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「いや、いやいや、待って、ちょっと待って、考えさせて」
アホ面をやめたアリスはチェシャ猫にタイムと身振り手振りをする。チェシャ猫は仕方ないと言うような顔をして、毛繕いを始めた。
チェシャ猫の茶トラ柄の毛は毛繕いだけでは足りないほどに艶がある。
アリスはその艶のある毛並みを見逃さない。
「その毛並みは絶対飼い猫」
「飼い主はいないけどお世話してくれる人はいるからね」
なるほど。
アリスは納得した後、違う違うと自分に言い聞かせるためにぶるぶると首を振る。
この夢は不思議の国のアリスの世界観のはず、それなのにチェシャ猫が野良猫なんておかしい。アリスが知ってる物語ではチェシャ猫の主人は公爵夫人。それなのに、目の前の猫はなぜ否定するのか。アリスは不思議で仕方ない。
「チェシャ猫が野良猫って、そんな設定おかしいじゃん!」
「設定? その言い方だとまるで僕が物語の登場人物みたいだね」
「だってそうでしょ? チェシャ猫は不思議の国のアリスの登場人物でしかないんだから」
チェシャ猫はアリスの言葉を聞いてきょとんとした後、すぐに笑いだした。ごろんごろんと転げ回りとてつもなく面白いことがあったような、そんな笑い方。
アリスはチェシャ猫の笑い方が気に食わずちょっと、と声をかけてチェシャ猫の動きを止める。
「なんでそんなに笑うの!? おかしい事なんて一つも言ってない!」
「おかしい事しか言ってないのに気づいてないの?」
相変わらずチェシャ猫はごろんごろんと転げながら笑ってる。アリスはその様子を見て心底嫌そうな顔になっている。
「あー、笑いすぎて涙が出てきちゃった」
チェシャ猫がしばらく笑い転げている間、アリスは地べたに座り込んでいた。
チェシャ猫の事を放置しても良かったのだが、アリスはチェシャ猫が初めに言った言葉が気になって離れられずにいる。
「ねぇ、初めにこの森は意地悪って言ってたでしょ? あれはどういう意味?」
「意味はそのまんま。森が意地悪なんだよ」
アリスはチェシャ猫に対して、話が通じない猫という印象を覚えた。それと、やかましい猫。アリスはこの短時間でチェシャ猫という存在が気に食わないとまで思い始めている。
「僕は傍観者でいるつもりなんだけど、道案内ぐらいしてあげないとね」
チェシャ猫がすたすたと歩く姿をアリスはただ見つめる。
「あれ? 付いて来ないの?」
チェシャ猫はアリスが付いて来てないのに気づいてその場からアリスに声をかける。
アリスはそんなチェシャ猫の様子をしかめっ面で見つめる。
「あんたは物語の登場人物かもしれないけど、傍観者って何? すごいムカつくんだけど」
「もしかして……僕、地雷踏んじゃった感じかな?」
アリスの様子ががらりと変わった事にチェシャ猫は気づいている。さっきまでの怪しんでる様子じゃない。チェシャ猫の事を完璧に敵と認識しているのがわかる。
「私は何もしない流されるだけの奴が一番嫌い」
そう言ったアリスの顔は酷く歪みチェシャ猫への敵意が溢れ出ている。
「このお嬢ちゃんを洞窟に案内してあげて」
チェシャ猫の一言で木々たちがざわざわと動き出す。
「木の間を通って行けば洞窟に着くよ」
チェシャ猫はしっぽをくるんと体にしまい込み、ちょこんと座っている。
「でしゃばってごめんね。洞窟の中の人によろしく」
ぶおん。
風が吹くのと同時にチェシャ猫の姿は見えなくなった。
アリスにとってチェシャ猫の姿が消える事は驚くことではない。不思議の国のアリスのチェシャ猫はそういう設定のキャラクター。
アリスはそんな事よりチェシャ猫本人に案内されている訳ではないけれど、チェシャ猫の言った通りに動いていいのかという事に悩んでいる。
