので直ぐに分かる。
アパートの住人は音が鳴らないように気を使ってくれるので外部の人間かどうかは直ぐに分かって勧誘などの見分けが付くから便利だったという。
引っ越し当初は煩いと思っていたが一ヶ月もすれば階段の音にも慣れて別段気にもならなくなっていた。
三ヶ月ほどしたある日、下山はカンカンという音で目を覚ます。
「階段か……」
直ぐに階段を上がってくる音だと分かった。寝返りを打ちながら枕元に置いていた目覚まし時計を見る。
「二時半かよ、ったく」
深夜の二時にカンカンと煩い音を立てるなどアパートの住人ではなく外部の人間だ。
〝カンカンカンカン〟
足音が通り過ぎていった。
「煩いなぁ」
下山は愚痴りながら眠りに落ちていった。
翌日の深夜、下山が目を覚ます。
〝カンカンカンカン〟
階段を駆け上がっていく音が聞こえた。
「今日もかよ」
愚痴りながら枕元の時計を見ると深夜の二時半だ。
〝カンカンカンカン〟
足音が通り過ぎていく。
「新聞かな」
呟きながら寝返りを打つと目を閉じた。
翌朝、大学へ行こうと部屋を出て階段を下りて足が止まった。アパートの横、自転車置き場の傍に新聞入れがあった。各部屋の番号が振ってあり新聞は纏めてここに入れるようだ。
「新聞じゃないのかよ」
呟く下山に近所に住んでいる大家が声を掛けてきた。
「下山さんおはよう、今日は朝からかい?」
「おはようございます。サボると怖い先生なんで朝からです」
バツが悪そうに返す下山を見て箒と塵取りを持った大家が大笑いだ。
「あはははっ、そりゃ大変だ」
楽しげな大家を見て今なら話し掛けやすいと、深夜の足音の件を聞こうとして新聞入れを指差した。
「新聞ここに入れるんですね」
箒を杖のようにして持たれ掛けながら大家が返す。
「うん、階段の音が煩いって苦情があってね、七年ほど前にそこに入れるように作ったんだよ」
「そうなんですか……」
自分の自転車に手を伸ばす下山に大家が苦笑いをして続ける。
「でも今は新聞取ってるの一階の工藤さんだけだから意味無いけどね」
下山は自転車置き場から自分の自転車を引っ張り出そうとしていた手を止めた。
「じゃあ二階の人は誰も取ってないんですか?」
「そうだよ、一階の工藤さん一人だけだ」
にこやかな大家の前で下山が表情を曇らせる。
じゃあ深夜の足音は……。
「どうしたの?」
顔を覗き込む大家に下山が首を振ると自転車を引っ張り出した。
「いえ、何でも……遅刻するとヤバいんでこの辺で」
「そうだね、私の所為にされても困るからね」
大家が笑いながら掃除を再開するのを見て下山は自転車に跨った。
深夜階段を駆け上る足音は気になるが昨日今日の二回だけだ。この程度で苦情を出すほどでもないと考えた。
その日の夜、提出するレポートに手間取って布団に入ったのは深夜零時を回っていた。
「昼まで寝れるな」
寝酒にと飲んだ発泡酒が効いたのか、疲れた頭に酔いが心地好く直ぐに眠りに落ちていく。
どれくらい眠っただろう、喉の渇きに目が覚めた。
「小便」
尿意も感じて寝返りを打った時、音が聞こえた。
〝カンカンカンカン〟
足音が通り過ぎていく。
「上のやつかよ……」
寝惚けた頭がハッキリしてくる。
「一寸待て!」
思わず叫んでいた。
足音が上へ、二階で止まらずに上へ駆け上がっていったのだ。
下山がガバッと起き上がる。
「待て待て……上なんかあるかよ!」
頭が混乱した。二階建てのアパートだ。三階は無い、だが足音は上へと鳴っていった。
「マジかよ」
ゾッとした。悪戯なんてものじゃない、部屋の横、何も無い空間をカンカンという音が上がっていったのだ。
トイレに行って用を済ませ、冷蔵庫からお茶を取り出しコップに注いで飲むと人心地ついた。
「確かめるか……」
怖かったが表に出てみた。辺りを見回すが何も無い、誰かが居た気配すら無かった。
深夜の二時半を回っている。田舎の閑静な住宅街だ。辺りは静まり返っていた。
「寝惚けたのかな、酒飲んでたしな」
酔って夢でも見たのだとその場は自身を誤魔化した。
翌日、大学に行こうと昼過ぎに部屋を出るとアパートの敷地にある小さな花壇の手入れをしている大家さんがいた。
「おはようございます。昼ですけど」
自転車置き場から自分の自転車を引っ張り出しながら挨拶する。
「おはよう下山さん、今日はゆっくりだね」
「怖い先生の授業無いですから」
「あははははっ、いってらっしゃい」
大笑いする大家にペコッと頭を下げて自転車に跨った。
「いってきます」
少し漕いでアパートの敷地を出たところで自転車を止めた。
向かいのマンションの電柱の下に新しい花が供えてあるのが見えたのだ。
「忘れ物かい?」
ひょいっと首を伸ばす大家の前で下山が供えてある花を指差した。
「事故でも遭ったんですか?」
自分の居ない間に何かあったのかと大家に聞いた。
「ああ、あれね……そうか、もう一年になるなぁ、誰か供えていったんだな」
大家が何とも言えない表情で話してくれた。
丁度一年前、新聞配達の中年男性が深夜二時半頃に轢き逃げ事故に遭って亡くなった。
アパート前に建つマンションに新聞を配達しようととしたところを轢かれたそうだ。
「新聞配達か……」
思うところがあるのか下山が大きく頷いた。
その日の夜、二時半を回ったところで階段を上がる足音が聞こえてきた。
〝カンカンカンカン〟
下山は深呼吸をしてから口を開いた。
「間違ってますよ、向かいのマンションでしょ」
『えっ!?』
男の声が聞こえて同時に足音が掻き消すように消えた。
次の日から足音はしなくなったという。
「真面目な人だったんだな、新聞なんて適当に配ってりゃいいのに」
事情が分かると吃驚したけど怖くはなかったよ、そう言って下山さんは話を終えた。
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