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嫌な思い出は、すぐに心に浮かび上がってくる。でも、楽しかったはずの思い出は(忘れているわけでないのに)一体どうして、はっきりと心に浮かび上がってこないのか。
私は今の自分の気持ちをスマホの画面に打ち込んだ。
“嫌な思い出ばかりがすぐに心に浮かんでくるのって、私、変なのかな?”
このメッセージを送信する。送信相手は“C”という人だ。Cさんはネット上のフレンドで、実際に会ったことなんてなかった。おそらく、この先も実際に会うことはないだろう。それだけに自分の気持ちを素直に伝えられる相手だった。
“変じゃないよ。嫌な思い出は心に傷を付けてるから”
こういうきちんと返事をしてくれるCさんを私は信頼していた。
“傷跡は、その時何があったのかをすぐに思い出せる”
“なるほど”
“でも、まあ、ね。心の古傷のことばっかり思い出してるのは、そうだね、あなたは退屈しているんだよ。だから、嫌な思い出ばかりを心に浮かべて、、、悲劇の主人公という自分にドキドキしてる”
Cさんのその長文に、ガーン!――と私は心に衝撃を受けた。ああ、これも心に傷が付いて、この先何度も嫌な思い出として心に浮かんでくるのだろうか。
緊張してスマホの画面をつつく指先が震える。
“とどうすれ?”
打ち直す。
“どうすれば?悲劇の主人公から脱出できる?”
…。……。………。
Cさんの返事はなかなか返ってこなかった。面倒くさい人だなって思われた?
“どうすれば。じゃあ見せてあげる”
右を見て、とCさんは文字で私に指示をする。指示通りに私は右を向いた。
昼休みの教室内。昼食を終えたクラスメートたちで賑やかだった。
毎日変わらない日常という光景。しかし、Cさんから右を見てと言われて、そこに見えたものは――、
「ああ、美味しかったぞ!」
クラスメートの田中聡太が、満足そうに昼食を終えたところであった。彼はなぜか涙を流していた?
そんな田中くんを他のクラスメート男子たちがからかうのは当然のことであった。
「右手で箸を動かしなら、左手でスマホを操作してて、涙を流す。それで食べているものの味がわかるとは、感心するわ」
「いやはやなんとも。母ちゃんの手作り弁当で毎日そこまで感動できる奴は珍しい」
「だってよぉ」
田中くんは涙を服の袖で拭った。
「うちの母ちゃんが手作りの弁当を作ってくれるなんて、めったにないんだよ。俺を高校に行かせてくれるための看護士の仕事が忙しくてよ」
「そういや、お前、父ちゃん……」
「俺が小学二年生のときに天国へ行ったと母ちゃんが」
ここで田中くんの話を聞いていた周りのクラスメートたちが泣いた。
「ぶわっ。俺も涙が。母ちゃんの手作り弁当、いいよな」
「ちょっと、それは忘れられない良い話よ」
私もなんだか泣けてきた。悲しい涙ではない。嬉し涙ってやつだ。
スマホの画面にCさんからのメッセージが流れた。
“心に傷が付くほどの思い出は、すぐに心に浮かんでくる”
Cさんからのメッセージを私は理解した。
“そうか。良い思い出を心に刻めばいいのね”
私の言葉をCさんは否定した。
“心に刻んでは駄目だ。心に残すんだよ”
“どうやって?”
“良いことがあったら、泣けばいいのさ。嬉し涙は悲しい涙よりもはっきりと心に絵を描いて残してくれるんだ。俺を見れば、わかってくれるよね?”
私は田中くんと目が合った。Cさんとは田中くんだった。
私と田中くんの目に涙が溢れた。そして、この瞬間が1枚の絵となって私たちの心に残った。
私はこの先たくさんの涙を流すだろう。泣いた理由は嬉し涙のほうが多いに違いない
<終わり>
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