真夏の迷子

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何もかも終わらせるつもりだった。 5年住んだアパートも昨日片付け終わったし、仕事も長い休みを取った。2年使ったパソコンのデータも整理したし、借金も1ヶ月前に完済した。冷蔵庫の中は昨日から空っぽだし、24時間ゴミ捨て可能なアパートだったから断捨離した荷物も全て捨ててきた。スマホも要らない写真やアプリは全部消した。書き置きも家に残してきた。もう思い残すことは無かった。 誰も知り合いがいない海沿いの町(街、というほど栄えていない)を選んで、何本も電車を乗り継いだ。 気温は連日40度近くまで上がっているせいで、日中出歩く人は殆ど居ない。朝見たニュースでは、今日も確か最高気温38度だったはずだ。 各駅停車しか停まらない無人駅のホームに降り立った瞬間、暑さで一瞬ぐらりと目眩がする。いや、暑さだけでなく虚しい迄の懐かしさも要因の一つだ、とどこか冷静な頭の隅で考える。 うだるような暑さのせいで風景が随分歪んで見える。 照りつける日差しも目の前の入道雲も現実の物なのになんだか夢の中みたいだ。 でも何もかも終わらせるのだから夢みたいなものか、と口の中で呟いて改札へ歩き出す。 この暑さも何もかも今の私にはどうでも良かった。 夏だというのにこの海にはほとんど人がいないということを教えてくれたのは4年ほど付き合った恋人だった。 ここは波が高くて岩浜だから泳ぐ人が少ないんだ、と得意げに言っていたのはいつだったか。 「俺、海が好きなんだ」と言っていろんな海に連れて行ってもらった。それは夏だけでなくどれだけ寒い冬の日でも変わりなかった。雪の降る日に高波の打ち付ける海に連れてこられた時には流石に風邪を引いて2日程寝込んだ。彼は一生懸命謝り、アパートまで来て看病してくれた。 人の多いビーチや近くに水族館のある海や、この町のように殆ど人気の無い海まで、沢山連れて行ってもらった。(もちろん海以外にも色んなところに行ったが、圧倒的に海が多かった) 大好きだった。いつか結ばれると思っていた。 一つ誤算があったとすれば、彼が妻帯者だったという事だけだ。 日陰が一つもない堤防の上をのろのろと歩く。 テトラポットに波が勢いよくぶつかって水飛沫となり、足元を少し濡らしたが全く涼しくはない。 確か20分ほど歩いたところに岩浜じゃなくて砂浜になっているところがあったはず、と記憶を頼りに歩いているのだが一向に見つからない。 喉も渇いたし汗が止まらない。いくら今日全て終わらせるとは言えこんなところで熱中症で倒れるのは本望では無い。 道路を隔てた先にある、シャッターの閉まった小さな商店の前に置かれた自動販売機でお茶を買い、そのまま軒先に座り込んで一気に飲み干す。暑さでぼんやりしていた頭が少しはっきりしてくる。 何も終わらせる事はないのではないか。 そんな考えが一瞬頭をよぎり、慌てて振り払う。 この町や沢山の海や愛を教えてくれたのは彼だったが、同時に人は簡単に裏切るという事も(ご丁寧に)彼は教えてくれた。 こどもができた、と彼に言ったのは3年前の事だった。喜んでくれるものだと思っていた。結婚できると信じて疑わなかった。彼は私だけのものだと。 「予定日は4月なんだって、遼ちゃんとおんなじ日に生まれるかもしれないね」と嬉々として報告した私とは裏腹に、彼は泣きそうな顔で俯いてしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。「雪ちゃん、」と私の名前を呼ぶ声は震えていた。 「雪ちゃん、俺実は嫁がいるんだ。2歳になる子供もいる。今まで言えなくてごめん」と俯いたまま絞り出すように言った。 それを聞いてすぐには理解ができなかった。嫁?2歳の子供?なんだか昼ドラにありそうな話だなあとむしろ冷静に考えていた。そして人は簡単に嘘をつくし簡単に裏切るものなんだな、と笑ってしまった。 