死神の仕事 2

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死神の仕事 2

 黒いコートの男は、とある街角に立っていた。  その男は今、車道が十字に交差する交差点の一つの角に立ち、そばの横断歩道の辺りを見ている。  周囲の人間が、少しソワソワとしていたり騒がしかったり、悲しげだったりするのとは違う。興味本位でも好奇の目でも無い。それは彼にとって「見届ける」という仕事。だから感情は微塵も感じられない。  今多くの人の目の前で、男性が一人倒れている。横断歩道にまだ信号か青に切り替わらないところへ一匹の猫が飛び出し、それを保護しようとした男性をはねた車は、そのまま少し直進して左のガードレールに接触して、その弾みで右車線に飛び出して、対向の車が危うく逃れて、そして反対側のガードレールにまたぶつかってようやく止まった。運転していた男は、運転席でしばらく呆然としていたが、自分の車がもう動かないことを理解して、車を降り、車のことを気にしている。運転手は今誰かをはねたということに気づいていないのか、それとも興味が無いのか、はねられた男性のほうを見ない。通りすがりの誰かに、「あなたの車が人をはねた」と言われたのだろう、それでやっと振り向いて、それでもそこからその運転手は動かない。今度はその現場に近づくことが怖くなったのだろうか。微動だにしない。誰かに何か言われ、背中を小突かれさえして、やっと倒れた男性のところへフラフラと歩み寄った。  黒い服の男はまだ、倒れた男性を見ている。  救急車が到着して隊員が降りてくる。パトロールカーも数台駆けつけてきて、警官により即座に車線は規制され、手信号で車が誘導される。そういう周到さがさらに周辺の人々の目を引きつける。周辺が赤色の回転灯とフラッシュライトとで赤く浮かび上がる。ビルの上の窓からの多くの人が見ている。指さして何事か話し合う人。一連の出来事を語って聞かせて周りの歓心を買う者。  車にはねられた男性は救急車に収容され、しばらくして、どこかの病院へ向かって走り出した。救急車が走り去ると、急に妙な寂しさが辺りの人々を包み、切りを付けてこの場を離れていく者もいる。  次の興味は事故を起こした車の運転手に移り、みんな彼を見ていたが、しばらくして警察のワゴン車に入って姿を見ることができなくなると、観衆の興味は一挙に失せたようだった。  黒いコートの男は、被害者の男性を乗せた救急車が走り出して少ししたとき、顔を上げて宙に目線を移し、それから向きを変えると、まだ動かずに居る周囲の人間たちをすり抜けて歩き出した。  この黒いコートの男はこれで仕事が終わった。「見届けた」ということだ。救急車に乗せられたあの男性は、その命が尽き、今行われている救急隊員たちの行動も、もはや意味が無くなっているのだと言うことだった。  運ばれていった彼の名は久司。そして黒いコートの男の足元にはさっき久司が助けた猫が佇んでいた。 「映画館のそばのコーヒーショップのその前の街路樹の横」。今ここに立っている彼女の名は恭子。  もう少しいい場所で待ち合わせれば良さそうだが、久司が指定するのは、いつもそういう場所だ。 「離れたところからキミを見つけたとき、うれしい気持ちになれるから」という。  空は夕方になって急に雲が出て来て、街は一遍に暗くなった。  繁華街からほど近いこの辺りは人通りも多い。恭子は久司が来るであろう方向をしばしば背伸びをするように見ている。そこへ男が二人近づいた。 「誰か待ってるの?」  恭子に男が声を掛ける。ナンパだ。  男たちは物慣れた素振りで、背景に暴力的な怖さを漂わせて恭子に迫る。恭子は街路樹の影に追い込まれて困ってしまう。 「ネ。イイじゃない」男の一人がにやけた顔で、作った汚らわしい優しげな声で囁く。  道行く人も、「そこで何か起きている」と言うこと以上の興味は示さない。  そこへ、暗くなった空が雨を落とし始めた。これは、「急に強く降るタイプじゃないか?」そう言う降り方の雨だった。 「雨も降ってきたしさ」  ナンパの男は説得力の無い説得を続ける。そこへさらに、男たちの後ろに立った者がいた。黒いコートの男だった。恭子が彼を見、ナンパの男たちが振り返る。 「誰だ。なんか用か?」  ナンパの男らは黒いコートの男に凄んで見せる。が、黒いコートの男が彼らにサッと一瞥を投げかけると急に、ライオンとの不利な戦いを避けるハイエナの様に怖じけて後退り、 「チェ、男が来たってよ」恭子にひと吠えして彼らは去った。  恭子はもちろんこの黒いコートの男は見ず知らずだ。自分が困っていると見て助けてくれたのだと思った。 「ありがとうございました」  恭子は黒いコートの男に謝意を述べた。けれど、黒いコートの男に表情は無い。何も言わない。だが黒いコートの男はしっかりとそらすこと無く瞬きすらせず恭子の目を見ている。  急に雨が強くなった。「もうここに立っているわけにはいかない」そう思った恭子の眼前に黒いコートの男が長傘の中程を掴んで差し出した。  理由(わけ)が分からず困惑した顔の恭子に、黒いコートの男は更に「受け取れ」というように二度、傘を揺らして見せた。濃い黒の布地に木製の柄がついた……、 「これ、って……」  恭子は不思議なものを見る顔で傘を見、そして黒いコートの男を見た。黒いコートの男は、黙ってまた更に傘を恭子に押しつけるように差し出した。恭子はとうとう差し出された傘の柄を握った。すると黒いコートの男は、今まで恭子を見ていた強い視線をプイとそらし、何も言わず向きを変えて歩き出した。恭子はその男の後ろ姿が雨に追われる人々の中に消えて見えなくなるまで見ていた。 「この傘。久司の……」  彼女は、雨が叩きつけるように振り出して頬を肩を打っても、まだ握りしめた傘を見、いつの間にか抱きしめて、そして久司が来るであろう方向を見つめていた。黒いコートの男は、夏の熱気が降り出した雨の匂いを立ち上げて霧のように巻き上げる中に消えて行く。  背後で少し甲高い声が聞こえた。 「久司!」  黒いコートの男が振り向くと、遠くに、恭子の前に男が立っていた。 「フフ。あの猫……か」  黒いコートの男は、また前を向き雨の中に戻っていく。
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