アリスは気に食わない奴の言う通りに動くのが嫌で嫌で仕方ない。
だからと言って、他にどうすればいいか……アリスは頭をフル回転させても思いつかない。
「止まるよりは……マシなはず!」
どんなに気に食わない奴でも、今はそいつの言う通りに動くしかない。
アリスは短く息を吐いて叫び、自分に気合を入れて木々の間を歩き始める。
*
チェシャ猫の言う通り、木々が作った道の先には洞窟があった。中を覗いても真っ暗で様子がわからない。
「……あの、誰かいますか?」
アリスは洞窟の中に声をかけてみたが、返事は返ってこない。
チェシャ猫の言うことを信じるんじゃなかった。アリスは損をした気分になったと同時にチェシャ猫の事をさっきよりもっと恨めしく思う。
アリスはチェシャ猫をどうやったらぎゃふんと言わせられるか、そればかりを考えながら洞窟の中をずんずん進む。途中、ムカつく猫の事ばかり考えてる自分にムカつき始めて、無心になるように努力した。
「なに、これ」
何も考えずに洞窟の奥に進んでいたアリスの目の前に変な物が現れた。
物なのか、はたまた生物なのか。アリスはわからずにただただ立ち尽くしてしまう。
「ようこそ」
目の前のそれは突然喋り始めた。アリスは思わずびくりと体を震わせる。
「何をお求めだい?」
「何……って、何?」
「ここは帽子屋、それ以外に何が欲しくてここに来たんだい?」
アリスはチェシャ猫の時と同じ違和感を覚える。
目の前のそれはどう見ても芋虫。アリスは小さくなってないのに芋虫はアリスより少し大きい。
不思議の国のアリスでは、小さくなったアリスより少し大きい芋虫だったはず。この芋虫は普通に大きい。アリスは思わず気持ち悪いと呟いてしまう。
「気持ち悪いかい?」
「……うん、大きいのが嫌」
芋虫はそれから少しも動かなくなり、アリスはまたその場に立ち尽くす。
「もしかして……拗ねちゃった?」
アリスが声をかけてみても芋虫から返事は返ってこない。
「……ごめんなさい。もう気持ち悪いって言わないから喋ってよ、ね?」
芋虫、とはいえアリスにとっては洞窟の中で会った唯一の生物。ここで黙られては困る。
「ねぇってば、ごめんなさいって!」
痺れを切らしたアリスは芋虫に触ろうと手を伸ばす。
「レディ、触っては手が青色になってしまうよ」
芋虫の後ろから伸びてきた手に掴まれて、アリスは反射的に手を引っこめる。
「まだちゃんとペンキが乾いてなくてね。さっき補修作業が終わったばかりで、ペンキはまだ塗り途中」
芋虫の後ろからひょこっと現れたその人は、芋虫の体にべたべたとペンキを塗り始める。
アリスはその様子を不思議そうに見つめる。
「その芋虫は……何?」
「これは私が作ったんだ。こんな所に来るお客さんは少ないから暇でね。暇潰しで色んなものを作り始めたら思いの他楽しくなってしまって、今では帽子作りより得意かもしれないよ」
その人は得気な顔でアリスに芋虫の後ろ側を見せる。
芋虫の後ろ側は色んな細い線がごちゃごちゃとしていて、この芋虫が機械という事が一目でわかる。
「レディはどうしてこんな所に?」
アリスはその質問にどうやって答えればいいかわからず、悩んでしまう。
どこから話せばいいのか、チェシャ猫に会ったところから話せばいいのか、チェシャ猫という名前を思い出しただけでアリスはイライラとする。
「あぁ、立ちっぱなしではいけないね。こちらにおいで」
その人は洞窟の奥にアリスを案内する。
アリスはこれは流されてるんじゃないか? そんな事を考えたが、今はそうするしかない、そう自分で決めて後を追う。
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