笑い出した私を見て彼は「本当にごめん、でも一番好きなのは雪ちゃんなんだ、妻とは喧嘩ばっかりで離婚する気なんだ。頼む、別れたくない」と涙を流しはじめたのでますます昼ドラみたいだ、と更に笑ってしまった。 怒るでも罵るでも泣くでもなくただ笑う事しか出来なかった。 人は簡単に嘘をつくし裏切るし、簡単に壊れる。 「離婚が成立したら雪ちゃんと結婚するよ、子供はそれからじゃだめかな…」と彼に言われ(というより丸め込まれ)、私は中絶手術を受けた。 8月のよく晴れた暑い日に一人で産婦人科に行った。待合室は幸せそうな妊婦とその旦那や、新生児を抱いた母親ばかりで、私とこの人達との差はなんなんだろうと虚しくなった。 医者は淡々と手術の説明をして日程を決め、同意書にサインを促した。叱るわけでも諭すわけでも同情するわけでもないことに少し安心した。 手術には20万ほどかかり、そんな貯金は無かったので(私の手取りは15万しかないのだ)消費者金融から借金をした。子供を殺すためにお金を借りるのが悲しくて仕方がなかった。 手術自体はすぐに終わったし生理も1ヶ月半後には再開した。 自分の子供を殺したという罪悪感をよそに、体はどんどん再生していくのが怖かった。 あれから3年が経つが未だに彼は離婚していない。いつ離婚が成立するのか聞いても「今話し合っているところなんだ、子供の事もあるからなかなかすぐには決まらなくて」としか言わない。確かにそうなのかもしれないが、彼が簡単に嘘をつくというのは身をもって知っていたので最早期待すらしていない。現に彼のスマホの待受画面は彼とその奥さんと子供の3人で映った幸せそうな写真のままだ。 あの時彼の反対を押し切ってでも産めば良かった。死ぬべきだったのは私の子供ではなく私の方だ。 ずっとそう思いながらだらだらと生きてきた。 そうして全て終わらせる、という決断をしたのが1年前のことだ。1年かけてゆっくりと身辺の整理をしてきた。一瞬の気の迷いでやめるわけにはいかない、と唇を噛み締めて俯く。 結露したペットボトルから水滴が滴り、足元に模様を作っているのを見ていると、不意に地面が陰った。 人影だ、と認識して顔を上げると、そこに小さな男の子がぽつりと立っていた。 3歳くらいだろうか、無地の水色のポロシャツに半ズボンを身につけた男の子は私の顔を見ると、懐かしいような悲しいような顔をした。 周りに親もいないようだし、そもそも私とこの子以外に人が居ない。 子供の相手は得意じゃ無いんだけど、と思いながら口を開く。 「ええと、どうしたの?迷子?」 男の子は私を見つめ、はっきりとこう言った。 「…おかあさんが迷子になっちゃったの。だから僕はここにきたの」 ああ、自分が迷子になったと言うのは恥ずかしいし不安だからお母さんが迷子になったと言っているのか、と解釈する。私も昔迷子になった時「お母さんがどっかいっちゃった」と言っていたなと思い出す。 「おかあさんとここまで来たの?どこではぐれたの?」「おうちはどこ?」と目線を合わせて聞くが、男の子は首を横に振るだけで答えない。まだこの年だと住所もわからないか、と諦める。 「お名前は?」と聞いても何も答えないので流石に困ってしまった。周りに人もいなければ店もないし駅はここから20分ほど歩かないといけない(しかも駅も無人だ)。 途方に暮れて男の子の顔を見ていると、徐に 「名前、おねえさんがつけて」と言いだした。 変な事を言う子だなと思いつつ、呼び方がないのも不便なので少し考えて「…じゃあ、空くんで良い?」と聞いた。海と空しか周りにはなかったので、咄嗟に思いつくのがそれしかなかったのだ。 しかし彼は「うん!」と嬉しそうに頷き、にかっと笑う。その笑顔が誰かに似ている気がしたがすぐには思い出せなかった。 「僕ねえ海入りたい!」と空は私の手を引く。「ここは岩浜だから海入るの大変だし危ないよ」と止めるが、一向に気にせず「こっち!」