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第三話 熊
山菜採りが趣味という竹中さんから聞いた話だ。
竹中は若い頃は東京でプログラマーをしていたが三十歳を超えると色々と知識が追い付かなくなってきて四十歳になったのを機に故郷である和歌山県に戻った。
今は小さな会社のパソコンを管理する仕事に就いている。事務兼、システム管理者だ。
両親は兄の住む大阪に移住していたので広い実家を一人で使っている。休暇を使って帰ってくる両親と兄一家のために山菜採りによく行っていた。
竹中自身は山菜は好きではない、子供の頃に食べ飽きたのだと嘯いているが本当は山菜独特の香りと苦みが苦手なのだ。
では何故山菜採りをするのか? 老いて山奥まで行けなくなった両親を喜ばせるためだけではない、山で飲む酒が旨いのだという。子供の頃に遊んだ山々で飲む酒が最高なのだ。
早春、休みを使って両親と兄一家が遊びに来ると連絡があり、前日に山へと入る。
近くの山の麓に車を止めた。
「筍は親父(おやじ)と朝にでも採りに行けばいいからタラの芽を重点的に探すか、楽しみだ」
弁当とワンカップの日本酒を二つに肴のチーズと柿の種が入ったリュックをポンと叩くと山道を歩いて行く。
先に入った人に採られたのかタラの芽は見つからない、枝はあるが肝腎のタラの芽は採られた後だ。
「遅かったか……全部採ると来年生えてこないからな」
少し残っている芽を惜しそうに見つめながら更に山奥へと入っていく、三十分ほど歩いて山道から外れて獣道を進む、この先は入ったことのない場所だ。
山の急斜面に作られた獣道を足下に気を付けながらゆっくりと歩いて行った。
「おお、あった。あった」
初めて入った山奥でタラの木の群生を見つけた。
「何が美味しいのか知らんがこれだけあれば親父(おやじ)も喜ぶだろう」
袋一杯採ると満足して近くの岩に腰掛けた。
「まだ早いかな……飲もうかな」
酒の入ったリュックを見てニヤついていると向こうの藪がガサガサと揺れているのに気が付いた。
「何だ?」
見ている間にもガサガサと藪が揺れている。何か大きなものが近付いてくる気配を感じて竹中は岩の後ろに身を潜めた。
(熊だ!)
竹中が見つめる先、ガサガサと藪を掻き分けて熊が出てきた。一メートル六十センチほどのツキノワグマだ。
(見つかるとヤバい)
危険を感じて身を固くしている竹中の前を熊が走って通り過ぎていく、まるで何かに追われているようだと思いながらも安堵しているとまた藪がガサガサと鳴った。熊が出てきた方角と同じだ。何が出てくるのだと竹中が隠れて覗いていると毛むくじゃらの生き物が出てきた。
(あれは……何だあれは)
三メートルはある灰色の毛をした生き物だ。
息を呑む竹中の前を毛むくじゃらの生き物が通り過ぎていく、どうやら熊はあれから逃げていたのだと気が付いて怖くなった竹中は直ぐに山を降りる事にした。
「熊にしてはデカい、まさかヒグマじゃないだろうな」
隠れていたのでハッキリとは見ていない、ヒグマなど本州に居るわけはないと分かっているが絶対とは言い切れない、何処かで飼われていたのが逃げ出したとも考えられる。
ヒグマではなく他の生き物ならそれこそ大変だ。ツキノワグマも逃げ出す三メートルはある生き物が危険であるのは考えなくとも分かる。
「さっさと帰ろう」
リュックを背負って藪を掻き分け歩き出す。
「向こうへ行ってくれてよかった」
幸いな事にツキノワグマと灰色の毛むくじゃらが走って行った方角とは反対だ。
足下に気を付けながら獣道を歩いていると脂と糞尿の混じったキツい獣臭が漂ってきた。
(ヤバいな……)
脳裏に先程の熊と毛むくじゃらが浮んだ。
危険だと思ったが他に道は無い、山の斜面にへばり付くようにある獣道だ。右側はとてもじゃないが登れない、左側はそれこそ足を滑らすと転がり落ちていく斜面だ。
(行くしかない)
竹中は覚悟を決めて慎重に歩を進める。
十メートルも歩いただろうか、匂いの原因が居た。
(やっぱり……)
あの灰色の毛むくじゃらだ。その足下にはツキノワグマが転がっている。
(食ってるのか)
灰色の毛むくじゃらはグチャグチャと音を鳴らして熊を喰らっていた。
竹中は必死で右の斜面に登った。しがみつくようにして急勾配の斜面を横歩きに歩いて行く、
(頼む、見つからないでくれ)
祈りながら毛むくじゃらの上を通って行く、その時、声が聞こえた。
『人か?』
斜面にしがみついた状態で竹中が左斜め下を見る。
『人が居る。人じゃ』
毛むくじゃらの化け物が見上げていた。
大きな猿のようにも見える。絡まっているのか、所々に木の枝や草が付いたボサボサの灰色の毛、その顔には毛は無かった。何処かで見た外国の猿のような、つるんとしたハゲ頭、だが猿ではなかった。付いていた顔は人間そっくりだ。彫りの深いお爺さんといった顔が付いていた。
『人は久し振りだ』
お爺さんの顔がニタリと笑った。口から顎に掛けて熊の血で真っ赤に染まっている。
『人は久し振りだ』
ニタニタ笑いながら見つめる化け物。
(食われる)
そう思った竹中は逃げ出そうとしたがへばり付かないと落ちてしまいそうな斜面では走ることなど出来ない。
「たっ、助けてくれ……」
絞り出すように言った竹中を見上げながら化け物が口を開いた。
『何を寄越す?』
何かを渡せという化け物を見つめる竹中の脳裏にリュックに入れてあるワンカップ酒が浮んだ。
「酒……酒がある。酒を持ってる」
震える声で言う竹中を見上げていた化け物がニタッと黄色い歯を見せて口元を綻ばせた。
『酒か……酒は久し振りだ』
酒に反応した化け物を見て竹中が続ける。
「酒をやるから助けてくれ、見逃してくれ」
『酒は久し振りだ』
化け物はこたえずに同じ言葉を繰り返す。
「酒はやる。酒はやるから……」
逃げられないと観念した竹中はしがみついていた斜面から獣道へと下りた。
「酒はやる。弁当もつまみも全部やる」
竹中はリュックに入れていたカップ酒二本と肴に弁当まで全て差し出した。
『酒は久し振りだ』
「人は久し振り」から「酒は久し振り」にセリフが変わっているのを聞いて竹中は見逃してくれると判断した。
「全部やる。全部やるから助けてくれ」
『酒は久し振りだ』
目の前でワンカップを掴んだ化け物を見て竹中はゆっくりと後退る。
『旨い、旨い』
化け物が酒を飲み始めたのを確認するとくるっと踵を返して早足で歩き出す。
キツい獣臭が匂わなくなる距離まで離れると滑り落ちる危険も顧みずに脱兎の如く駆けだした。
「助かった……」
直ぐに山道へと出た。幸いな事に化け物は追ってこなかった。
そのまま車へと乗って帰る。翌日やって来た両親や兄一家には何も話さなかった。話して何かあると大変だと考えたのだ。
今でも山菜採りには行くが山奥までは絶対に入らない。それと自分が飲む分の酒の他に二本ほど余分に持っていくようになったという。
「酒を持ってなかったら食われてただろうな」
竹中さんはそう言うとゴクリと唾を飲んで話を終えた。
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