とそのまま歩き出す。手を引かれたままなので私も慌てて立ち上がりついて行く。 迷いのない足取りで道路を横切り、堤防の上をずんずん歩いて行く。 「どこ行くの?」と聞いても答えない。 5分ほど歩いたところで空は唐突に岩浜へ飛び降りる。 「危ないよ!」という私をよそに「だいじょうぶ!ついてきて!」と軽い足取りでぴょいぴょいと岩を越えて行く。 そして辿り着いたのは私がいくら探して歩いても見つからなかったあの砂浜だった。 ずっと前、彼が穴場だと言って連れてきてくれたところだった。 「なんでここが…?」と困惑して空を見るも、彼は「ここなら入れるでしょ!」と靴を脱いで海へ走り出す。「おねえさんも来てー!」と言われ慌てて私も靴を脱ぐ。この子の親が見つからない今保護者は私しかいないのだ。海に入ってケガしたり溺れたりしては困ると思い、空に駆け寄る。 ぱしゃ、と無邪気に私に海水をかけて空は笑う。「たのしーね!」と服が濡れるのもお構い無しに手足で水飛沫を立てる。隣にいる私の服も必然的にびしょ濡れになる。しかし元々濡れる予定ではあったのでもういいか…と諦めて空の遊びに付き合った。 「なんでここ知ってるの?」と聞くと「教えてもらった!」と空は笑った。「誰に?」と続けて聞くがそれには答えず、悪戯っぽく私の胸のあたりまで水をかけてきたので私も笑ってやり返した。 そうやって遊んだ後今度は砂浜に戻り、砂の山を作り始めた。 「トンネルにするんだ」と言い、真剣に山を作っている。 太陽に照らされた横顔はやっぱり私のよく知る誰かに似ている、と思いながら見守る。 しばらくすると「おなかすいた」と空は言い出した。 「おなかすいたね…」と相槌を打つが、生憎食べ物は何も持って来ていない。どうしたものかと考えていると、空は手についた砂を払いながら立ち上がり、「あっちにお店あったよ」とまた私の手を引いた。 相変わらず太陽はじりじりと照りつけて肌を焦がしていく。時計を持っていないので正確な時間はわからないが15時過ぎくらいだろうか。太陽の熱気と地面からの熱気で頭がクラクラする。空はそんな事お構い無しに元気に歩いているので、子供の体力は恐ろしいものだ…と変に感心する。 駅の方へ少し戻り、踏切を渡って10分ほど歩いたところに小さなうどん屋があった。ここも昔彼と来たところだった。どうしてこの子は私と彼が行った所と同じ所に向かうのだろう?とぼんやりした頭で考える。 ショーウィンドウの中のロウで作られた埃を被った食品サンプルの一つを指差し、「僕これ食べたい」と言って空は私の服の裾を引っ張る。 「そうね、食べようか」と呟いて、少し開いている引き戸を開け暖簾をくぐると、腰の曲がったおばあちゃんがいそいそと水を持ってきて席を案内してくれた。 店内のぬるい空気を扇風機がゆるゆるとかき混ぜる。なんだか夢みたいだ、ともう一度思いつつメニューに目を落とし、空の食べたがっていた半熟卵の冷しうどんと、自分用にたぬきうどんを頼んだ。 空は「うどんっ、うどんっ」と歌うように言いつつ機嫌良く座って待っている。小さい子供にしては全然わがままも言わないし不思議な子だなと思いながら「うどん、楽しみだね」と笑いかける。 今日死ぬ気でここまで来たのに、何故見知らぬ男の子とうどんを食べようとしているのか?と疑問に思わなくもないが、この子の親が見つかるまでは動きようがない。 おばあちゃんがパタパタとサンダルを鳴らしながらトレーにのせたうどんを運んでくる。 「やった、ごはんごはん!」と言いながら空は箸をしっかりと握って食べ始める。箸の持ち方も正しくは無いしうどんを啜るのも下手くそで、ちょっと笑ってしまった。「ホラ口の周りついてるよ」と言いながら拭いてやる。途中までにこにこしながら食べていたが、大人サイズのうどんだと量が多かったらしくだんだん食べるペースが遅くなってきた。 「もう食べれん…」と上目遣いで私の顔を見るので、「いいよ私食べる」と笑いかける。それを見てほっとしたように空は笑う。正直私もお腹はいっぱいだった。でもそれ以上に、こんな光景を私はずっと夢見ていた。 子供が生まれたらご飯を食べに行ったりして、食べ切れない量を頼んでやっぱり食べれなくて、しょうがないなと言いながら私が食べて… それがこんな歪で不思議な形で叶っている。嬉しくもあり、同時に酷く悲しかった。そんな日常が私にも続いて欲しかった。涙が滲み、それを見た空が心配そうに顔を覗き込むので慌ててうどんを啜って誤魔化す。 店を出る頃には少し太陽が傾いていた。 遊んでお腹いっぱいになって眠くなったのか、空は目を擦り始めた。 「空、起きて。おかあさんどこに行くとか聞いてないの?」と改めて聞くが、眠そうに首を横に振るだけで明確な返事は返ってこない。 警察に行くべきか…とスマホで交番の場所を検索しているうちに空は立ったままうとうとし始めた。 「おかあさん…おんぶ…」と小さな声で言い、私の手を握る。おかあさん、という響きに胸が押し潰されそうになりながら「私はおかあさんじゃないよ」と心の中で呟く。きっと寝ぼけて間違えているのだろう。 交番は3キロほど歩いた先にあるようだった。既に夢うつつの空をおんぶしてえっちらおっちらと歩き始める。 なんだかおかしな日だ、と思う。死ぬつもりなのに見ず知らずの子供をおんぶして海沿いを歩いている。 傾いてきた太陽は汗ばんだ空の額をてらてらと照らしている。 背中の重みと温もりが、自分には二度と手に入らないものなのだと実感してまた涙が滲んできた。 中絶手術の後、生理痛が酷くなったので病院に行くと子宮癒着と診断されたのが2年前。手術をすればまた妊娠できるようになるとは言われたものの、そんな気力は無かった。それに子供を殺した自分に子供を産む資格など無いと思った。 彼にその事を話すと「手術を受けた方が良い」とは言ったがそれだけだった。 中絶手術すら費用を出さなかった男が、不倫相手の妊娠の為にお金を出すわけもないのだ。 楽観的で優しいところが好きだった。ただそれは言い換えれば無責任で八方美人だった。 一度、彼のスマホを見たことがある。彼の妻とのやり取りが残されていた。そこには喧嘩など無く、円満な夫婦のやりとりしかなかった。「今日何時に帰る?」「残業で泊まりになりそう…」「そっか、体に気をつけてね。帰り待ってます」「ありがとう、愛してるよ」なんて。見なければ良かったのに、それで私はもう一度裏切られたも同然だった。当たり前のように妻に愛を囁きながら他の女の所に泊まる男なんて、今思えば付き合うべきでは無かった。それを理解するには遅すぎた。 それから彼と何度も別れようとした。その度に「好きなのは雪ちゃんだけなんだ、妻に愛情は無いよ、信じてくれ」と泣きつかれた。もしかしたら本当にそうかもしれない、なんて一縷の望みに懸けて付き合い続けるも、彼が離婚する気配は未だに無い。 付き合うだけ時間の無駄だ、と気づいたのは最近になってからだ。それでもまだ、完全に彼を拒絶できない自分が情けなかった。 3キロの道のりを男の子をおぶって歩くのはなかなかの重労働だった。1時間ほど歩いているがまだ交番には着かない。 太陽はさらに傾き、海が夕焼けに染まってきた。 もぞり、と空が動く。「おかあさん…?」と小さな声が背中から聞こえる。 「おかあさんじゃないよ」と今度は口に出して言い、「起きた?」と立ち止まって肩越しに話しかける。 「うん…」とまだ半分寝たような声で空が答える。「重いでしょ、降りる…」と言ってゆっくり背中から降りてくる。 ごしごしと目を擦る空の手を引き、また歩き出す。 どこかでヒグラシが鳴いていて、それを聞いていると何故か物悲しい気分になる。 オレンジ色の波が寄せては返すのをぼんやり見つめながら空は口を開いた。 「おねえさんは、おかあさんだよ」 一瞬、何のことかわからなかった。 「…私は空のおかあさんじゃないよ?」と顔を覗き込んで言うが、空は首をぶんぶんと横に振って俯き、立ち止まった。私と繋いでいない方の手は小さく震え、服の裾を握っている。 「あのね、おねえさんは僕のおかあさんだよ。 僕最初に言ったでしょ、おかあさんが迷子になっちゃったからここに来たって。だっておかあさん、まだこっちに来ちゃだめなのに来ようとするんだもん。」 「なに、を…言ってるの…」 戸惑う私を尻目に、空は続ける。 「僕ずっとおかあさんのこと見てた、こっちにいたのはちょっとだけだったけどおかあさんと一緒にいれたんだもん。僕もおかあさんに会いたいし一緒にいたいけど、おかあさんはまだこっちに来ちゃだめなの。でもほんとに来ちゃいそうだったから、うえのひとにお願いして今日だけ僕こっちに来させてって頼んだの。」 「そんなこと…ありえないよ…」 「ううん。あのね、おひさまが沈んだら僕は消えるんだ。だからほら見て」と服の裾を掴んでいた方の手を私の顔の前に持ってきた。しゃがみ込んで見ると、彼の手は少しずつ太陽の光に透けてきている。 「そんな…なんで…ありえないよ!」 「だからね、迷子になったおかあさんにちゃんと生きてもらうために僕は来たの。あとね、おかあさんと一緒に遊んだりご飯食べたりするの夢だったんだ。ちょっとだけだけどそれができてたのしかった」と空は顔を上げて笑う。 「ほんとは死んだひとがこっちに来るのはだめらしいんだけどね、いかせてくれないならずーっと泣くぞーって言って来たんだ。すごいでしょ」と自慢げに言う。 ぼたぼたと私の目から涙が落ちる。 「そんなの…だって私は自分勝手な都合であなたを殺したんだよ…?」 空はまたにこっと笑い、私の頭をそっと撫でた。 「ころされたなんておもってないよ。僕はおかあさんとすごせて楽しかったもん。」 太陽が地平線の向こうへゆるゆると沈み始める。辺りは少しずつ夕焼けのオレンジ色から夜の薄紫色へと変わっていく。 そして緩やかに空の体も透け始めた。 「そろそろ帰らなきゃ。」と小さく呟いて私からそっと手を離す。 私はゆっくり膝をついて消えゆく空をぎゅっと抱きしめた。少しの汗の匂いと、子供の甘い匂いがした。 「私も…私も、空と今日みたいに遊んだり、ご飯食べたり、おんぶして歩いたりできて幸せだった。ありがとう。…私のためにわざわざ来てくれたんだね。ごめんね…」 空も私をぎゅっと抱きしめ返して言う。 「あやまることないんだよ、おかあさんは悪くないよ。だからね、僕がまたいなくなっても、おかあさんはちゃんと生きてね…」 だんだん声も微かになってきた空をもう一度強く抱きしめて、そっと離れて彼の顔を見つめる。 「…ありがとう。私の元に来てくれて」 太陽はもう海の向こうへと沈もうとしていた。 空は笑ったまま私から一歩離れ、「ありがと」と言って手を振った。その手を握ろうと手を伸ばしたものの、何も掴めないまま空はふわりと消えていった。 辺りはもう濃紺に染まっていた。ふと上を見上げると、たくさんの星が輝いていた。 帰ろう、と膝についた砂を払って立ち上がる。死ぬわけにはいかない。だって空が会いに来てくれたのだから。 空が誰に似ているのか思い出したのは帰りの電車の中だった。電車の窓に映る自分の横顔と空の横顔は鼻筋や口元がよく似ていた。 なんだ、自分に似てたのか…と今更気づいて小さく笑う。 私は生きなければならない。 もう帰らないはずだった家に帰り、電気をつけると、断捨離したおかげで殺風景な部屋が目に入る。 それも悪くないよ、と笑う。新しく生きるには丁度良い。 机の上の書き置きを捨て、ポケットに入れていたスマホを取り出して、彼の連絡先を消去した。 私は生きなければならない。会いに来てくれた空の分まで。 きっとこれから先も海を見れば何度も思い出すだろう。私を裏切った彼では無く、私を助けるために来た空のことを。 夢のような今日の、ひと夏の思い出を、私はきっとずっと忘れない。
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